ウッドストックの森から

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******************************2006.11*
その53 新入社員と新人賞受賞者の再会

   このところ立て続けに、「再会」をテーマにして、このコラムを書いている。今年上梓した小説『エンキョリレンアイ』も『愛を海に還して』も、テーマは再会。初めから意図して、再会について書こうとは思っていないのに、ふと気がついたら、どの作品の中でも登場人物は必ず「また、会えたね」と言っている。もしかしたら再会は、私の人生のテーマなのではないかと思うこの頃。
 そして今月も、どうしてもここに書いておきたい、こんな再会のお話。

 時は1993年。アメリカに移住してから、一年あまりが過ぎていた。
 私は、ベネッセコーポレーション(当時、福武書店)が主催する文芸誌『海燕』の新人文学賞に応募し、最終候補まで残り、目出たく新人賞をいただくことができた。受賞式は10月末。私は喜び勇んで飛行機に乗り、会場となっていた赤坂プリンスホテルまで飛んで行った。
 感激と緊張の受賞式が終わって、会場では盛大なパーティが催された。出席者の中には、山田詠美さん、吉本ばななさん、島田雅彦さん、野中柊さん……といった<豪華執筆陣>の顔も見られた。
『海燕』の編集者は、編集長を含めて全員が男性だった。文芸誌業界もまだまだ男社会なのだなあと、思った記憶がある。
 が、実はひとりだけ、いたのである。背広とYシャツとネクタイ姿の男性編集者たちに混じって、けなげに立ち働く、清楚で可憐な野の花みたいな女性社員が。
 彼女は、受賞者たちの世話役を任されていたようで、たとえば私を控え室から会場まで案内してくれたり、式次第について説明してくれたり、パーティ会場ではゲストに引き合わせてくれるなどして、心を尽くして働いていた。
 受賞式とパーティが終わったあと、二次会の会場へと向かうタクシーに、私は彼女と一緒に乗り込んだ。その車中での会話である。

「私は今年、入社したばかりの新入社員なんですよ」
「そうだったの。紅一点の編集者なのね」
「いえ、今はまだ下っ端で、些末な仕事しかできていないのですが。これから一生懸命がんばって、一人前の編集者になりたいと思っています」
「ぜひがんばってね。いつか一緒に仕事ができるといいね」
「はい、ぜひ。私もそう希望しています」
 二十三歳と三十六歳の、新入社員と新人賞受賞者(作家、ではない)の前途には、明るい希望の光が満ちあふれていた……。

 しかし、現実は厳しい。
 現実の人生に満ちあふれているのは、苦労と困難と試練なのである。
 私が新人賞を受賞してからわずか二年後に、文芸誌『海燕』は廃刊となり、私は文字通り、路頭に迷った。受賞時に「小説の単行本を三冊、ベネッセから出すまでは、他社では仕事をしないこと」という口頭契約(オーラル・アグリーメント)を交わしていたこともあり、また、私がアメリカに住んでいることも災いしてか、小説発表の新しい場を、すぐには見つけることができなかった。
 路頭に迷いながら、進むべき道を模索している時、彼女のことをよく思い出していた。一緒に乗ったタクシーの中で、互いに夢を語り合った、あの初々しい人は今、どうしているのだろうか、と。風のたよりで、アウトドア雑誌に異動になった、というような話も耳にしていたけれど、文芸編集者を目指していた彼女にとって、会社が文芸から手を引いたということは、致命的な出来事だったのではないだろうか。

 それから十二年という時が流れて、2005年の秋である。
 旧知の編集者から仕事の依頼をいただき、作品の構想を練っていたある日のこと。版元であるポプラコミュニケーションズの編集者から届いたメールに、こんなことが書かれていた。
「実は弊社にはひとり、小手鞠さんを『海燕』時代から知っているという編集者がおりますが、覚えておいてでしょうか?」
 私はすぐに返事を書いた。
「その方は女性でしょうか、男性でしょうか?」
「女性です」
「だったら、はっきり覚えています! 私たち、一緒にタクシーに乗ったんです。今から十二年前に」
 こうして、私たちは再び巡り会った。そして今年の秋、私たちが創り上げた作品『空と海のであう場所』が出版された。テーマはもちろん「再会」。

 新入社員と新人賞受賞者として出会い、別れた日からきょうまでの十三年間。
 彼女にもきっと、さまざまな苦労があったことと思う。
 私にとってこの十三年間とは、新人賞を受賞しても新人作家にはなれない、ということを実感し、作家になるということはすなわち、作家であり続けるということであり、それは相対的にではなく、絶対的に厳しいものなのだということを痛感する日々だった。苦境に立たされた時、頼れる人間は自分ひとりしかいない、ということを知り、誠心誠意を尽くして努力を重ねても、理不尽な結果しか得られない場合もある、だからこそ、それゆえに、他人には限りなく優しくしなくてはならない、ということを知り抜くために、必要な十三年間でもあった。
 けれども、私と彼女は、そんな話は微塵もしなかった。
 再会できたことがあまりにも嬉しく、これから一緒に創りたい作品があまりにも多く、過去の苦労話などしている暇はない。たぶんふたりとも、同じことを思っていたのではないだろうか。
 これからも私は「再会小説」を書き続けるだろう。
 一瞬、すれ違っただけの人。
 互いの心に引っ掻き傷を残したまま、別れてしまった人。
 それでもきっと、また、いつかどこかで、再び巡り会える日が来る。この世で会えなくても、あの世で再会できるのかもしれない。深まりゆく秋の中、記憶の湖をそっと覗きこんでは、胸をときめかせているこの頃である。

******************************2006.10*
その52 うさぎ追いし岡山

「お生まれは、どちらですか?」
 と訊かれて、私は答える。
「岡山です」
 同じ会話がアメリカで、アメリカ人とのあいだで交わされる時にはどうなるかというと、
―――お生まれは、どちらですか?
―――日本です。
―――ニッポンのどこですか?
―――岡山です。ヒロシマのとなりです。
 となる。
 東京や京都を知らないアメリカ人でも、ヒロシマだけは知っているのである。
 私は岡山県備前市で生まれ、焼き物の町伊部(いんべ)で子ども時代を送った。
 小学六年生の時、マスカットの産地として知られる岡山市一宮に引っ越して、吉備津彦神社のすぐ近くにある小学校に転校、その後、どんぶらこどんぶらこと桃太郎の桃が流れてきたと言われている笹ケ瀬川の土手を歩いて、小丸山古墳の上に築かれていた中学校に通い、岡山県立朝日高校を卒業するまでは、岡山で過ごした。そのあとは京都、東京を経て、1992年からニューヨーク州に住んでいる。
 うさぎ追いし、岡山。
 旭川沿いの土手。烏城。後楽園。表町商店街。天満屋デパートの屋上のお好み焼き(岡山のお好み焼きはいわゆる広島風で、美味しい!)。もうなくなってしまったそうだけれど、足しげく通った細謹舎(さいきんしゃ)という名前の本屋さん……。
 実は、ふるさとを「なつかしく」感じるようになったのは、ここ数年のことである。
 二十代、三十代、四十代、前ばかりを見つめてがむしゃらに生きてきて、この頃やっと、しみじみとうしろをふり返る心の余裕が持てるようになってきた、ということなのかもしれない。
 以心伝心。見えない糸で結ばれている、人と人。遠く離れていても心と心で呼び合っている、人と人。というようなことを、私はかなりまじめに信じている。
 つい最近も、こんなことがあったばかりだ。
『石田好伸の通勤ラジオ絶好調!』―――岡山の山陽放送ラジオの朝の番組―――のパーソナリティをつとめる石田さんから、メールとお電話をいただいた。
 このコラムにも書いた『肥満大敵』の著者、飛鳥隆さん(岡山県在住)が私のことを、石田さんにご紹介下さったようなのである。そもそも、飛鳥さんと知り合ったきっかけは、ずっと前に、私がやはり電話で出演していた山陽放送ラジオ(その時のパーソナリティは国司憲一郎さんだった)を、飛鳥さんが耳にされたというもの。まさにラジオがつないでくれた縁である。
 ところで、私にとってラジオというのは、青春時代の象徴でもある。ちょうどラジオの深夜放送の全盛期に、私は中・高生だった。ラジオから流れてくるフォークソングに心酔し、ラジオを聴きながら受験勉強に励んだ世代なのである。
 石田好伸さんと電話で打ち合わせをした時、私たちはたちまちのうちに意気投合してしまった。
「『エンキョリレンアイ』と言えば、僕がすぐに思い出すのは、太田裕美さんの歌ですね〜」
「あ、それ、『木綿のハンカチーフ』ですよね!」
「そうそう、それなんです。東へと向かう列車で、旅立つ恋人ですよ」
「なつかしいなあ……」
 思わず受話器をマイク代わりに握りしめ、ふたりで『木綿のハンカチーフ』をデュエットしそうになった。
 聞けば、石田さんはヒロシマのご出身で、大学は岡山大学。そして私たちはほぼ同世代。共通項は、それだけではなかった。私は岡大を滑って同志社大学へ進学したのだが、石田さんもチャレンジとして、同志社大学を受験なさっていたという。
「いやー、同志社の英文科の入試には参りましたよ。英語の長文読解の長文が、やたらに長くてね〜」
「ええっ!!! 私も同じことを感じてました。あまりにも長文の問題文が長くて、難しくて、長文を読み終える頃には試験時間も終わっていて、解答を書く暇もなかったほどですよ」
 などと、放送前の打ち合わせが、なんとも楽しい「電話同窓会」になった。
 石田さんとはまだお目にかかったことはないけれど、来春あたり、岡山にもどって、ご挨拶に伺いたいと思っている。私と同じ岡山っ子で、石田さんと共にパーソナリティをつとめておられる楢崎房江さんにもお目にかかりたい。

 石田さんの番組に出演させていただいたあとには、こんなおまけが付いてきた。
 山陽放送ラジオの別の部署におられる亀池弘二さんから、「放送を聴きましたよ」と、お電話をいただいたのである。亀池さんと私は、朝日高校、同志社大学を通しての同級生。しかも、亀池さんのお話によれば、私たちは大学一年生の時、同じゼミを受講しており、当時の私に興味を示してくれていた男子学生を、亀池さんは影で「彼女は、おまえらなんか、相手にしない!」と、撃退して下さっていたというのである(勿体ない話だ)。
 亀池さんとお話したのはなんと、ほぼ三十年ぶりのことなのであった。
 そんなこんなで、山陽放送ラジオの電波という「見えない糸」がつないでくれた、同郷の人、同世代の人、なつかしい人、同級生……。
 まさに「遠方より、友来る」。楽しく、嬉しく、心なごむ出来事の数々だった。

 10月11日に出る私の新刊『空と海のであう場所』(ポプラ社)の中に、岡山県真庭市在住のお坊さんが出てくる。名前は熊谷吾郎。通称クマゴロー。
 このお坊さんは、真庭市に住んでおられる僧侶の井上慈紹さんからイマジネーションを得て、私が創り上げた人物である。井上さんもまた、山陽放送ラジオの朝の番組を聴いて私のことを知り、連絡を下さった方。偶然のことながら、上述した飛鳥さんも真庭市在住。
 人と人の不思議な縁を、信じないではいられないこの頃である。

******************************2006.9*
その51 諸君! 読んでみて下さい

 『諸君!』という雑誌をご存知だろうか?
 私はもちろん知っていた。けれども買って読んだことはなかった。過去に一度も。
 たとえば2006年10月号の表紙を見てみるとーーー

 特集 安倍政権で日本はこうなる
 媚中外交の清算、憲法改正への布石

   靖国の社で中国・北朝鮮 「自己絶対正義」と対峙する

 私の「皇室典範」改正試案

(以下省略)

 といった見出し、記事のタイトルが並んでいる。
 今月の初め、この号の目次のページを開いたある編集者は、同じ会社で働いている別の編集者(彼女と私は一緒に仕事をしている)にこう言ったそうである。
「ここに、小手鞠るいさんの名前があるけれど、これって、あの小手鞠さんと同姓同名の人なのかしら?」
 至極まっとうな疑問である。
 私自身でさえ、いまだに「いいのだろうか? 私なんかが寄稿して」と思っているほどなのであるからして。

 『諸君!』の編集長さんから、じきじきにお電話をいただいたのは、夏の初めだった。
 それまで『諸君!』にエッセイを連載なさっていた作家の久世光彦さんが急逝なさったこともあって、後任者をさがしておられたところに、徳間書店の編集者の紹介があったようだった。
「いいのでしょうか? 私なんかで」
 と、その時も開口一番、そう言った記憶がある。
「政治・経済に関しては、小学生並みに疎いですし、アメリカに対しても、何か意見を述べたり、主張したりするほどの思想も知識も持っていないですし、歴史についても不勉強ですし、本当に私ごときで、つとまるとは……」
 思ってもいなかった。謙遜ではない。大和撫子的な慎み深さ、などでは決してない。
 編集長さんは、こうおっしゃった。
 穏やかな口調。落ち着いた話しぶり。
 ナイスなジェントルマンであることが、電話線を通して、じわっと伝わってくる。
「実は、昔に書かれたエッセイ集を読ませていただきました。その時から、面白いなあと思っていましたし、実は私は、小説はほとんど読まないのですが『エンキョリレンアイ』だけは読ませていただき……」
 結果的にはこれが、殺し文句になった気がする。嬉しかった。そこまでおっしゃられては、これはもう引き受けないではいられない。
「アメリカからの通信ということで、毎回、読んで面白いエッセイを書いていただけたらと思います」
「はい、謹んで、お受け致します。ふつつかで、未熟で、頼りない私ではございますが、どうか末永くよろしくお願い致します」
 頬を染め、三つ指をついて、まるで見合いの席で返事をしているような、私であった。

 連載のタイトルは「NY発エンキョリ通信」と決まり、エジプト留学から帰国したばかりの気鋭の女性編集者の方と、組ませていただけることとなった。彼女はこの出窓社のエッセイも全文読んで下さり、連載全体の舵取りに、大いに役立てて下さったようである。
「『諸君!』の読者は大人です。突っ込んだ問題提起をして下さってかまいません。それに、読者が小手鞠さんに求めているのは、意見や主張ではなくてむしろ、アメリカのディテールや日常の風景ということだと思います。宿題感覚の出ないよう、毎回のびのびとお書きになって下さい」
 なんと心強い灯台守!
 この人に「黙って付いて行け」ば、すべてはうまく行くだろう、そんな確信が持てた。
見合いのあと、結婚を決めた瞬間、みたいなものである。
 こうして『諸君!』では実に珍しい、著者、編集者、デザイナー、イラストレーター、全員が女性のチームが船出した。
 ドキドキしながら世に送り出した連載1回目の4ページは、非常に嬉しいことに、社内外で、まずまずの好評を得た。

 『諸君!』を読んで、頭がかーっとなり、思わず編集部に抗議の電話をかけようとしている人たちの気持ちを癒す効果がある(編集部内)。

   アメリカに関して、ニュートラルな立場から書かれた文章というのは、案外見かけないので、新鮮な感じだ(新潮社の編集者)。

 ご主人と仲睦まじい様子が描かれていて、好感が持てる(岡山在住の友人)。

 この連載は『諸君!』の「清涼剤」であり「毒消し」になっている(担当編集者)。

 日常のひとこまから、アメリカ人の考え方が引き出されていく過程がヴィヴィッドに描かれていて、興味深く読んだ(文藝春秋社の他の部署の編集者)。

 10月号、もしも書店などで見かけられたら、ぜひ手に取って、読んでみて下さい。
 『諸君!』の解毒作用を少しでも促進できるよう、これから一生懸命がんばって、書き続けていきたいと思っています。


******************************2006.8*
その50 人の悪意から身を守る方法

 昔はこんなこと、したいとも思わなかったし、できなかったのに……
 と思うことのひとつに「他人の書いた日記を読む」という行為がある。
 そう、インターネットのブログである。
 私も、ずっと昔から―――かれこれ二十年くらいは、欠かさず―――日記を付け続けている。と言っても、毎日せいぜい3〜4行程度だけれど。
 内容は、その日あった嬉しいこと、面白い出来事、心に残った言葉、ようするに「忘れたくないこと」。なるべく、あとで読み返して明るい気持ちになれるようなことだけ、書き留めるようにしている。
 そうして時々、夫に
「ねえ、一年前のきょう、何があったと思う?」
 などと問いかけて、ふたりでその傑作な出来事を思い出して笑い、なごむ、などという風に「活用」したりしている。
 そもそも日記というのは、非常に個人的なもの。他人に読まれることなど仮定もしないで書くのが、今までの日記の在り方だったと思う。
 でも、インターネットのブログはあらかじめ、公開すること、他人の目にさらすことを前提として、書かれている日記である。

 私はこれまで、読書カードやお手紙などで、作品を読んで下さった読者の方々の声に耳を傾けてきた。たとえネガティブなコメントや批判が書かれていることがあっても、真摯に、誠実に、それを受け止めてきた……つもりである。
 しかし、ここへ来て、ブログの出現。
 グーグルで書名を検索すると、ずらりと居並ぶブログの中には、作品に対して、とんでもなくひどいことが書かれている場合が、なきにしもあらずなのである。
 もちろん、中には、返信欄を使って、お返事のコメントを書き送りたくなるような嬉しいコメントもある。けれども中には、それを読んでしまったがために、その日一日中、下手すると翌日も、いつまでもいつまでも気になって、気分は重く落ち込んだままとなり、最悪の場合には、仕事も手につかなくなる、というような、悪意と敵意と偏見に満ちたコメントもあるのである。
 でも、書いた人には、なんの責任もない。
 そんなものを読んでしまった、私の運が悪かっただけなのだ。
 君子、危うきに近よらず。
 触らぬ神にたたりなし。
 そんなわけで最近では、よほど気力がみなぎっていて、神様みたいに強気でいる時以外は、ブログは意識して、読まないようにしている。電話に出たくなければ、電話線を抜いておけ、という戦略である。

「たとえ厳しい批判や、心ない悪評でも、そこからは何かしら、得るもの、学ぶことがあるのではないですか? 批判を次の作品に生かしていけるのではないですか」

 と、私に言った人もいたけれど、それは私には、あてはまらないと思った。
 私にとっては、悪意のあるコメントからはただただ、その人の持つ底知れない悪意だけが伝わってくるように思えるからだ。
 火のないところには煙は立たない、というのは真実で、同じような批判が書かれていても、書いた人の心根がまっすぐな場合、それが私を傷つけたり、損なったりすることはない。言い換えると、私を傷つけるようなブログの書き手というのは、その心の奥底に、憎悪とか憤怒とか嫉妬とか、何らかの不幸を抱えているのだと思う。

 つい先日、ある宗教家の人と出会うチャンスがあったので、上に書いたような話をその人にしてみた。
 そして、「他人の悪意から身を守る方法がありますか?」とたずねてみた。
 彼は「あります」と答えた。

「まず、あなたが『自分は傷つけられた』と感じた時には、あなたの過去をふり返ってみなさい。もしかしたら、あなたも、同じようにして、誰かを傷つけたことがあったのかもしれません。今回の出来事はそれを反省し、悔い改める良いチャンスだと思いなさい」

 なるほど。では、反省したあとは、どうすればいいのですか?

「次は、その人の幸福を祈る、ということです。あなたに悪意の矛先を向けた人は、あなたがおっしゃった通り、大変に不幸な人です。ですからあなたは、その人が不幸から抜け出して、幸福になることを、ひたすら願ってあげて下さい」

 私はこの言葉に、深い感銘を受けた。いい意味で、ショックを受けた。
 これは、煙の立たない炎のような、ピュアな真実ではないかと思ったのだ。
 他人の悪意から身を守る方法は、悪意を向けてきた人の幸せを願うこと。
「目には目を、のやり方では、世界中の人が盲目になる」と言ったのは、ガンジーだったけれど、やはり「悪意には、その百倍の善意を返す」しかないのである。
 そういうわけで、ブログはいっさい読まないという方針は変えていないけれど、他人の幸せを願いつつ生きて行こうと、ひそかに努力を重ねているこの頃である。

******************************2006.7*
その49 愛を海に還して

 たとえば小説でも、映画でも、音楽でも絵画でも、ひとつの作品の背後には必ず、もうひとつ、あるいはいくつもの物語が、夜空の星の光のように、煌めいているのではないだろうか。先月、河出書房新社から出版された私の最新恋愛小説『愛を海に還して』には、こんな物語が隠されている。

 時は1980年代の終わり。
 私は当時、英語学習雑誌や英会話教材などを出版している会社の営業部でアルバイトをしていた。彼女は、その会社に編集者として採用され、入社してきた。彼女の所属部署は、日本語教育雑誌の編集部。私たちは、同じ会社の同じフロアで働く同僚同士だった。
 一年後、私はアルバイトをやめて、念願のフリーライターになった。
 駈け出しの私に、彼女はさっそく仕事を依頼してくれた。ある翻訳家にインタビューして、記事を書くという仕事。彼女とふたりで、取材に出かけ、テープを起こしながら、原稿を書いた。それが私にとって「初めて書いたインタビュー原稿」。書籍のタイトルや題名の表記には「  」ではなくて『  』を使う。というような基本中の基本は、彼女から手取り足取り教わった。
 私たちは、どこへ行くにも一緒とか、電話で長話をするとか、恋の悩みを打ち明け合うとか、そういう付き合いは決してしなかった。が、それでも時々、ふと思い出したように互いに連絡を取り合って、お茶を飲んだり、ランチを食べたりしていた。
 それから数年後。あれは確か、私のアメリカ移住が決まって、そのお別れ会というような意味も籠めて、下北沢の仏蘭西料理店で、一緒に食事をした時だった。
「私は将来、小説家になりたいの!」
 と、私は彼女に熱く語った記憶がある。
「がんばって! かおりさん(私の本名)ならなれるよ!」
 と、彼女は励ましてくれた。
 私は三十代、彼女はまだ二十代だった。

 やがて、私はアメリカに引っ越し、細々と小説を書く日々が始まった。
 風のたよりに聞いた話では、彼女は転職し、別の出版社の編集者になっているという。けれどもそれから数年間ほど、私たちの連絡は途絶えていた。いや、それは、私が忘れているだけで、もしかしたら彼女は時々、連絡をくれていたのかもしれない。でも正直なところ、私は何も覚えていない。そのように、私の気持ちとしてはすっかり途切れていた糸が、ふっとつながった瞬間というのは、けれども実に鮮明に、文字通り「きのうのことのように」覚えている。
 2000年の秋だった。ここ、ウッドストックの森の家に引っ越してきて、早四年が過ぎていた。ある朝、いつものように郵便受けまで歩いていき、メールボックスを開けると、そこに一枚の絵葉書が届いていた。
 珍しい郵便切手。
 消印はフランス。
 写真はパリの街角。
 葉書の裏には、その年出版された私の自伝的小説『それでも元気な私』を読んで、すごく感動した、という内容の文章が綴られていた。
 見覚えのある文字。
 凛として、背筋がピンと伸びているようなこの文字は―――そう、彼女からだった。彼女は旅行先のフランスで、私に「感動した」というメッセージを伝えるために絵葉書を買って、おそらくホテルの部屋のデスクの上で、たよりを書いてくれたのだ。正確ではないが、その文面は今でも強く、心に残っている。

「あんなに穏やかで、安定しているように見えたかおりさんに、人知れず、こんな苦労があったなんて……と、驚くと同時に、感動で胸がいっぱいになりました」

 嬉しかった。
 懐かしい人からたよりが届いた、という喜びと同時に、その葉書は私にとって、まるで神様が天上からはらりと落としてくれた「奇跡の木の葉」のように感じられた。オーバーではない。なぜならその当時、『それでも元気な私』は全く売り上げが伸びず、出版社からも書店からも見放されかけていた―――すぐあとで、実際に見放されることとなる―――本だったからである。
 私はそこに記されていた日本の住所に宛てて、すぐに返事を出した。

 パリから届いた一枚の絵葉書をきっかけに、私たちはふたたびつながった。
 私が年に一、二度、日本にもどった時には、彼女は忙しい仕事の合間を縫って、あるいは得意ではない早起きをして、午前中に、私の滞在ホテルまで会いにきてくれたりした。
 その頃、私はアメリカで一生懸命小説を書き続けていたが、なかなか出版されず、ぶあつい壁の前で立ちすくみ、悶々と苦しんでいた(この頃の話は、このコラムのバックナンバーにも何度か、書いている通りである)。
 一方の彼女は、大手出版社の系列の出版社で、編集者として、着実にキャリアを重ねつつあった。少なくとも、私の目にはそう映っていた。だからこの頃、ホテルのティールームで会って、夢中で話していたことと言えば、私は仕事のこと、彼女は恋愛のこと、だったように思う。彼女は、私の作品や仕事のやり方に関して、時には厳しく、他の人なら言いにくいようなことまで言ってくれ、進むべき道を間違えそうになっている私の腕を引っ張って、もとにもどしてくれたこともあった。

   そうこうしているうちに、彼女の働いていた会社が解散。彼女はフランスに留学。
 帰国後、彼女は文芸書の編集者として、仕事に復帰した。私は私で、折りしもその前年、九年間、日の目を見ることのなかった作品『欲しいのは、あなただけ』が出版され、小説家として、再スタートを切ったばかりだった。
 彼女は復帰後まっさきに、私に声をかけてくれた。
「一緒に仕事をしましょう。ぜひ、熱い恋愛小説を書いて!」
 私はそろそろ五十代。彼女は四十代。
 ふたりで仕事をするのは、実に十九年ぶり、二度目のことである。
 機が熟す。という言葉があるけれど、私はこの言葉を「樹が熟す」と言い換えたい。
 種から芽が吹き出し、若葉が出て、若木となり、若木は枝を伸ばし、すくすく成長し、やがて一本の樹となった。
 友情の樹である。それがひとつの実をつけた。一冊の本となって。
 それが『愛を海に還して』。
 私は彼女との十九年あまりの友情を、この本に、この樹に、還したいと思っている。

 後日談がある。
 「コラムにあなたのことを書いてもいい?」とメールで尋ねたところ、彼女からこんな返事が返ってきた。
「私が覚えている最初の記憶は、入社試験の時、消しゴムを忘れてしまい、コピーを取っていたかおりさんに頼んで、消しゴムを借りたこと」
 私はこの消しゴムのことを、全く覚えていない。
 彼女はあの絵葉書のことを、覚えているだろうか。
 人と人のつながりは、さりげない日常の一幕にひそんでいる一枚の木の葉。樹から舞い降りてきてやがて土に還ってゆく、命を持った奇跡なのだと、私は思うのである。

******************************2006.6*
その48 汝の敵は、肥満

 私の生まれ故郷である岡山県にお住まいの会社員、高平健治さんが、2004年5月に出された著書『肥満大敵』(文芸社刊 ペンネーム 飛鳥隆)を送って下さった。NY州にいる私が、あるとき電話で出演していた山陽放送ラジオの番組を、高平さんが岡山で聴いていらした、というような「エンキョリ」のご縁である。
 「アメリカにお住まいだと、肥満は深刻で身近な問題ではありませんか?」
 と、メールでおたよりを下さった高平さんに、私はすぐさまお返事を書いた。
「そうなんです! まさにその通り。今のアメリカ人の大敵は、イラクでも北朝鮮でもなく、肥満なのです」

 今年の4月に日本に帰国し、東京、京都を訪ね、またつい先月、ロンドンに旅行してきたばかりであるが、外国(および祖国)に出かけて戻ってくると、「太っているアメリカ人」が、否応なしに再認識される。こんなにも太っている人が、こんなにも多い国は、おそらく世界中どこを探しても、アメリカのほかには見つからないだろうとさえ思う。
 とにかく、犬も歩けば棒に当たるじゃないけれど、町を歩けば、肥満に当たる。老若男女ともども、横綱、関取、妊娠九ヶ月、なのである。
 この原因については、以前このコラムでも、私なりの意見を披露した。
 ざっとおさらいしてみれば―――
 アメリカが、慢性的な運動不足を招いてしまう車社会であること。
 ジャンクフード、ファーストフードといった、文化とも呼べないような食文化。
 一般家庭においても、レストランにおいても、食べ物の量が「多いことは良いことだ」というようなおかしなサービス精神があること。
 三度のご飯よりも甘いものが好き、という国民性。
 おそらくこれらの理由が重なり合って、アメリカ人を限りなく太らせてしまっているのではないかと、私は推察する。

 実はこの私も、例外ではなかった。
 アメリカ移住後わずか一、二年で、私も肥満への階段を一気に駈け上がってしまったのである。理由は、上述したものに加えて、皮肉なことにアメリカの物価の安さがあった。魚よりも肉が、生鮮食品よりも加工食品が、家で料理するよりも、外食の方が圧倒的に安い。おまけに、上にも書いたように、アメリカ人の夫は、無類のデザート好き。彼に付き合って、ついつい食後にアイスクリームやケーキをぱくぱく。家を一歩出たら、そこからは車に乗って、目的地まですーっと行く。日本にいるときには、駅までの道をてくてく歩いて、駅の階段を上り下りして、目的地に着いたらまた歩いて……だったのに。
 これでは、太らない方がおかしい。
「このままではいけない」
 と感じたのは、気がついたらクローゼットの中の洋服が、ほとんどすべて、ウェストのゆるーいものになっていたこと。鏡を見ると、躰だけではなくて、顔まで太ってきたのがわかったこと。私は高平さんのように、糖尿病という診断を下されたわけではなかったが、今ふり返ってみれば、肥満街道を着々と歩んでいたあの頃は、常に体調がすぐれず、そのせいか、精神状態もあまり健康ではなかったような気がする。
 その後、私は心機一転して、ベジタリアンに転向。
 同時に、一日おきに7キロから10キロのランニングを開始。
 おかげで今では、肥満とはほど遠い、スリムな健康生活を送っている。
 二年ほど前から、チーズを除く、いっさいの動物性食品(バター、牛乳、卵など)を食卓から排除し、フェイクフードと呼ばれている白い炭水化物(精白米、白い小麦粉、白いパン、白い砂糖など)も、玄米およびホールフィート、いわゆる全麦粉のパンに変えた。また、野菜はなるべく、地元で穫れたオーガニックのものを手に入れるよう心がけている。
 ただ、外食するときには、これらの原則はあえて無視し、好きなものを食べるようにしている。それでも夫婦ともに、肉類はいっさい食べない。というか、もう、食べられなくなってしまっている。肉のにおいを嗅いだだけで、幸いなことに、躰が拒否反応を起こしてしまう。

   このような私たちの食生活について、メールで高平さんにご報告したところ、
「素晴らしい! 優等生です」
 と、お褒めの言葉をいただいた。
 会社の定期検診で、肥満による糖尿病と診断されたとき、高平さんの体重は97.4キロだったという。『肥満大敵』には、その後、7ヶ月に渡る食生活の改善とウォーキングによって、31キロの減量に成功するまでの道のりが、詳しくわかりやすく記されている。
現在も、体重は65キロ前後を維持されており、血糖値も正常ということである。
 著書に同封して下さった二枚の写真を見ると、なるほど、体型も顔つきも異なる「ふたりの男性」が写っている。添えられたメッセージは「before & after」。
 ユーモアのある方なのである。
 「心の壁」と題された第7章の内容が、高平さんの人となりを実によく表している。肥満の大敵は、偏った食生活であり、運動不足であると同時に、心にひそむ障害物なのである、と、高平さんは述べている。肥満を防ぐためには、笑うことが大切、楽しみながら人生を生きていく姿勢を持とう、と。
 確かに、そうだった。
 アメリカに来た直後の私は、さまざなまストレスを抱えていた。仕事も思い通りには行かず、自信を失い、日々、悶々としていた。そうしたストレスが食べ過ぎにつながり、肥満を加速させていったことは明らかである。
 こうして、いろいろ考えていると、肥満は何も、アメリカ人だけの問題ではないということに気づく。私たちのすぐそばに、手ぐすね引いて待ちかまえているのが、肥満。「おいでおいで」と、にこやかに私たちを歓迎してくれる肥満は、しかしながら、私たちの大敵なのである。

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