■作品内容
近・現代史を学ぶのは、過去を謝罪するためではない。感情的な教科書論争や
史観論争の不毛な議論を超えて、事実に対する冷静な視線の大切さとこれからの
歴史授業のあり方を問い直すリアルな提言。
【著者紹介】
1951年東京都生まれ。横浜国立大学大学院修士課程修了。
専攻は学校教育学。
小学校教員を経て、現在、民間教育推進機構常任理事等を務める。
【書評から】
教科書問題から始まった歴史認識の問題は、日本の近現代を児童、生徒に
どのように教えるのか、といった純粋な教育問題を離れて、日本人全体が
歴史とどう向き合うのかという問題に発展した観がある。そしてその究極
は近代、日本が戦った各戦争をどう認識するのかといった、いわば一面では
日本人のアイデンティティーへの問いかけ、一面ではイデオロギー的踏み絵
の様相をみせている。(中略)
著者は小学校の教員だった経験から、こう断言する。
「歴史授業に限らず、学校では『正義』を教える必要はない。学校で教え
るのは『事実の追求』の仕方であるからだ。あの戦争は間違っていた、
という経験から授業を組み立て、その結論に子どもを導こうとする。
それはとんでもない思い上がりである。絶対の正義など、この世の中には
あり得ない」。そして日本の歴史授業について「どの国でも歴史教育は行うが、
戦後の日本で行われてきたそれは世代の連続性を断ち切るものだった」と
分析する。(以下略)
(産経新聞1998.9.26)
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(前略)そこに浮かび上がってくるのは、生徒も若者も「歴史」への興味を
もたず、善悪二元論で割り切って、都合の悪いことは早く忘れるようにして
いる仕組みである。断片的で、薄味で、早々に割り切り、ゆっくり考える暇
もないままのたまさかの付き合いのように。
なぜだろう、それを著者は調べ歩き、問い続け、吟味する。歴史を「他人顔」
で語っている人が多い。当事者という観点が抜け落ちる。反面、《歴史》
の授業は、詰まる所、うっとうしい善意の押しつけになっている。
「戦争はいやですね」という言い方によって、戦争というテーマを正視する
ことを避けてきた。
著者の探索は、教科書の記述と授業、教師の「歴史」解釈に及んでいく。
教科書の記述の中で、なぜか陸軍は悪役扱いで、海軍はひいきされている。
なぜか。著者はこれを、武器の水準、軍令系統と軍政系統の意志と自己認識
の差として追求し、さらに国民の工業に対する知識の水準と比較考慮しつつ
手堅く描き出す。生徒との対応に関しても新鮮な問題提起を試みている。
本書の白眉は、生徒に資料を健全に批判できる能力と、互いに自由な発言を
保障する寛容さが根本であると指摘しているところにある。
つまり、資料を探し廻って、その中から自分の考えを引き出したなら、
「大東亜戦争肯定論」であってもかまわない。
生徒がその結論に達するまでの課程こそ歴史教育の根幹なのだと。
彼もそれでとどまりはしない。それを乗り越える可能性も大いにあるからだ。
(以下略)
(堀内守名古屋大学名誉教授、「週刊ポスト」1998.10.23)
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