【バックナンバー・8】 その47 あなたとわたしの物語……恋愛と官能は、表裏一体 今から三、四年ほど前のことだった。 ウッドストックの森の中で、のどかに静かに幸せに暮らしながらも、私は常に、目の前に立ちはだかる、分厚い壁のようなものがあるのを感じていた。道に迷っているというのか、道を見失ってしまっているというのか、そんな漠とした不安。 仕事に行き詰まっていたのである。 渡米の翌年、『海燕』新人文学賞をいただき、小説家として出発したものの、ほどなくして『海燕』は廃刊となり、かろうじて出版されたデビュー作『玉手箱』はまったく売れず、その後、ある文芸雑誌から声をかけていただいたものの、書いても書いても小説はボツにされ、突き返されてくるばかりだった。 その間、エッセイや翻訳の仕事を続けていた。どれも楽しい仕事だった。やりがいもあった。何冊か、本も出していただいた。 けれども私は、心のどこかでいつも焦っていた。燻っていたのかもしれない。このままではいけない。私には書きたい小説がある。私の書きたいのは、小説なのだ、と。 実際のところ、私はこつこつと、小説を書き続けてはいた。しかし、1996年頃から年に一度、日本に戻るたびに「その小説」をさまざまな編集者に預けるのだけれど、信じられないくらい長い間―――1年とか2年とか2年半とか―――待たされた挙げ句、返ってくる返事は異口同音にたったひとこと「出版するのは難しい」というものだった。 私は「その小説」をあきらめるべきなのか。 それとも小説そのものを、あきらめるべきなのか。 もしかしたら両方を、あきらめた方がいいのかもしれない。 冒頭に書いた分厚い壁の実態とは、このようなものであった。 あの時、耳にした、あの人のあのひとことで、その後の人生が大きく変わってしまった……そんな言葉が、あなたにもあるのではないだろうか。 人生、というとちょっと大仰だけれど、たとえばそのひとことで恋が終わったとか、あるいは始まったとか、それを言われると弱いし痛い、痛いけれど嬉しい、そんな言葉。 「殺し文句」と言っても良いのかもしれない。 英語では「アキレス腱」と言うそうである。 ―――小手鞠さんはもう、小説はお書きにならないの? 「その小説」も小説も、あきらめかかっていた時、徳間書店の文芸書籍編集者、国田昌子さんが私にかけて下さった言葉である。 忘れもしない、徳間書店の近くにある新橋第一ホテルのティールーム。国田さんはミィーティングを途中で抜け出して、会いに来て下さった。 『問題小説』という文芸雑誌を手に。 実は私が事前に提出していた企画案は、エッセイ集の企画だった。それを退けるような形で、上記の殺し文句。そのあとに、 「良かったら、この雑誌に短編を書いてみない?」 さらにそのあとに、国田さんは「チャレンジとして」と、言い添えることを忘れなかった。この言葉の意味は、作品の出来が悪ければ、掲載することはできない、ということ。要するに、これは決して仕事の依頼ではなくて、あなたのチャレンジなのですよ、と、彼女は言いたかったのだと思う。至極まっとうである。1995年以来、私はたった一編の小説も、発表できていなかったのだから。 この文章を書いている今も、私の耳もとには、国田さんの涼やかな声がくっきりと残っている。「もう、小説はお書きにならないの?」 2004年9月、足掛け9年、さまざまな出版社で足止めをくらいながら、放浪の旅を続けてきた「その小説」がついに出版された。 『欲しいのは、あなただけ』(新潮社)である。 そしてその翌月から、私は『問題小説』へのチャレンジを開始した。 『問題小説』は、ミステリー、ホラー、時代物などを中心とした、実に絢爛豪華な文芸雑誌である。たとえば、私の作品が初掲載された2005年4月号を例にとれば、執筆陣は西村京太郎、赤川次郎、阿部牧郎、山本一力、家田荘子、岩井志麻子、柴田よしき……なんとも絢爛豪華な顔ぶれではないか。 私に書ける作品は、この雑誌の中では「官能小説」あるいは「情事小説」と銘打たれたページしかない。私は官能小説で、勝負をかけることにした。徹底的に官能を追求し(小説世界で)、清らかで美しい官能小説を書こうと思った。 官能。 情事。 こういった言葉に、眉をしかめ、抵抗を示す方々も多々いるとは思うが、そういう方々に、私は逆に質問してみたいと思うのだ。 恋愛。 純愛。 これらの言葉の薄皮を、すーっと剥がしてみれば、そこからは、官能や情事という言葉が見えてくるのではありませんか? と。 恋愛と官能は、表裏一体ではありませんか? と。 なぜなら、ひとりの例外もなく、人はみな「官能の中から生まれてくる」ものなのだから。恋愛小説は、そこにセックスシーンが描かれているか否かにかかわらず、官能の小説であるはずなのだから。読んで面白い恋愛小説とは「心が悦ぶ官能小説」。そういうことなのだ。 私のチャレンジは、成功した。 こうして、2006年4月、『問題小説』に掲載された5つの作品に、書き下ろし1編を加えた作品集『あなたとわたしの物語』が誕生した。 国田さんの、あのひとことから生まれた、この作品集。 あなたにとっての殺し文句が、あなたをぞくぞくさせるような官能の味わいが、ページのどこかにひそんでいることを願っている。 ******************************2006.4* その46 初めてのサイン会 「こんな出会いが、あるはずがない」 「こんな再会も、あるはずがない」 そんな言葉もちらほら聞かれた『エンキョリレンアイ』(世界文化社)。 しかし、今から二十二年前、書店のアルバイトの店員だった私の背中に、アメリカ人の彼が「京都のバス路線地図、探しています」と声をかけてくれたのはれっきとした事実であり、そこから恋愛が始まって、結婚生活も今年で二十年を迎える、これも事実なのである。 だから、私は「運命の出会い」というものを信じているし、純愛を信じている。信じることのできない人のことを、可哀想だとも思う。『エンキョリレンアイ』を信じられない人は、自分の心の鏡を覗いてみて欲しい。そこに、澄み切った心が映っているかどうか。 3月1日に刊行された『エンキョリレンアイ』の売れ行きは非常に好調で、なんと発売後5日目にして増刷が決定。その後も順調に売り上げを伸ばして、結局、発売後1ヶ月以内に第4刷まで達成することができた。 そんな中、京都のアバンティブックセンターさんからサイン会にご招待いただき、4月初旬に急遽1週間ほど、日本に帰国の旅をしてきた。このコラムは、アメリカに戻ったあと、書いている。 サイン会は盛況だった。1時間ほどのあいだに、見えられた読者の方々はおよそ五十人くらいだったか。 そして、驚いたことに、7対3の割合で、男性が多かったのである。 『エンキョリレンアイ』については、前項に詳しく書いたので、そちらを読んでいただきたいと思うけれど、ひとことで言ってしまえば、この作品、日米に離れ離れになった若い男女が距離と時差の壁を越えて愛し合う、せつない恋の物語である。 だから当然のことながら、中心読者は若い女性ーーーと思いきや、当日、本を携えて、私に会いに来てくれた方々は、男性が中心だった。年齢層は、フリーターや大学生のように見える十代から、三十代男性(この年代が最も多かったように思う)、上は六十代、七十代になろうかという年配の方まで。この作品が、いかに幅広い男性読者に受け入れられているのかということを、実感させられたひとときであった。中には「娘のためにサインを」とおっしゃるお父様も複数、いらした。 「最近、こういう純粋な恋から遠ざかっていたので、あこがれました」 「運命の人って、僕にも現れるでしょうか?」 「今、遠距離恋愛中なので、この主人公の気持ちがよくわかりました」 「せつなくてピュアな物語、素敵でした」 これらはみな、男性読者の方々が私にかけてくれた言葉であった。 また、今回の帰国中、私は偶然、紀伊國屋書店(新宿東口にある本店)で、私の作品を書棚から手に取って、ぱらぱらとめくったあと、そのままレジに直行して買い求めて下さった読者の方の姿を、間近で目にする、という「奇跡的」な機会に遭遇することができた。 あるベテラン編集者の方の話によると「今まで、何十冊という本を作ってきて、幾度となく書店を訪ねたけれど、自分が編集した本が、まさに今、買い上げられるという瞬間を見たことは一度もない。それは奇跡だよ」とのことだった。 奇跡を起こしてくれた人もまた、若い男性だった。午前10時。これからアルバイトか大学の授業に出かけるところで、その前に開店直後の書店に立ち寄り、『エンキョリレンアイ』を買い求めた、という感じだった。ほかの本には目もくれなかったところを見ると、最初から私の作品を買う気で、書店を訪れてくれたのだろう。思わず、うしろから「ありがとうございます」と声をかけたくなるような気持ちを、抑えるのに必死だった。 ふだんはアメリカの森の家の書斎に閉じこもって、猫と孤独だけを友に、ひたすら執筆に没頭している私にとって、このように、読者の方の姿を実際に目にするというのは、本当に素晴らしい、まばゆいような一瞬だった。 サイン会を終えたあと、書店の関係者、東京から同行してくれた出版社の編集者、営業部員、広報担当者の方々と一緒に、驚きと喜びを分かち合った。 「日本人男性って、想像以上にロマンチックで純情だったのね」 「女性だけではなくて、男性こそが、こういうピュアな恋愛小説を求めているのね」 「30代男性が多いということは、働き盛りのその年代こそが、恋愛にあこがれているということなんだろうか」 などと、みんなで話し合い、「日本人男性と恋愛小説の深い関係」を確認し合ったことだった。 確かに2004年に『欲しいのは、あなただけ』が出版された時にも、男性読者が想像以上に多かったと感じていたけれど、今回の『エンキョリレンアイ』で、さらにそのことが証明された気がする。つまり、恋愛小説、イコール、女性が読むもの、というのは単なる固定概念に過ぎないということ。恋愛は、女性だけではなくて、男性にとっても(もしかしたら、女性以上に)重要な関心事なのかもしれないということ。 帰りの新幹線の中で、思った。 小説世界をはるかに凌駕するような残酷な事件、度肝を抜かれるような凶悪犯罪が多発し、援助交際、女子中高生、主婦の買春行為などが横行する今の日本で、人々はきっと、汚れなき魂と魂の恋愛があることを信じ、清らかな純愛の物語を読みたがっているのではないかと。そして私も、そのひとりである。読みたいと思うし、書きたいと思う。 そんなことを感じさせてくれた、京都での初めてのサイン会。 ちなみにアバンティブックセンターは、今から二十二前に、私と夫の「運命の出会い」のあった書店である。私の方はその後、夫とは遠距離恋愛ではなくて、近距離恋愛を経て結婚したわけだけれど、そんな思い出のある書店で、初めてのサイン会を開くことができて、本当に嬉しかった。人生は良いものだと素直に感動している。 また秋には、仙台まで出かけたいと思っている。 ******************************2006.3* その45 『エンキョリレンアイ』誕生秘話 …… アメリカと日本の距離 恋愛小説『欲しいのは、あなただけ』を書き上げたあとずっと、思っていたことがあった。それは、恋愛というのはつまるところ「距離」なのかもしれない、ということ。 男と女、あるいは、人と人のあいだにある、距離。 時間的な距離もあれば、空間的な距離もある。 気持ちと気持ちの距離、言葉と言葉の距離、あるいは体温と体温の……。 それらをふたりで埋めようと、一生懸命努力をしてみたり、でもうまく埋まらなくて、もどかしくなったり、せつなくなったり。またある時には、ふたりのあいだの距離は奇跡的に完全に埋まったと思い、嬉しくなったり、嬉し涙を流したり。 という風に、つねに、縮まったり、離れたりを繰り返している「距離」。 まるで波のように寄せては返す「距離」。 それを感じるのが、恋愛なのかもしれない、と。 そんなことを思っている矢先、世界文化社の若い男性編集者(彼は当時30歳。わたしからすれば、若い男性だと思った)から、連絡をいただいた。 「ぜひご一緒に、作品を創っていきたいと思うのですが、今、どんなことに興味を持っておられるのでしょう?」 即座に、わたしは答えた。 「書くとすれば、恋愛小説。ほかにはありません」 「レ、レンアイショウセツ、ですか?」 彼はちょっと、戸惑ったようでもあった。もしかしたら、小説以外のジャンルで、あるいは、恋愛小説以外の小説で、仕事をしたかったのかもしれない。しかし彼は、1993年のデビュー作『玉手箱』だけではなくて、その前に『海燕』(廃刊になった文芸雑誌)で発表していた、わたしのすべての小説を読んでくれていた。 しばらくして、メールが届いた。そこには、 「小手鞠さんがニューヨーク州に住んでいることを生かして、『遠距離恋愛』をテーマに、書いてみませんか?」 という風なことが書かれていた。 嬉しかった。わたしはその日のうちにメールの返事を書いて、送った。 「書きます。それこそが今、わたしの書きたい小説です」 そんな風にして、『エンキョリレンアイ』は、スタートした。 昨年の四月だった。 登場人物をどう設定するか。 まずはそこから始めた。やはり、どうしても、自分に引き付けて考えてしまうせいか、わたしは当初、ニューヨーク州在住の女性を主人公にして、彼女が恋している相手は東京在住の男性、という風に設定していた。年齢も、自分にできるだけ近い、三十代後半。 編集者の考えは全く反対だった。 せつない遠距離恋愛に身を投じるのは、二十代前半と後半の男女。そして、男がアメリカに、女は日本にいるという設定が良いのではないか、と。 「その方が、女性読者にとってはより親しみ深いし、主人公の女性に感情移入しやすいと考えます」 「なるほど」 そのあとに、彼はあとひとつ、わたしには「ええっ!」と思えるような無理難題(!)を言ってきたのである。それは…… 「今度の作品では、セックスシーンは描かないようにしていただきたいのです」 ーーーは、はい……。 なぜですか? と訊きたいような、でもなんとなく訊けないというか、訊かない方がいいのではないかというか、そんなような気がして、わたしはただ「わかりました」とだけ、返事に書いた。 正直なところ、こう思っていた。 ーーー最初から、足枷がはまってしまった、この小説。うまく成長させられるだろうか。 良い小説は、創作過程の中で、自ら成長してゆくものだ、と、わたしは考えている。それを手助けするのが、わたしの役目である、と。 一抹の不安を感じつつ、書き進めていくうちに、けれどもわたしは次第に「彼のアイデアは最高だった」と、思うようになっていた。制約というのは、小説を不自由にするのではなく、自由にするのかもしれないと、書きながら、実感していたのである。不思議なものである。きっと「小説の自由」というのは、なんでもアリのところから生まれるものではなくて、制約があるからこそ、自由が自由として輝ける、ということなのだろう。 恋愛もまたしかり。制約があるからこそ、燃えるものなのだ。 ふたりの肉体的関係はいっさいなしで、ふたりの気持ちだけで、恋愛を描いていく、という行為に、わたしは燃えた! ひとつの小説を書き上げるためには、作者は一度は爆発的に燃えて、まっ白な灰となるまで、燃え尽きなければならない、と、わたしは思っている。そのあとで、再び生き返って、また最初から書き始める。そんなやり方を、わたしはしている。経験上、完全に燃え尽きることができなかった(つまり、完全に死ねなかった)作品は、あとでどんなに直しても、納得できる作品にはならない。わたしの場合は。 幸いなことに、わたしは、八月の終わりに、完全に死ねた! それからゾンビのようにむっくり起き上がり、九月から十一月にかけて、せっせと推敲を重ね、そしてちょうど一昨日、晴れて出版されたのが『エンキョリレンアイ』(世界文化社)である。 合計11ヶ月間に渡るこの作品との恋愛は、こうして、ハッピーエンドに終わった。 なぜ、タイトルがカタカナになっているのか。 その答えは作品の中に書き込んであるので、ご興味がわいた方はぜひ、読んでいただきたいと思う(本音は、たとえ興味がわかなくても、読んで欲しい。ひとりでも多くの方々に……)。 『エンキョリレンアイ』を書き終えてみて、今のわたしに言えることは、ただひとつ。 ふたりの人間が出会えば、そこには必ず距離が生まれる。もとから在る距離もある。 どんなに強く、深く、互いを思い合っていても、肉体関係を持っても、持たなくても、ふたりの人間が「ひとつになる」ことは、絶対にできない。 それが、恋愛というもの。 しかしわたしはそのことを、悲しいことだとは思わない。 成就しなかった恋愛、それもまた、素晴らしい恋愛ではないかと、心から思う。 アメリカに住むようになって、早13年。 この距離ーーーアメリカと日本の距離はそのまま、わたしにとって、日本への想いであり、恋愛なのである。会いたい時に会えない、日本。昼と夜がさかさまになっている、日本。『エンキョリレンアイ』は、わたしと日本の、十三年間の恋愛の物語でもある。 ******************************2006.2* その44 2006年の『ある愛の詩』 愛とは決して後悔しないこと。 この1行を目にして「ああ、なつかしいなあ」と思われるのは、たぶん40代〜50代にかけての方ではないかと思う。 アリー・マックグロウとライアン・オニールが演じた恋愛映画『ある愛の詩』が日米で大ヒットしたのは、今からおよそ三十五年あまり前のこと。私は、中学生だった。親に隠れて映画館に観に行き、さめざめと涙したものだった。 そういえば以前、日本で大ヒットした恋愛小説『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んだ時、私はこの『ある愛の詩』をなつかしく思い出した。両方共、愛し合った男女のうち、女の方が白血病で死ぬのである。 さて、今年、アメリカで静かな人気を呼んでいる「ある愛の詩」は、映画『ブロックバック・マウンテン』である。これも、愛し合っている「男と男」のうち、片方が死ぬのだけれど、死因は、白血病というような、作者にとって都合の良い死に方ではない。 この映画の原作となったストーリー、その名も『ブロークバック・マウンテン』は、アニー・プルー(Annie Proulx)という小説家(70代の女性、ピューリッツアー賞受賞者)の書いた『Close Range』という短編集の中に収められている。 夫の本棚にこの本を発見した私は、映画を観て、家に戻ったあとで、読んでみた。映画は、ストーリー、台詞共に、原作をほぼ忠実に再現したものであるとわかった。 映画でも小説でも、ジャック―――ゲイのカップルの片割れ―――が何者かに惨殺される場面は出てくるものの、その周辺事情や事件そのものについては、あまりというか、あえてというか、それほど詳しく描かれてはいない。 しかし私は、映画を観た時、なんとなくそうではないかと気づいていた。私が気づくくらいだから、アメリカ人観客なら例外なく、気づくのではないだろうか。夫に尋ねてみたところ、夫も「そうらしいよ」と言った。 ジャックの死は、ワイオミング州で実際に起こったある事件を、モデルにしているようなのである。 時は1998年、10月7日。 場所は、西部劇「ララミー牧場」で知られる、ワイオミング州ララミー。 当時、ワイオミング大学の学生だったマシュー・シェパードさん(21歳)は、地元のバーでお酒を飲んでいた。身長156センチ、体重52キロと、アメリカ人男性にしてはやや小柄なマシューさんは、ゲイであることを周囲の人たちに明らかにしている人だった。 ゲイの人たちの中には、偏見や差別から逃れるために、いまだにそのことを隠している人―――クローゼットと呼ばれている―――も多いのである。 やがて、マシューさんのそばにふたりの男性が近づいてきて、 「俺たちもゲイなんだよ」 と、声をかけ、外に連れ出した。 マシューさんはその後、人気(ひとけ)のない牧場まで連れて行かれ、牧場の柵に両手を十字架の形にくくり付けられ、拳銃で頭部を18回も殴られ、頭蓋骨陥没、意識不明の状態のまま、現場に放置されてしまったのである。18時間後、全身血まみれのマシューさんを発見したのは、自転車で近くを通りかかった男性だったが、彼はマシューさんのことを「案山子かと思ったら、人だった」という。あたりは、夜になってぐんと冷え込み、気温は零下となり、雪もちらついていた。マシューさんの顔は一面、凍り付いた真っ赤な血液で覆われていたが、両目から流れていたと思われる涙の跡だけが、白かったという。 これ以上、残酷な死が、あるだろうか。 映画の中でも、小説の中でも、ジャックの死はそれとなく、このマシューさんの死を喚起させるように、描かれている。2006年のラブストーリー『ブロークバック・マウンテン』が、『ある愛の詩』や『世界の中心』と一線を画するのは、まさにここなのである。 「ヘイトクライム」という言葉をご存じだろうか。 これは、人種、宗教、民族など、特定のカテゴリーに属する人たちへの、いわれなき偏見や憎悪に駆られて起こされた犯罪のことで、マシューさん惨殺事件が起こった1998年、アメリカでは、人種対象のヘイトクライムは5,360件、うち、白人が黒人に対して起こしたものは2,084件、その逆は567件、発生している(FBIの統計による)。 事件の直後、クリントン大統領は、ヘイトクライムを非難する特別声明を出し、マンハッタンでは、5,000人の人たちが参加して、マシューさんの死を悼む「祈りの夜」という儀式が催された。 翌1999年11月におこなわれた裁判で、ふたりの犯人(21歳と22歳の男性)には終身刑が言い渡された。「死刑にするべきだ」という世論が高まる中、先頭に立って死刑回避を呼びかけたのは、他ならぬマシューさんの両親だった。マシューさんの父親は、このような声明を発表した。 「私は、あなたたち(=犯人)が、死ぬこと以上にふさわしい刑はないと思っている。しかし今は、いかなる慈悲も示そうとしなかった者たちに、慈悲を示すべき時なのです」 これこそ、ヘイトクライムを根絶する思想ではないかと、私は思う。目には目を、歯には歯をでは、何も解決しない。憎悪には、愛を、ということなのだ。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と言った、キリストのように。しかし、そのキリスト教原理主義者たちが、同性愛を罪だと考えている、というのが、今のアメリカの現実である。 犯人を死刑にするべきかどうか、ゲイの人たちを対象にアンケートを取ったところ、死刑に賛成と答えたのは42.9%、反対と答えたのは44.4%であったという。 ちなみにアメリカでは2000年から、バーモント州だけが同性愛の結婚を認めている。うちの隣に住んでいるゲイのカップル、リーとグレッグも、バーモント州で結婚してきたふたりである。 この国で、アジア系移民というマイノリティグループに属する私としては、『ブロークバック・マウンテン』という「ある愛の詩」が、少しでも、ヘイトクライム根絶につながっていけばいいと、願ってやまないこの頃である。 ********************************** 「バックナンバー7」へ 「バックナンバー9」へ戻る |