ウッドストックの森から

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******************************2006.1*
その43 ミズアゲって何?

「早く観に行かないと、打ち切りになっちゃうよ。めちゃくちゃ『ボム』らしいから」 と、夫に言われて、2005年の暮れも押し迫った30日、日本では『SAYURI』というタイトルで公開されたというハリウッド映画『メモワール・オブ・ア・ゲイシャ』をひとりで観に行ってきた。
 映画評で使われている「ボム」(爆弾)とは、箸にも棒にもかからないような駄作、全く下らない、退屈で退屈でたまらない低俗な作品、一見の価値もない大失敗作などというような意味。
 ひねくれ者の私は「この映画はボムだ」という前評判が立つと、どうしても見たくなってしまう。どこがどれほどボムなのか、この目で確かめてみたくなるし、ボムの原因は何だったのか、どのあたりでボムへボムへと傾いていくのか、いろいろ考えているうちに、自分が作品を書く上での貴重なヒントも得られる。まさに、一挙両得。
 が、それよりも何よりも、私がこのボム映画を見たくて見たくてたまらなかったのは、『ラストサムライ』で一躍ハリウッドスターとなった渡辺謙や、私が高校生だった頃から活躍していた桃井かおり、『Shall We Dance?』の役所広司など、日本人俳優の姿が「モールの映画館の大画面で見られる!」という期待から。
 チケット売場のカウンターで、
「ゲイシャ、一枚」
 と言って、チケットを買う。アメリカの映画館ではこのように、タイトルを一語に縮めて呼ぶのが一般的(このコラムでも以後、この映画を『ゲイシャ』と呼ぶことにする)。
 観客数は、年末だったせいか、金曜日だったせいか、普段の平日のマチネよりも、多かった。いつもならせいぜい、5〜10人程度の観客数だけれど、『ゲイシャ』の入りは20人〜25人くらいの入りで、イメージとしては、真ん中からうしろ半分の座席にぽつぽつ人が座っている、という感じである。

 さて、時は戦前のニッポン。
 貧しい漁村で生まれ育ったチヨという名の女の子が、9歳の時、姉と共に、牛の引っ張る大八車の荷台に乗せられ、祇園の花街に売られていくところから、映画は始まる。
 その後、さまざまな紆余曲折を経て、チヨはサユリという名の芸者となり、一世を風靡。太平洋戦争を挟んで、最後は再び芸者として復活。簡単にまとめてしまうと、このようなあらすじ。言ってしまえば、数奇な運命を辿りつつ、けなげにたくましく生きて行くひとりの女性のライフストーリーを描いた映画。同時に、サユリの子ども時代の初恋(その相手役が渡辺謙)のゆくえを追った、ラブストーリーでもあった。
 すでにご存じの方も多いと思うが、映画の原作者は、アーサー・ゴールデンというアメリカ人作家。この小説はアメリカではベストセラーになり、私も翻訳書で読もうとしたのだが、あまりのボムさ加減に、途中で匙を投げてしまった。
 では、映画のボムさ加減はいかに?
 結論から書けば、私はこの映画を楽しんだ。
 笑える場面も多々あり、はっきり言って、とても面白かった。コンピュータグラフィック映画に少々疲れていた昨今、俳優たちが生き生きと演じる人物像に、すっかり魅了されてしまったのである。
 主人公のサユリをはじめ、四人の芸者のうち三人を演じたのが、中国人女優であっても。
 登場人物である日本人全員が英語(日本人を想定して、わざと下手な英語にした、と言われている)で話していても。
 こんなお寺、京都にあったかなあ? と首をかしげるような場面があっても。
 原作では「おかぼ」という名前の芸者が「パンプキン」と呼ばれていても。
 中国人女優たちのやり取りを見ていると、どうしても、カンフー映画で見た彼女たちのカンフーアクションを思い浮かべてしまうし、彼女たちが笑い顔を見せるたびに「京都の芸者さんや舞妓さんたちは、こんなに大口を開けて笑わへんやろな〜」と思ってしまう。
 それでも、とりあえず、娯楽映画なんだから、面白ければ成功なのではないかと、私は思うのだ。
 主役や準主役の芸者に、なぜ日本人女優が起用されなかったのかと、残念がる人もいるようだが、たとえば候補にあがっていた草刈民代、小雪、松田聖子、菅野美穂、栗山千明、三船美香の誰かが芸者を演じていたとして、果たしてあそこまでの「娯楽映画としての面白さ」が出せただろうか。むしろ、中心人物が中国人女優だったことで「日本人が英語で会話している不自然さ」も、ある程度、回避できたのではないだろうか。
 それに、そもそも、アメリカ人の観客にとっては、中国人も日本人も韓国人もみんな十把からげの「アジア人」なのであるからして。

 キセル煙草を吸いながら、そろばんを弾いている置屋のお母さん、桃井かおりの演技はいぶし銀のようだったし、渡辺謙はやっぱり渋くて最高にかっこよかったし、主役のチャン・ツィーの可愛らしさはため息もので、彼女のいじめ役に徹したコン・リーはものすごい迫力。サユリを一人前の芸者に仕込んでいく先輩芸者のミッシェル・ヨーも、倍賞美津子を彷彿とさせていて、好感が持てた。芸者を演じた、ただひとりの日本人女優、工藤夕貴(彼女はハリウッドで活躍している数少ない日本人俳優のひとり)も、きらっと光っていた。
 残念ながら、役所広司だけは、ちょっといただけなかった。何だかぶくっと太ってしまって、醜い中年丸出し、という感じなのである。あれは演技だったのだろうか? それとも? 
 いや、しかし、繰り返しになるが、この映画は面白かった。
 笑えた場面は、いくつもあった。
 たとえば、英会話の中に時々ふっと挟まれる日本語。
 チャン・ツィーが円らな瞳でじっと、ミッシェル・ヨーを見つめて、
「オネエサン」
 と、日本語で言う。彼女の心の中に、優しい先輩芸者に対する感謝の気持ちが溢れている場面である。なので、当然そのあとには「おおきにぃ」が来ると思いきや、
「オネエサン……Thank you.」
 となるのである。
 また、途中から、かなりの頻度で登場する「ミズアゲ」という日本語。
 その言葉が出るたびに、館内では、観客たちがひそひそ囁く声が聞こえた。
「What's Mizuage?」と。
 実は私、隣に座っていた女の人から腕をつつかれて、尋ねられてしまった。
「ミズアゲって、何なの?」
 何しろ今は映画の上映中である。素早く、答えてしまわねばならない。しかもこの言葉、物語の後半を支えていくことになるキイワードでもある。日本人の誇りにかけても、ここは正確な意味を伝えなくては。
 さあ、あなたなら、なんと答えます?
 素早く、的確に、英単語一語で、「ミズアゲとは何ぞや?」という問いに対して。
「それは……です」と。

******************************2005.12*
その42 なつかしのメロディ

 久しぶりに『君が代』を歌った。
 おなかの底に力を入れて、大きな声で。
 会場に集まった人の数は、百人くらいだったか。もちろん全員起立し、壇上の壁に高く、堂々と掲げられている日の丸を見つめて。
私にとってこれは、たぶん高校卒業以来初めての「国歌斉唱」ではなかったか。だとすると、およそ30年ぶりに張り上げた高らかな歌声、ということになる。
 場所は石川県白山市、市役所内にある施設、白山市民交流センター。
 前回のコラムにも書いたが、私は十月に、白山市の主催する『島清恋愛文学賞』をいただき、その受賞式に出席するため、かの地を訪ねた。君が代斉唱はその式の冒頭でおこなわれたのである。

 実はこの国歌斉唱、いわゆる”抜き打ち”であった。
 式が始まる前には一通り、関係者全員で予行演習をしたのだけれど、その時には全く知らされていなかった。しかし、「国歌斉唱」というのは、日本人なら誰でも、子どもの頃から小中高校を通して、幾度となく経験しているためか、特に予行演習がなくても、滞りなくおこなうことができたのだった。だから、予行演習の時には、省かれていたのだろうか。
 私も、30年ぶりではあったが、歌詞もメロディも完璧に覚えていた。私は特別に強い愛国心を抱いている人間ではない。が、やはり子どもの頃に心身に染み込んだものは、何年経っても抜けないものなのだ、そんなことを思った。
 やがて式が終わり、わざわざこの受賞式に参加するために、東京から飛行機に乗って駈け付けてくれた6人の編集者と合流した時、何人かが口々に言った。
「びっくりしたよねー、あの君が代には」
「ああ、度肝を抜かれたよ」
「どうして恋愛文学賞授賞式の初っぱなで、君が代なんだろうね」
「一瞬、起立するのを拒否しようかと思ったよ」
「市の主催ということだから、その流れで国歌、ということになるのかな」
 会話を聞いていると、彼らはどうやら、君が代斉唱に懐疑的、ということのようである。そのうち、
「ところで、小手鞠さんはどう思ったの?」
 と、白羽の矢が飛んできた。
「受賞者本人として、異義はなかったの?」
「ありませんでした」
 と、私は、心に浮かんだ答えをそのまま口にした。
「すごく気持ち良かったです。久しぶりに、大声で、歌いましたから」

 実のところ、その日の私は『君が代』に大いに助けられたのだった。
 午后二時から始まる式は、まず、選考委員長の渡辺淳一先生の「選考結果報告」、次に白山市の角光雄市長による「賞の授与とあいさつ」、そのあとに、県市町村などの議員の祝辞が続き、そしてそのあとには私の「受賞者あいさつ」というのが控えていた。
 その間ずっと、渡辺先生と私のふたりだけは、高い壇上の上に置かれたテーブルの前に座っている。
 私は朝から、この「受賞者のあいさつ」というのが、不安でならなかった。そもそも大勢の人前で何かを喋るなんて、滅多にないことだし、苦手だし、不得意だし、自信がないし、好きでもないし、しかも私は上がり性で、経験上、大切な場面でドジを踏むことが非常に多い。そんなわけで、予行演習が終わったあともずっと不安で、式の開始が近づくにつれて、不安はさらに高まる一方だったのである。
 たとえばスピーチの途中で、選考に当たって下さった作家の先生方の名前を言い違えたら―――勿論、絶対に間違えることなどあり得ないはず、なのだけれど、しかし緊張のあまり、あり得ない間違いを犯してしまったらーーーどうしよう、どうしよう、どうしよう。心臓はドキドキ、頭の中は良からぬ想像でいっぱいになっていた。
「では、ただ今から、『第12回島清恋愛文学賞』授賞式を執りおこないます」
 と、演壇の袖で司会者が宣言した。
 私の緊張は最高潮に達していた。
「それではまず初めに、国歌斉唱をおこないます。みなさまご起立を願います」
―――あれっ! 
 驚いた。これは事前の打ち合わせにはなかった。予行演習にもなかった。
 そう思いながらも立ち上がり、日の丸の方を向き、姿勢を正す。
「きーみーがーよーはー」
 歌い始めるにつれて、次第に躰の力が抜けていくのがわかった。
「ちーよーにーいいやーちーよーに」
 なんだかゆったりとした気分になってきている。
「さーざーれーいーしーのーいーわーおーとーなーりてー」
 おなかの底から思い切り声を出すって、本当に気持ちいい。
「こーけーのーむーすーまああああああで」
 いつのまにか、すっかりリラックス。緊張感は消え、いつもの自分に戻っていた。
 つまり、『君が代』には、精神安定の効果があったのである。

 国歌斉唱にはこのように、さまざまな効用がある。
 あれは昨年の夏、初めてマイナーリーグの観戦に出かけた時のことだった。
 私はそれまで知らなかったのだが、アメリカでは野球の試合が始まる前に必ず、国歌斉唱をおこなうのである(日本でも、そうなのだろうか?)
 その時観客はいっせいに立ち上がり、脱帽し、右手を心臓の上にあてて、国歌を歌う。
 また、私が観戦したいくつかの試合では例外なく、7回の表が始まる前に、「ゴッド・ブレス・アメリカ」の斉唱もあった。
 今年の夏の試合では、国歌の時も「ゴッドブレス」の時も、小学生くらいに見える地元の女の子がマイクを握って、朗々と歌い上げていた。少女の歌はプロも顔負けするほど上手く、私はその子の歌いっぷりに脱帽したくなった。
 アメリカの国歌の効用はとえいば、それはまさに「場を盛り上げる効果」だと思う。つまり、精神安定の反対で、精神昂揚、あるいは精神鼓舞、とでも言えばいいのか。その効果は絶大で、それまでてんでばらばらに、わいわいがやがや騒いでいたアメリカ人観戦者たちは、国歌斉唱をきっかけにして、まさに全員一丸となって、野球というエンターテインメントの世界にのめり込んでいく。
 そう、私にとって、アメリカの国歌は、お祭りを盛り上げてくれる「効果音楽」のようなもの。それはきわめて楽しい音楽であり、それ以上でも以下でもない。なぜならアメリカという国に対して、私は常に傍観者であり、部外者であり続けられるから。
 ここまで書いて、私は、はたと気づく。
 もしかしたら『君が代』も、私にとっては、最早そのような音楽になってしまったのか。子どもの頃よく歌った、なつかしい歌。なつかしのメロディ。それ以上でもそれ以下でもない歌。
 国歌斉唱に対して、政治的な意見を抱くことができないほど、私は日本という”国家”あるいはその呪縛から遠ざかってしまった……そういうことなのかもしれない。
 だから私はそのことを、決して憂えてはいない。

******************************2005.11*
その41 「イケメン」って何?

 十月の終わりに日本に帰国し、石川県に小旅行に出かけてきた。
 私の作品『欲しいのは、あなただけ』(新潮社)が、石川県白山市主催の『島清恋愛文学賞』を受賞、その授賞式に出席するためだった。
 これは、その帰国の旅から、アメリカに戻るために乗る飛行機を待っていた、成田空港での出来事である。
 場所は、ユナイテッド航空の搭乗ゲート41番。集まった人々は、成田発4時55分、JFK行きの飛行機への搭乗を待っていた。私はジーンズにブラウス、そしてスニーカーという出で立ち。近くには、中国人とおぼしき老女がひとり。その隣には、やはり中国系アメリカ人の若い女性とその夫(もしくは、恋人)が寄り添っていた。彼の方は、おそらくギリシャ系かラテン系のアメリカ人だろう。黒い髪の毛に、真っ黒なつぶらな瞳、彫りの深い顔立ちの、ハンサムな好青年である。ふたりは英語で、実に楽しそうに会話をしていた。日本旅行を終えて、これからアメリカに戻るところなのだろう。二十代半ばくらいのカップルのように見えた。
 私と夫にもかつて「あのような時代があったなあ」と、懐かしく思い出しながら、私は、その微笑ましい若いカップルを眺めていた。
 そこへ、ひとりの日本人女性が、つかつかと歩み寄ってきた。ユナイテッド航空の職員。年の頃、四十代半ばくらいか。彼女は、若い中国系アメリカ人女性に英語で話しかけた。
「あなたはそのTシャツを着て、飛行機に乗ることはできません。着替えて下さい」 「えっ?」
 中国系アメリカ人女性も、彼女のパートナーも、もちろん私も、驚いた。
 彼女は、女の子の顔のイラストの付いた、黄色い半袖のTシャツを着ていた。傍らには、分厚いジャケット。機内や室内ではTシャツ、外に出たらそのジャケットを羽織るつもりにしていたのだろう。
 彼女と彼は訝しげな表情で、ユナイテッド航空の職員に、いくつかの質問を向けた。 「いったい、なぜですか?」
「Tシャツを着ている人は、他にも大勢いるでしょう?」
「我々はファーストクラスの乗客ではありませんよ」
「このTシャツの、どこがいけないんですか?」
 しかし、職員の返答は、的を得ない。「あなたはそのTシャツを着て、飛行機に乗ることはできない」という言葉を、繰り返しているだけ。つまり、明確な理由説明はなされなかったのである。

 やがて、中国系アメリカ人女性はあきらめて、洗面所へ行き、Tシャツを脱いできた。他に着るものはなかったようで、素肌の上に直接、分厚いジャケットを付けている。胸のあたりがすかすかするらしく「なんだか気持ち悪い」と、彼にこぼしている。
 一連の光景を眺めていた中国人の老女が、彼女に何かを言った。私の耳には、彼女たちの会話が、はっきりと聞こえていたわけではない。ないけれど、「日本人って、イヤだね。意地悪だよね」などと、言っているに違いなかった。「きっと、私たち中国人のことが嫌いなんだよ」と、断片的ではあるが、そんな意味合いの言葉も耳に届いた。
 だから、どうこうしようと、私は思ったわけではない。ユナイテッドの職員の対応は、確かに、あまり感じの良いものではなかった。でも、それはそれ。ユナイテッドの職員は、日本人を代表して、ものを言っているわけでもないだろうと、私は思っていた。
 だが同時に、「こんなふうにして、草の根レベルで、反日感情というのは育っていくのだろうなあ」と、悲しく、やるせない気持ちにもなっていた。
 そうこうしているうちに、会話の輪が私の方へも広がってきた。
 老女は私の方を向いて、
「ね、ヘンだよね。彼女のTシャツの、どこがいけないの? あなたにはわかりますか? あなたは、日本人でしょう?」
 と、問うてきた。
 若いカップルも、興味深げに、私の顔を見ている。日本人である私に、この出来事の解釈を求めているようでもあった。
「さあ、どうしてなんでしょうね? 私にもわかりません。Tシャツを着て、飛行機に乗ったらいけないというのであれば、アメリカ人は全員、この飛行機には乗れませんよね」 
 などと、喋っている途中で、私は「あっ!」と、声を上げた。
「あっ! もしかしたら……」
 彼女の着ていた黄色いTシャツ。胸と背中に、若い女の子の顔のイラスト。そしてその近くに記されていた、日本語の手書きの文字。それは「イケメン」という言葉だった。
「うん、わかりましたよ」
 と、私は言った。「謎が解けました。おそらく、ユナイテッドの職員は、その4文字の日本語が気に入らなかったのでしょう」
 若いカップルと中国人の老女は「なるほど〜」と頷いた。
「要するに、あれは下品で、恥ずかしい言葉、禁句だったんですね? 英語だと、ファックとか、シットとか、そういう4文字言葉にあたるのですね?」
 と、アメリカ人男性。
「まあ、そういうことでしょう」
 と、私。イケメンが、ファックとシットと同義語だとは思えないのだけれど、ここはまあ、このように答えておくのがいいだろうと思いつつ。
「じゃあ、英語に直すと、どんな言葉になるの?」
 と、中国系アメリカ人女性。
「う〜ん、それは……」 
 と、言葉に詰まる私。

 イケメン。
 その流行語の正しい意味を、実は私は知らない。今もまだ、流行しているのかどうかも、知らない。
 ただ、想像してみるに、若い女の子たちがこぞってアタック(あるいは、セックス?)したくなるような「イケイケムードでいっぱいの、いいオトコ」というような意味なのではないだろうか(いかがでしょう、真偽のほどは?)。
 一応、そのようなことを、私は若いカップルに、つらつらと説明した。彼らは深く、納得してくれた。なるほど、それは「良くない言葉だ」と。
 ところで、と、私は尋ねた。
「どこで、そのTシャツを買ったの?」
「これ、彼の友だちから……その人は日本人男性なんですけど、彼からもらったんです」
 それから彼女はもう一度、洗面所に行き、そのTシャツを裏返しに着て、戻ってきた。
「グッド・アイデア! 文字が見えなきゃ、それでいいんだよね」
 と、最後はみんな笑顔になった。

 さて、あなたなら、この「イケメン」という日本語、どんな英語に翻訳しますか?
 この言葉の印刷されたTシャツを着て、飛行機に乗るのは、良くないと思いますか?
 このTシャツを、彼女にプレゼントした日本人男性、今後は気をつけて下さい。「イケメン」は、ユナイテッド航空の飛行機にも乗れない、下品で、はしたない言葉なのです。

******************************2005.10*
その40 美しい野菜をつくる人

「今月の野菜のお届けは来週火曜日、午前11時半に、場所はベアーズビル消防署前です」
 夏から秋にかけて、わたしのコンピュータにはそんなメールが入る。
「では、10ドル分お願いします」
 いそいそと、わたしは返信する。もちろん、15ドル分お願いする時もあるし、20ドルの時もある。
 野菜はすべて、畑から穫れたてのものばかり。もちろん無農薬。
 種類はとても豊富で、ざっと紹介すれば、以下の通り。
 じゃがいも、たまねぎ、東京ねぎ、スカリオン、ケール、チャード、ビーツ、枝豆、チェリートマト、バジル、ガーリック、オレンジピーマン、水菜、きゅうり、なす、ズッキーニ……
 とにかく、どれも美味しい。スーパーで売られている野菜とは比べ物にならない。また、じゃがいも、たまねぎ、ガーリックなどはスーパーのものと比べると、やや小ぶりである。だが、この大きさがきっと”自然な”大きさなんだろうと、わたしは最近思うようになった。スーパーで売られている野菜は、不自然に大きくさせられているのだ、と。
「きみたち、なんだか小さくて、可愛いのね」
 と、微笑みながら、初めてそれらのたまねぎやじゃがいもの皮をむき、野菜のシチュー(作ったのは夫)を作り、ふたりで食べた日。
 わたしたちはふたりとも「あっ」と声を上げて、驚いたのだった。
 それは、たとえば、今までずーっと、薄い膜がかかっていたようだった画面がしゃきっと鮮明に見えるようになった、あるいは、どうしても合わなかったピントがぱしっと合った、そういう瞬間に似ていた。
「あっ、この味」
「美味しい!」
「確かにじゃがいもの味がする」
「確かにたまねぎの味がする」
 これらの野菜はすべて、「自然農法」(ナチュラル・アグリカルチャー)をアメリカで実践している日本人夫妻、伴憲司さんとめぐみさん、そして古岡重信さんの手でつくられている。
 伴さん夫妻たちは文字通り、「手」で野菜をつくっている。
 野菜についた虫も、殺虫剤をかけることなく、手で一匹一匹つまんで、取り除いている。そのせいか、購入した野菜にはときどき、かたつむりやてんとう虫がくっついていることがあって、実に微笑ましい。野菜の在るべき姿を見る思いがする。
 伴さんたちのつくった野菜との出会いは、こんなふうだった。
 ある時、わたしたちは山登りに出かけて、その帰りに、小さな田舎村のファーマーズ・マーケットに立ち寄った。オーガニック野菜やオーガニック商品が売られているカントリー調の店だった。
 アメリカでは見かけない、スリムな日本のきゅうり(アメリカのきゅうりは、日本のきゅうりの三倍くらい太い)を見かけたので、つい懐かしくなって手に取ると、その値札に書かれた文字がどうも「日本人女性の書いたアルファベット」に見えて仕様がない。根拠は全くない。それはただ、勘みたいなものだったとしか言いようがない。
 きゅうりを初め、いくつかの品物を選んで、レジで精算しようとしていると、案の定、声をかけられた。
「あなた、日本人ですか?」
「はい、そうです」
「この野菜をつくったのも、日本人農夫なんですよ。この店の裏に彼らの野菜畑もあります。覗いてみたらどうですか?」
「やっぱり! この文字は、日本人女性が書いたように見えました」
「彼女の名前はメグミといいます。彼女はスシをつくって、ここで売ることもあります」
「へーえ、そうなんですか?!」
 それからしばらくして、ある日本人の家で開かれたホームパーティで、わたしは伴さんご夫婦と出会った。ふたりは、真っ黒に日焼けした肌と、きらきら輝く瞳の持ち主。この夫婦のそばにいるだけで、なんだかわたしは元気で明るいオーラに包まれる。そう、美味しくて健康的な野菜をつくっている人はやはり、元気で明るいのだ。
 今年の夏、めぐみさんの案内で、野菜畑を見学させてもらった。
 畑は山間(やまあい)の、陽当たりの良い斜面に築かれていて、すぐ近くにはキャッツキルの雄大な山がそびえている。
 野菜のほかにもミント、ひまわり、そばなどが植えられている。そばはちょうど満開で、白い花が風に揺れていた。
「ひまわりとそばは、枯れたら土地に鋤き込んで、土の栄養にするために植えているの」  と、めぐみさんが説明してくれる。
 そうなのである。この畑では、人工的な肥料などいっさい使われていない。土地そのものが、太陽と雨と自然に枯れた植物で肥やされているのだ。
「ここは、アスパラ畑。わたしたちが食べているアスパラは、芽なのね。これは来年のために畑に残したアスパラの苗」
「これが、アスパラなの!」
 アスパラがこんなにも可憐な、こんなにも儚げな、若木のような姿をしているなんて……知らなかった。
 野菜畑というのは、感動的な場所だ。
 なぜならそこで、わたしたちは気づく。野菜は野菜である前に、ひとつの植物なのだと。つまり、レタスにも種があり、芽があり、根があり、茎があるということ。レタスとは、葉っぱだけの存在ではないのだ。言ってしまえば、レタスはひとつの生命体であり、ひとつの物語でもある。
 そして、それを支えているのが、土。
 野菜は土の中から芽を出し、葉っぱを広げ、花を咲かせ、実をつける。地中には根を深く伸ばして。わたしたちが野菜―――その生命体の一部―――を口にする時、わたしたちは土を口にしている。だから、この畑で育ったじゃがいもやたまねぎは、あんなにも美味しかった……。
 野菜が美味しいのは、土が生きているから。
 生きた土から生まれた野菜は、生命力に満ちあふれていて、美しい。
 わたしはその時、そのようなシンプルな真実に、胸を打たれていた。と同時に、今、人間がどれほどまでに土地を破壊しているかを思うと、空恐ろしい気持ちにもなった。
 わたしの敬愛するダライ・ラマが、著書の中で語っていた言葉を思い出す。
―――われわれの惑星を大切にするのは、わが家を大切にするのと同じだ。自然から生まれたわれわれ人間が、自然に反して生きたとて、なんの意味があろう。
「虫に食われている葉っぱでも良かったら、どうぞ、持って帰って」
 彼女の言葉に甘えて、わたしと夫は、穴の空いたケールやチャードを摘ませてもらい、どっさりといただいた。虫にちゃんと喰われている野菜の、なんと美味しいこと!
 お日様の光をいっぱい浴びて育った野菜は、なぜか「懐かしい」味がする。それはきっと、わたしが子どもの頃に食べていた野菜には、まだ今ほど大量の農薬が使われていなかったということではないだろうか。土地もまだ、今ほど死んでいなかったのだろう。
 夏の日、縁側で、トマトをがぶりと丸ごと齧って、食べていた記憶がよみがえる。伴さんたちのつくったトマトは、確かにそういう味がする。
 すべての野菜が自己主張している。
「僕はたまねぎだよ」
「私はじゃがいもよ」
「美味しいでしょ?」
 そんな声が聞こえてきそうなのだ。
 大量生産主義、大量消費主義、大きいことはいいことだ、そんな思想が横行するアメリカで、丹誠こめて、手づくりの野菜を育てている日本人がいるということを、わたしは誇りに思っている。

******************************2005.09*
その39 和太鼓を演奏する人

 神社の前には出店が並び、金魚すくいに、風船すくい、色とりどりのかざぐるま、綿菓子、たこ焼き、焼きそば、お好み焼き、おでん、焼き烏賊、焼きりんご……とくれば(なんだか食べ物が多いような気もするが)、そう! 日本のお祭りである。
 では、これがアメリカのカントリーサイドだとどうなるか?
 広〜い原っぱにでっかいテントが張られ、地面には歩きやすいように藁が敷き詰められ、テントの中には各種農作物、メイプルシロップ、蜂蜜、そして、キルト、工芸品、絵画、版画など手作り芸術品のブースが所狭しと並び、フードコートと呼ばれる食べ物コーナーでは、インド料理、バーベキュー、ハンバーガー類、アイスクリーム、手作りのパンなどの販売、その隣には、これまたでっかいステージが設置されていて、そこでは朝から夕方まで、カントリーミュージック、ジャズ、メキシコ音楽、フォークソングなどなどのライブコンサートがにぎやかにおこなわれている。
 入り口付近にある別のテントを覗くと、そこは「ペッティング・ズー」、いわゆる「ふれあい動物園」で、馬、アルパカ、リャマ、羊、山羊などなどが飼い主と一緒に勢揃い。そのせいか、お祭り会場には終始、なんだかなつかしいような、そうでないような、田舎の臭いのする(要するに、動物たちの糞の臭いなのだが)風がそよいでいる。
 そのような香りに包まれて、ライブで聴くジャズ、というのも、なかなかオツなものなのである。
 今年の夏、私は三つの夏祭りに行ってきた。
 上に書いたお祭りもそのひとつ、うちから車で小一時間ほど北上したところにあるハンターという村で催されていた、その名も「マウンテン・カルチャー・フェスティバル」。
 自称芸術家たちの作品を見学し、動物たちと愉しく触れ合い、アルパカとリャマの違いも理解し、ブースの一角に設けられた「セラピストによるカウンセリング・コーナー」を横目で見ながら、「なんて、アメリカ的なんだろう」と苦笑したあと、私はコンサート会場に出向いて、一番前の席を確保した。十二時から始まる和太鼓の演奏を、かぶりつきで見るためである。
 こんなアメリカの片田舎で、ニッポンの太鼓の演奏が聴けるなんて!
 と、わくわくしていた。
 その演奏は、全く私の期待を裏切らなかった、というよりも、期待を遥かに超えて、素晴らしかった。
 出演したタイコ・ドラマー(演奏者は英語でこう呼ばれていた)たちは、若い女性が三人、若い男性が三人、そして、彼らの師匠のように見える中年男性(タイコ・マスターと呼ばれていた)の総勢七人。
 この七人は全員日本人のように見えたが、あとで話を聞くと、うち三人は、日本人とアメリカ人のハーフだということだった。途中でひとり、生粋のアメリカ人の尺八&太鼓奏者が加わった演奏もあった。みんな、このお祭りに出演するために、わざわざ西海岸から飛行機に乗って、やって来てくれたという。
 私は和太鼓のライブというのは初めて見たし、初めて聴いたのだが、まず、師匠の独奏に、躰に電流が流れるような感動を覚えた。彼は聴衆に、背を向けていた。しかしその背筋には明らかに一本の”すじ”がピーンと通っていて、思わず私の背筋も伸びるような心地がした。侠気があって、勇み肌、多くを語らず、渋くて苦く「ああ、これぞ日本男児」という感じなのだ。
 若い男女六人の演奏は、見ていて、実に楽しかった。
 想像してみて欲しい。
 アメリカの北東部の片田舎、どこまでも晴れた夏空のもと、生まれも育ちもアメリカの、とてもとても可愛い日本人の女の子、ファッションモデルとしてすぐにでも仕事を始められそうなハーフの女の子、日本へ行けばすぐにでもアイドルになれそうなハーフの男の子たちの、いなせな姿を。
 あとで楽屋にお邪魔して、彼ら、彼女たちと話したのだが、みんなまだ大学生か高校生だった。みんな、日本語よりも英語の方が得意だったし、英語しかできない子もいた。演奏用の衣装(法被や鉢巻きや足袋)を脱いでしまうと、どこにでもいるようなアメリカのティーンエイジャーなのだが、それでもみんな、自分の内面に、それぞれの「日本」が在ることを意識しているようだった。
 私がそのこと―――彼らの中のニッポン―――を感じたのは、途中でひとりのアメリカ人が、演奏に加わった時だった。
 彼はアメリカでは有名な尺八と太鼓の奏者、ということだったが、私の目には、彼の姿と演奏方法はひどく異質なものとして映ってしまったし、彼の奏でる音も悲しいかな、不協和音のようなものに聞こえてしまった。なぜなら、彼の動き、立ち居振る舞いはあくまでも「曲線」であり、まわりの演奏者たちのビシッと気合いの入った「直線」とは、相容れないものがあったのである。
 演奏者として、彼の技術は若い男女六人を遥かに超えているのかもしれないが、彼が加わると、それまで舞台の上に漂っていた不思議な静けさ、舞台を律していたまっすぐな美しさ、日本的な秩序というか、静謐で荘厳な雰囲気が乱れ、ふにゃふにゃ、くちゃくちゃした感じが加わってしまうのだ。
 このアメリカ人演奏家の所作と演奏について、同じアメリカ人である夫の表現はかなり的を得たものであったので、ご紹介しよう。夫は言った。
「あのアメリカ人の演奏を見ていると、僕はどうも、フットボールの応援をしているチアガールを連想してしまうよ」
 なるほど! そういうことなんだ、と、私も膝を叩いて同意した。
 アメリカ人演奏家はどうしても、自ら演奏を「楽しんでしまう」のである。あるいは、過剰なサービス精神からか、思い切りエンターテインメント、してしまうのである。もちろんそれは、いいことだと思う。ちっとも悪くない。しかしながら、日本的な美や芸事の中には、そういった「楽しみ方」を、あえて拒否するというか、抑制しているというか、本人が意識しているか、していないかにかかわらず、演じる方にも見る方にもそういうストイックな部分があるのではないかと思う。そして両者はやはり、相容れないものなのだろうと。
 かく言う私は、常日頃は「アメリカ的なエンジョイ」を人生のモットーとしているのであるが、私の根にもやはり、日本的な美意識は確固として存在している、と、信じていたいこの頃である。

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