【バックナンバー・6】 その38 戦場を見てきた人 戦争映画だーい好き! とわたしが言うと、アメリカ人の友人知人はちょっとだけ目を丸くして「へーえ、それは驚きだなあ」と言う。 「あなたに、似合わない」 「あなたらしくない」 というのである。 平和主義者であり、厳格な動物保護主義者であり、およそ虫も殺さない人間であると自負しているわたし。にもかかわらず。 「戦闘場面が残酷であればあるほど大歓迎だし、画面に血だらけの死体が少なくとも百体くらいは出ないと、満足しない」と、英語でジョークを言うと、彼らは多いに笑って、でもそのあとには必ず「いったいどうしてまた???」と、「?」が三つくらい付けられることが多い。 実はこれまで、わたし自身、その理由がよくわからないままに、大好きな戦争映画を、これでもかこれでもかと見続けてきたのだった。 昨今のアメリカでは、毎週のように新しい戦争映画が封切られている、と言っても、決して過言ではない。実際に毎週ではないとしても、そう感じるほど、戦争映画大流行(おおはやり)なのである。たぶん、この国が今現在「戦争中」の国だからかもしれない。 ショッピングモールの映画館では、だいたいいつも10本〜12本程度の映画を上映しているが、そのうちひとつは必ず戦争映画。 映画館の切符売場のおじさんとは、すっかり顔馴染みなのだが、このおじさんも、わたしに冒頭の質問をした人のひとり。夫とふたりで映画館に行く時には、わたしたちはたいてい、ばらばらに分かれて、別々の映画を見る。趣味が違うからだ。ある時、切符売場で、夫はSF物、わたしは戦争物の切符を買おうとしたことをきっかけに、おじさんと仲良くなった。彼はてっきり逆だと思ったようなのだ。以来このおじさんは、わたしが窓口に姿を現すと、黙って、戦争映画の切符を売ってくれる。 映画だけではなくて、戦争をテーマに描いた小説も愛読している。 アメリカの作家では、ベトナム戦争をテーマに書き続けているティム・オブライエンの大ファンだし、日本文学では、『玉砕』(小田実著)、『八甲田山死の彷徨』(新田次郎著)、『黒パン俘虜記』(胡桃沢耕史著)が、わたしにとっての戦争文学ベスト3。ヴィクトール・フランクルが書いた『夜と霧』は、何度読み返したかしれない。 そんな、戦争物には目がないわたしが最近読んで、ない目からでも鱗が落ちてしまったーーーというほど感動した作品をご紹介したいと思う。 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(梯 久美子著 新潮社)である。 タイトルが示す通り、これは、昭和20年、硫黄島で繰り広げられた日米間の烈しい死闘を指揮した栗林忠道中将(のちに陸軍大将となる)の人となり、戦争に対する考え方やその戦術、苦悩や葛藤、家族に対する愛などを、綿密な史料分析とこまやかな筆致によって、余すところなく描いた、非常に優れた人物伝である。 あるものに、まるで素手で触れているかのように描かれている場面があれば、遙か彼方の宇宙の視点から描かれている場面もあり、戦争という悲劇に散ったひとりの人間を描きながらも、人間そのもの、歴史そのもの、言ってしまえば魂を描くことに、成功している傑作だとわたしは思う。 血みどろの戦争が描かれている。 作品の中では多くの人が死ぬ。日本人もアメリカ人も死ぬ。残酷きわまりない。悲惨である。梯さん曰く、兵士たちは「苦しい生を生き苦しい死を死んだ」。 しかし、限りなく美しい作品なのである。 どう美化しても、所詮は人殺しに過ぎない醜い戦争。それを描いているのに、この作品はなぜ美しいのか。その理由は、この著者の「心根の美」「視点の美」ということに尽きると思う。プロローグを読み始めた時点ですでに、わたしはこの「美」に引き込まれていた。 戦争物はどうも苦手だ、という人にも、自信をもっておすすめできる。 「女・子ども」ならなおのこと、絶対に読むべきである。 この作品を読み終えた時、わたしはそれまで解けなかった謎が解けた気がした。 わたしが戦争物を好きな理由。 それはわたしが戦場へ「行ってみたい」からなのだ。実際に戦場へ行って、戦争がしたい、という意味ではない。その逆である。戦争へなど、死んでも行きたくないし、戦争には大反対だ。ゆえに、わたしは映画で、文学で、ノンフィクションの世界で、戦場へ行きたい。行って、そこにどのような世界があるのか、あったのか、どんな人が、どのような苦しみを味わいながら、どのように死んでいったのか、それを「見たい」「見なくてはならない」そう思うのだ。 『散るぞ悲しき』を書いた梯(かけはし)さんは、実際に戦場へ足を運んでいる。今でも滑走路に、おおぜいの人の遺骨が埋まったままだという硫黄島の土を踏んで、この作品を書いた。彼女の文章に導かれて、わたしもこわごわではあるが、戦場へ行ってくることができた。この感動は、どんな反戦集会にも負けないほどの、強い反戦パワーとなるに違いない。 戦争に反対したいなら、あなたは戦場へ行かなくてはならない。今度友人に「なぜ、そんなに血だらけの映画が好きなの?」と訊かれたら、そう答えようと思う。 ******************************2005.7* その37 羊たちの沈黙 「緑と妖精の国」アイルランドの村から村へ、レンタカーで旅してきた。 今、目を閉じると、瞼の裏にも表にも、浮かんでくるのは羊、羊、羊、羊―――なんだか十日間で、一生分の羊を見た、という気がしている。 生来、動物が大好きなわたし。旅の初めの頃は羊を見かけるたびに、 「きゃー、可愛い!!!」 と、いちいち歓声をあげていた。 「見て見て、あんなところに!」 「あそこにも、ほら、あそこにも!」 「あ! 仔羊!!! 仔羊がいる!」 夫もいちいち反応していた。 「ほんとだ。あんなところに」 「いやー、可愛いね。背中を撫でてみたいよね」 などと、目を細めて。 ときどき、生け垣を越えて車道に出てきていたり、道路を横断しようとしている羊たちに出会おうものなら、それはもう、車窓から身を乗り出し、ハンドルから手を離して、口笛と拍手喝采とスタンディング・オベーションなのである。 しかし、日が経つにつれて、車内は静けさを取り戻した。多少の羊では、もう驚くことはない。たぶんアイルランドの人たちと同じように、どんな風景の中にも必ず羊がいる、というような状態が、当たり前になっていたのだと思う。 放牧場となっている草原、野原、山裾、谷あいなどは言うまでもないことだが、風光明媚な観光名所や、あと一歩踏み出せば海に落ちてしまいそうな、切り立った絶壁のはしっことか、ふと見上げた岩山のてっぺんとか、あるいはまた、宿泊しているB&B (ベッド・アンド・ブレックファースト) の窓を開けるとそこにも、羊はちゃんといるのである。 アイルランドの羊は、顔と足が黒い。ふわふわの毛布を四、五枚くらい、背中からかぶっているように見えるモコモコの体を、支えている四本の足は、小枝のように細い。顔は、目と目がかなり離れていて、愛嬌がある。だが、コミュニケーションは望めない。 「羊ちゃーん、こんにちは」 と、声をかけても無視されるだけだ。それでも思わず声をかけずにはいられない、そんな愛くるしさがある。 ディングル半島を一周しながら、紀元前800年から10世紀頃まで使われていたという石造りの砦や教会や住居跡を見学しているとき、たまたま遺跡のすぐそばで、羊飼いが放牧中の羊を、小屋に収めようとしている場面に遭遇した。 それまで広大な山の斜面に散らばっていた無数の羊たち(たぶん百数十頭かそれ以上) を、ふたりの羊飼いが二匹の犬を使って、ひとつの群れにまとめてゆく。羊も人間と同じで、集団の中には必ず、群れに背を向け、反対方向に走り出す輩がニ、三いる。心当たりのある方も多いことでしょう。 犬もそれをよく心得ていて、一匹が威嚇、もう一匹が誘導と、それぞれの役割を果たしながら、最後のはみ出し羊を群れの中に追い込んで、お役目終了。 その見事な羊さばきは圧巻で、わたしたちを含めた観光客は全員総立ちのまま、遺跡もそっちのけで、このパフォーマンスに目を奪われていた。 アイルランドの広さは、北海道とほぼ同じ。そこに、391万7203人(2002年)が住んでいる。これは静岡県の人口とほぼ同じ。しかし、驚くなかれ、群れから離れた羊たち、つまり国外で暮らしているアイルランド人の数は、なんと7000 万人にのぼるのである。 1949年、正式にイギリスからの独立を果たすまでのアイルランドは貧しく、政情不安定な国家だった。多くの国民が、海の向こうにある「自由の国アメリカ」を目指した。とくに1846 年、アイルランドがじゃが芋の凶作に見舞われた年、移民の数はピークに達した。 マンハッタン島に到着したアイルランド人は最初に、ロウアー・イーストサイドに住み着いた。マンハッタンの最南端に位置する場所で、ウォール街やニューヨーク証券取引所、テロで破壊された世界貿易センターのあった地域である。 カトリック教徒だったアイルランド人は、他の白人移民から迫害を受けることが多く、「アイルランド人お断り」というような求人広告に、職場進出を阻まれていたという。しかし、移民数にものを言わせて、次第に勢力を拡大し、1860年代頃には公務員、とくに警察官として活躍するようになっていった。 その後、アイルランド人移民はロウアー・イーストサイドから方々に散らばって、アイルランド人街を作った。 アイルランド人街に欠かせないものといえば―――そう、パブである。 羊も歩けばパブに当たる。 これは、マンハッタンや首都ダブリンに限らず、どんな田舎町でもそうだったし、羊と馬と牛しか住んでいないような辺鄙な村でも、パブだけは必ず一軒、存在していた。 そして、アイリッシュ・パブと言えば―――そう、スタウトと呼ばれる黒ビールである。それまで、缶ビールのギネスは飲んだことがあったが、本場で飲む生のスタウトは「これがほんとにビールなの!」と叫びたくなるほど、芸術的な飲み物であった。 ビール界の「カプチーノ」と言いたくなるような、クリーミーな泡。 ビール界の「漢方薬」と言いたくなるような、複雑な苦みと渋み。なのに、 ビール界の「ハーブティ」と言いたくなるような清々しさと爽やかさを合わせ持った、なんとも見事な一品なのである。 アイルランドの人々は、とにかくよく飲む。どこのパブも、まだ日が高いうちから賑わっている。中には、日本の居酒屋も顔負けの大騒ぎパブもある。誰もが飲むという大前堤があるせいか、レストランの夕食メニューには、パンが付いてこない。 酒量も多いが、食事の分量ときたら、これがまた、信じられないくらいに多い。よく、アメリカのレストランに行くと、量が多過ぎて食べられないという人がいるが、アイルランドの量ときたら、アメリカの約2倍はあるのである。もしかしたら、アメリカのレストランの分量の多さは、アイルランド移民によって、もたらされたものなのかもしれない。 よく飲み、よく食べ、よく飛ばす。 これがアイルランドの国民性じゃないかと、わたしは思っている。 しこたま飲んで、たらふく食べた帰り道、アイルランド人は、車二台がぎりぎりすれ違えるかどうか、それも危うい、というような細い道を、時速100キロでぶっ飛ばす。ヨーロッパで最も交通事故率の高いのはアイルランドである、というのも頷ける。 しかしながら、旅先で出会った人たちは老若男女みな一様に、ちょっとシャイで、アメリカ人みたいにべらべら喋らず、おとなしくて優しくて親切で、温厚な人たちだった。そう、まるで羊のようにね。 なのに、黒ビールを飲み、ハンドルを握ったら、性格が豹変してしまう。 「ねえ、どうしてそうなるの?」 と、日がな一日、のんびり草を喰んでいる羊たちに、訊いてみたくなったことだった。 ******************************2005.6* その36 聖パトリックの教え 6月10日から10日間、アイルランドへ旅することにした。 夫は子どもの頃、親に連れられて訪れたことがあるそうだが、「ほとんど何も覚えていない」と言うし、私は初めての旅である。 長年、行ってみたいと思っていた「羊と緑と妖精の国」アイルランド。 イエーツ、バーナード・ショウ、サミュエル・ベケット、シェイマス・ヒーニーという四人のノーベル文学賞作家をはじめ、『サロメ』で知られるオスカー・ワイルドや、『ユリシーズ』で知られるジェイムス・ジョイスを生み出した「文学の国」でもある。 この国と私の関係は、かなり深い。 夫の祖父(すでに亡くなっている)は、アイルランド人だった。祖母はユダヤ人で、夫の父親はアイリッシュ・ジューイッシュ。したがって夫には4 分の1、アイリッシュの血が 混じっている。夫の名字サリバンは、れっきとしたアイルランド系。 それだけではない。 なんと、私の誕生日3月17日は、アイルランドの人々とは切っても切れない関係にある聖人パトリックの命日にあたるのである。 この日は「セント・パトリック・デイ」と呼ばれており、アメリカでは各地で盛大なパレードやイベントが繰り広げられる。アイルランドからの移民が多く暮らしているニューヨークシティの大パレードはあまりにも有名だが、実際のところ、こうしたお祭りはアメリカだけでなく、世界各地でおこなわれているようだ。もちろん、本家本元のアイルランドでは言うまでもないことだろう。 アイルランドの人々が「守護聖人」として崇める聖パトリックとは、いったいどのような人物だったのだろうか。 実は、聖パトリックはアイルランドの生まれではない。彼は四世紀後半に、ブリテン島で、キリスト教の助祭の子どもとして生まれた。そして十六歳の時、当時住んでいた村を襲った襲撃者たちにさらわれ、奴隷として、アイルランドに売られてしまう。孤独と屈辱と絶望の中で、豚や羊飼いの仕事に従事したのち、アイルランドから脱走した彼は神学を学び、その後ヨーロッパ大陸に渡り、聖職者としての修行を重ねる。 やがて聖職者となったパトリックは、しばしば、アイルランドの夢を見るようになる。夢の中で、彼は人々の声を聞く。アイルランドの人々は彼に「お願いします。もう一度、ここに戻ってきて、私たちと共に歩いて下さい」と呼びかけるのだった。 パトリックは再び、アイルランドへ渡る決意を固める。少年の時、奴隷として連れ去られた苦難の地に、今度はキリスト教を伝道する司教として、赴任することになったのである。アイルランドに戻った彼は、教会や礼拝堂を建て、人々のために献身的に尽くし、以後今日に至るまで、偉大な聖人として慕われる存在となった。 当時のアイルランドには、紀元前200年頃から住んでいたケルト民族(150ほどの部族があったという)が暮らしており、政治的には統一されていなかったが、自然崇拝を基本とする土着の宗教が根付いていた。私が心を惹かれている妖精信仰も、ケルト民族の生み出したものだ。聖パトリックは、この在来宗教をうまくキリスト教の中に取り込みながら、アイルランドのキリスト教化を進めていった。現在、アイルランドの全人口の94% はカトリック教徒である。 ここで、話をニューヨークの街角へと戻したい。 聖パトリックの命日は465年3月17日。時はそれからなんと1297年も経った、1762 年の3月17日のことである。 「きょうは、セント・パトリック・デイだ。朝から酒を飲むという無礼講が許されている! さあ、みんなで飲み屋へ直行して、黒ビールで乾杯しようせ!」 と、叫んだかどうかは定かではないが、ニューヨークで暮らしていた数人のアイルランド出身の軍人たちは、この日を祝うため、酒場へ繰り出すことにした。 「どうせ行くなら、派手に行こうぜ!」 と、言ったかかどうかも定かではないが、彼らは胸に、聖パトリックがキリスト教の三位一体説を説くために使ったと言われるシャムロック(日本にも自生しているミヤマシロ カタバミ。三つ葉のクローバーにそっくり)の葉っぱを飾り、アイルランドの旗を手に、 おまけに楽隊まで付けて、朝から店を開けているアイリッシュ・パブへと闊歩していった。 これを見物していたニューヨークカーたち、物珍しさと好奇心から、次々にこの行列に加わり始め、アイルランド出身の人も、そうでない人も、みんなでアイルランドの歌を合唱しながら行進、中には踊り出す人も出て、いつしか行列は盛大なパレードと化していった。これが、ニューヨークシティにおけるパレードの発祥の所以である。 こうして、毎年3月17日のマンハッタンには、路上にも街にも、朝から酔っぱらいがあふれ、街のあちこちで終日、酒乱が横行し、飲酒によるトラブルが多発する。ニューヨークシティの警察官には、アイルランド系の人が圧倒的に多い。取り締まるべき人がその日は飲んだくれているわけだから、この狂騒、さらに盛り上がってしまうのである。 ではなぜ、3月17日には「朝から酒を飲んでもいい」と言われるようになったのか? 聖パトリックは天上にいて、こうした人々の痴態をどのように眺めているのだろう。 465年、臨終の床にあった聖パトリックは、まわりに集まった信者や友人に、このように言ったそうだ。 「どうぞ悲しまないで下さい。それよりも、天国へ召されていく私を祝って下さい。どうしても悲しければ、あなたの心の痛みを和らげるために、何らかの" しずく" をお飲みなさい」 この「しずく」を、アイルランドの人々は、水や雨粒や朝露や涙とは解釈せず、「酒」と解釈したようである。 私は来月アイルランドへ行って、現地のバプでしっかりと、そのことを確かめてくるつもりでいる。 ******************************2005.5* その35 魂を揺すぶられる作品『ネグレクト』 「ネグレクト」という言葉を、アメリカでわたしが初めて耳にしたのは、2001年の9月だった。なぜそこまで正確に記憶しているかと言えば、その年の9月11日に、今は「9・11」と呼ばれるようになった、あのテロ事件が起こったからである。 九月の終わり頃だったか、家から3時間ほどドライブしたところにある「アニマル・サンクチュアリー(動物の駈け込み寺)」という名の施設を訪問した時のことだ。施設の運営者である四十代の独身女性キャサリンは、もと農場だったという広い土地を購入し、そこで牛や馬や羊などを放し飼いにしていた。犬、猫、鷄などもいる。 「動物たちは、ここに来るまではみんな、残酷な人間たちにネグレクトされていたのよ」 と、彼女は施設の中を案内しながら、教えてくれた。 「ネグレクトーーーですか?」 虐待(アビューズ)という言葉は非常によく聞くが、ネグレクトという言葉はわたしにとって、初めて聞く単語だったのである。 「そうなの。見て。この牛はね。私が引き取りに行くまで、身動きもできないほど狭いコンクリートの牛小屋に閉じ込められ、餌も水も与えられないままで何ヶ月も、放置されていたのよ」 彼女はそう言いながら、牛の頭を優しく撫でた。わたしも撫でさせてもらった。 「今はこんなに元気で、穏やかないい子だけれど、ここに来たばかりのころは、ものすごく攻撃的な性格になっていたの。近づくこともできないくらい、危険な牛だったのよ」 家に帰って、辞書で調べてみた。 neglectの意味は、動詞としては「義務や仕事などを怠る」「看過する」「無視する」。名詞としては「怠慢」「軽視」「粗略」と出ている。 なるほど、と、わたしは思った。 なるほど、確かにこの世の中には「動物を、ネグレクトしている人は多いだろうなあ」と。そう、わたしは「ネグレクト」という言葉を、「人間が動物に対しておこなう行為」と、思い込んでいたのである。 ノンフィクション作家の杉山春さんが書いた『ネグレクト』(小学館)を読んだ時、だからわたしは、ものすごい衝撃を受けた。読了後一週間ほどは、夜ぐっすりと眠ることができなかったほどだ。 今でも、大量の食料品が所狭しと並ぶスーパーマーケットの通路に立って、買い物をしている時、友人の家に呼ばれ、ディナー・テーブルの上の、食べ残された料理が乗ったたくさんの皿を眺めている時、カフェやデリの行列に並び、食べ物を買い求めようとしている人々の群れに混じっている時、わたしの胸の中に、ふいに、鋭い痛みが甦ってくる。 段ボール箱の中に閉じ込められ、亡くなってしまった、真奈ちゃん。三歳になったばかりの女の子の、餓死寸前に特有なものだという「ひーひー」という甲高い悲鳴が、今にも聞こえてきそうな気がする。 杉山さんの作品『ネグレクト』には、人間が人間に対しておこなった行為、親が幼い子に対しておこなった仕打ちとしての「ネグレクト」が、つぶさに描かれているのである。 作品の内容や事件の詳細については、ひとりでも多くの人に、この作品を読んでいただきたいと願うことから、ここにはあえて記さないことにするが、日米の子育てや幼児虐待などの事情を比べてみて、興味深いなと感じたことだけ、紹介しておきたいと思う。 まず、警察制度について。日本の警察は、幼子が餓死してしまうまで、現場に踏み込んで来なかったが、アメリカではおそらく、こうはならないだろうと思った。警察はもっと早い段階で、現場に踏み込んで来て、両親から事情聴取をし、女の子を保護しただろう。 では、アメリカの警察は、いったいどのようにして、ネグレクトの実態を知るのか。それは、病院、あるいは隣人の通報によって、だろう。 あるアメリカ人の友人が、言っていたことがある。 「うちの子が赤ん坊だった時、彼女が泣き始めるとまず、家中の窓を閉め切ったものよ。泣き声を聞いた隣近所の人に、警察に通報されては大変だと思ってーーー」 まったく同じことを、犬の飼い主が言っていたこともある。犬が激しく吠え始めると、動物虐待ではないかと言って、通報される恐れがある、と。 それくらい、アメリカは「虐待」に対して、敏感な社会なのである。また、市民はそうした「通報」に、躊躇いを感じることはない。 けれどもその一方で、子どもの成長を定期的にチェックするような公的な制度(日本で は、保健婦が家を訪ねて来たり、定期的に検診に連れて行ったりする制度があるようだが)は、アメリカにはない。これは、裏返せば、「成長は、個々の子どもによって異なるものだ」という概念が、徹底しているからに他ならない。 我が子を餓死させてしまった日本の若い親が、自分たちの子どもの成長が他の子どもよりも遅れていることを苦にして、家に閉じ込めがちになっていった過程を読むと、日本の制度に少し、疑問を感じたのも事実である。 こんなことがあっていいのか、と、魂をぐらぐら揺すぶられる『ネグレクト』。 今、子育てをしているお母さん、お父さんにも、これから親になる予定の人にも、子どものいないわたしのような読者にも、ぜひとも読んで欲しい作品だ。 我が子を、これでもかこれでもかとネグレクトし、餓死させた親がいた。この両親には、死なせた子ども以外にも、ふたりの子どもがいる。うち、ひとりは刑務所内で生まれている。そして数年後には、この両親は社会に戻ってくる。これは、わたしたち全員に「関係のある話」だと、わたしは思うのだ。 幸福な人にこそ、読んでもらいたい。「自分には関係のない話」だと思う人にこそ、読んでもらいたい。目を塞がず、蓋をしないで、どんなに暗い気持ちになろうとも、一字一句を読んで、「怖い」「かわいそうだ」「どうしてこんなことが?」と、思っていただきたい。「これでも親なのか」「こんな軽い刑でいいのか」と、大いに怒っていただきたい。 何かを感じる、ということの重要さ。 それを、わたしは思う。責任は社会や制度にあるのではなく、やはりふたりの親、その心根にあるのだ、と。これは、恐ろしいくらいに「何も感じることのできない人間」が、子どもを持ったために起こった、人間悲劇なのである。 ******************************2005.4* その34 わが家の指輪物語 夫の母ベティから、小包が届いた。誕生日でもないのに「何かな?」と思いながら開けてみると、中から出てきたのはB5サイズに引き伸ばされた数枚の写真と、ビロードの指輪ケース。 ベティは近々、自宅を売り払い、医療施設付きの老人専用マンションに、引っ越す予定にしている。そのための身辺整理をして、不要になったもの、そしておそらく自分では捨てがたいものを、わたしたちのもとに送ってきたのだろう。 セピア色に染まったモノクロの写真は、ベティとジャック(夫の父の名前)の結婚写真。いかにもプロのカメラマンが撮影した、と思われるものの他に、スナップ写真も何枚か、含まれていた。もちろんどの写真にも新郎新婦、すなわち、夫の両親が満面に笑みをたたえて写っている。指輪は、ダイヤモンドの結婚指輪。 「ねえ、こんなものが届いたよ」 と、わたしは夫に中身を見せた。 一瞥して、夫は言った。 「全部まとめて、捨てることにしよう」 「えっ! 捨てるの?」 「うん」 「全部まとめて?」 「そうだよ。何か問題ある?」 問題があるのかと問われると、あるのか、ないのか、わからなくなってしまうし、仮に問題があると仮定して、じゃあそれはいったいどんな問題なのかと言われたら、うまく説明できないのだけれど、とりあえずわたしは、思い付いたことを言葉にした。 「だって、これはあなたのご両親の結婚写真で、これはあなたのお母さんが、あなたのお父さんからもらった結婚指輪なんだし」 「だから?」 「だからーーー」 と、わたしは言葉に詰まってしまう。 「写真は僕が大切に保存し、時々取り出して懐かしく眺める? それとも毎日見ることができるように壁に飾っておく? 指輪はきみがはめるの? 左手の薬指に?」 「まさか。そんなことは」 できない。そんなことは当然、できない。実際のところ、その指輪はわたしのどの指にもうまくはまらなかったし、もしもはまったとしてもそれは「離婚指輪」なのだ。はっきり言って、縁起が悪い(こういう考え方、自分は日本人だな〜とつくづく思う)。 「だったら、捨てるしかないじゃない?」(アメリカ人はやっぱり合理主義!?) 「まるで、ごみのように?」 「そうだよ。だって実際、ごみなんだから、これは」 夫の両親は、彼が十八歳の時に離婚している。 物心ついた頃から、ふたりの仲は険悪で醜悪で不毛で、夫は毎日のように「両親の離婚」を願いながら成長した。ふたりが離婚した時には「嬉しくて、嬉しくて、思わず家の外に飛び出して、走り回ったくらいだ」と言う。親子三人で過ごした、幸福な思い出というものを、夫はひとかけらも持っていない。とはいえ、離婚する夫婦が多いアメリカでは、夫のような人は決して、珍しい存在ではない。 その後まもなく、父母はそれぞれ、別の人と再婚。継母も継父も離婚経験者で、どちらにも子どもがいたので、一人っ子だった夫には突然、合計四人の義理のきょうだいができた。夫は母夫婦とも、父夫婦とも、一緒に住むことはなかったが、どちらの家族とも仲良く付き合ってきたし、今もそうしている。わたしたちは義理のきょうだいとも、気の合う友だち同士のように、行き来し合っている。 夫の言う通り、彼は「親が離婚して初めて、幸せな家族を手にできた」のである。 「わかった。じゃあ、写真は捨てましょう」 と、わたしは言った。 夫のように「ごみだ」と言い切ってしまうことはできないけれど、確かにこの結婚写真は、見ていて、あまり気持ちの良いものではないと、わたしも思う。義母もきっと、そう思ったのだろう。しかし写真には「息子の父」も写っている。捨てるには忍びない。だからわたしたちのもとに送り付けてきた。メッセージは記されていなかったが「あなたたちの好きなようにしてちょうだい」と、彼女は言いたかったに違いない。そう、彼女は、厄介払いをしたかったのだ。 「指輪は、宝石店か質屋に売ったらどうかな?」 と、わたしは提案してみた。小粒とは言え、ダイヤモンド、なのである。捨てるのはちと、勿体ないのではーーーというのがわたしの本音だった。 「わーお。それはグッドアイデアだ! そうしよう、そうしよう、それがいい!」 この提案はなぜか、夫に大ウケした。 そして昨日。わたしたちは街に遊びに出かけたついでに、宝石店に立ち寄ってみた。 そこにはプロの鑑定師がいて、ダイヤモンドの指輪は「40ドル」で売れた。本当はもっと価値のある品だったと思う。足もとを見られたのだ。けれども夫は「5ドルでも10ドルでもいい。買ってくれなければ、寄付してしまう」つもりでいたので、思いがけない高値で売れて、大喜びだった。 「ああ、これでイヤな物とおさらばできて、すっきりした〜」 まさに、厄払いができた、という感じである。 この40ドルで、何か美味しいものでも食べようと、はしゃぐ夫の傍らで、わたしは「まるでレイモンド・カーバーの短篇小説みたいだな」などと思っていた。 むかしむかし、今から五十年ほど前、まだ二十代だったベティが、ジャックからもらった結婚指輪。四十代になっている息子が、その指輪を40ドルで売り払う。 四月一日、エイプリルフールの出来事であった。 ******************************2005.3* その33 銃ある社会は自由な社会? 2月13日の夕方、ハワイに住んでいる義理の両親(ふたりは離婚している)からそれぞれ、「大丈夫か?」「無事でいるか?」「心配している」というメールが立て続けに届いた。いったい何事だろうと思い、夫と一緒にニュースをチェックしてみたところ、うちから車で40分ほどのところにあるショッピングモール内で発砲事件があり、怪我人も大勢出たらしく、大騒ぎになっているようだった。 これにはわたしたちも、度肝を抜かれてしまった。 なぜならそのモールはわたしたちがいつも利用しているモールで、事件のちょうど二日前には映画を見に行っていた。しかもその映画へは、実は事件当日の13 日にふたりで行くつもりだったのだが、夫の都合が急に悪くなったので、わたしひとりで出かけて来たばかりだったのだ。 13日は、日曜日だった。犯人は日曜の午後、買い物客で賑わうモールの通路を歩きながら、散弾銃60発を無作為に撃ちまくったという。彼はウッドストックの隣町、ソガティーズで暮らす24 歳の青年。犯行の動機は当初「引きこもりの鬱憤を晴らすためか」と報じられ、その後「失恋の憂さ晴し」と報じられた。幸いなことに、死者は出なかった。しかし、怪我人の中には重傷を負い、ヘリコプターで病院に運ばれた人もいた。 犯人を取り押さえたのは、モール内にあるスポーツ用品店で働いていた男性店員ふたり。彼らは、散弾銃の弾が切れたのを見計らい、背後から犯人に飛び付いた。なんとも勇敢な行為である。わたしはそのスポーツ用品もよく利用しているのだが、お客がレジに並んでいても、いつもべちゃべちゃと無駄話ばかりしている店員に、いらいらさせられていたものだった。あの怠慢な店員のどこに、そんな勇気があったのか、と、少々驚かされた。 その後の地元紙の報道によると「犯行に使われた銃は、軍でしか使用されることのない戦闘用の散弾銃。犯人はその銃を『ガン・ショー』で購入した」とのことだった。 まったくもって、恐ろしい話だと思う。 ご存じのようにアメリカは、銃の所持も購入も「自由」な社会である。 ということは、取りも直さず、銃マニアの青年が、町で催されていたガン・ショー(日本語に直すと「銃展」となる)を訪ね、かねてから欲しかった軍専用の散弾銃を買い求め、失恋の痛手があったにせよ、なかったにせよ、日曜日の午後、ショッピング・モールの通路を歩きながら発砲するーーーというような事態が、いつ、どこで、発生してもおかしくない社会なのだ。それは、コロンバイン・ハイスクール事件の時にも実感していたし、日本人留学生が「フリーズ」の意味を理解できなかったため、銃殺されてしまった時にも痛感していた。 しかしながらわたしはこのコラムで、「銃の禁止を!」と叫ぶつもりは全くない。 というか、そう叫びたくても、なんだか心の底からそう叫べないような、叫んでも空しいというのか、正直なところ、そのような複雑な気持ちでいる。 もしも銃を禁止すれば確かに、銃による犯罪は減るのかもしれない。しかし、今のアメリカでは日本ほど頻繁に、刃物による犯罪は起こっていない。つまり、凶器だけを禁止しても、犯罪そのものは減らない、とは考えられないだろうか。刃物を禁止すれば、刃物による犯罪は減るが、今度は別の凶器による犯罪が増えるかもしれない。 だから、無気力になっているわけではない。銃を野放しにしていい、とも考えていない。しかし今のわたしは、銃の所持や売買の自由に対して、肯定もできないが、否定もできない、というのが本音である。 いったい、なぜ? と、首をかしげる方も多いことだろう。 理由は複数ある。すべて、わたしが毎日目にしているごく身近な風景と、大きな意味でのアメリカという国の風景から見えてくる「理由」である。 まず、身近な風景から。 銃は身近にある。薬局、スーパーマーケット、スポーツ洋品店などで、白昼堂々と展示され、売り買いされている。わたしだって、買いたければ、買うことができる。 銃声は身近で聞こえる。ハンティングが解禁となる季節がやって来ると、家の近所では朝から銃声が響く。撃ち殺した鹿の死体を積んだ車を見かけることもあれば、玄関先で、鹿肉をさばいている親子の姿を目にすることもある。ハンティングを趣味にしている人たちの中には、自分の子どもと一緒に出かける人もいるし、子どもに銃の使い方を教える親も少なくない。 このような日常の風景の中で、狩猟を趣味やスポーツと考えている善良(かどうかはわからないが)な隣人や、護身用のピストルを持っている人に向かって、「銃反対!」と、わたしは叫ぶことができない。他人の嗜好やライフスタイルには、口を挟むことができない、ということなのだ。 そして、大きな意味での、アメリカという国の風景。 これは、言い換えると「自由な国の風景」である。アメリカで暮らしていると「フリー・カントリー」という言葉をしょっちゅう耳にする。アメリカ人はひとりの例外もなく、自由という概念、イメージ、あるいは理想に、強いこだわりと誇りを持っている。少なくともわたしの目にはそう映っている。当然のことながらその「自由」の中には、例外はあってはならない。それがたとえ、軍用の銃を所有する自由であっても。 「アメリカ人の自由」について、面白いエピソードがあるのでご紹介する。 空港に、友人を出迎えに行った時のこと。あまりにも早く着き過ぎて、時間を持て余していたわたしは、空港内部にあるショッピング・コートに入りたいと思い、セキュリティーチェックをしている職員のひとりに「わたしは乗客ではないので、搭乗券もパスポートも持っていないのだが、中に入れてもらうことはできるだろうか?」と、尋ねてみた。ダメでもともと、というような気持ちだった。 その時の職員の答えが、今でも忘れられない。 彼はにっこり笑ってこう言った。 「あなたはもちろん、中に入れます。あなたはどこへ行くのも、何をするのも、自由なのです。なぜならここはアメリカですから」 Because this is America! わたしはこの言葉こそ、アメリカという国を清濁合わせて、真に理解するための鍵だと思っている。 ******************************2005.2* その32 夫から妻に、義理じゃない愛を贈る日 薬局のカード売り場で、土建業者のジョンに出会った。夏は車寄せの道に新しい砂利を敷き詰める作業を、冬にはやはり車寄せの道の除雪作業を、彼に頼んでいる。年はおそらく五十代の初めか半ばくらい。がっちりとした体躯に、強靭な足腰。赤銅色に日焼けした顔に、髭をたっぷりとたくわえている。熊みたいな大男。「典型的な肉体労働者」と言って、差し支えないと思う。 そんな男が、ごつごつした手で、太い指で、しっかりと握りしめているのは一枚のカードである。カードのまんなかには、赤いハートが印刷されている。「ははあん」と、わたしは納得した。 もうすぐ、バレンタイン・デイ。彼はその夜、妻をレストランに誘い、食事の席で、薔薇の花束と共に、カードを渡すつもりに違いない。 日本では、バレンタイン・デイと言えばなぜか、女から男に、チョコレートを渡す日と決まってしまっているけれど、アメリカでは違う。アメリカではその日は「愛の日」ということになっていて、夫から妻に、あるいは恋人同士で、愛の象徴として、薔薇の花束を贈るのが一般的。もちろんチョコレートを贈ってもいい。でも「義理チョコ」というものは、存在しない。アメリカでは、愛とは、義理で捧げるものではないのである。 「ジョン、もうすぐ奥さんとデートだね?」 と、わたしが言うと、彼は満面に笑みを湛えて答えた。 「うん、俺たち、もう結婚して三十年になるんだが、バレンタイン・デイの花束は一度も欠かしたことがないんだよ」 アメリカの男って、可愛いな、と思うのは、こんな時。 たぶん既婚の日本人男性読者の中には、ここを読み「俺なんか、今までに一度も女房に花を贈ったことなんかないぜ」と、思っている方も少なくないのではないだろうか。 バレンタイン・デイに限らず、アメリカでは誰かに気持ちを伝えたい時、カードを添える習慣がある。お礼のカード、お見舞いのカード、結婚祝い、合格祝い、卒業祝い、出産祝い、誕生日カード、クリスマスカード。なぜか、年賀状だけはない。 先に「薬局のカード売り場」と書いたけれど、このため、アメリカのスーパーマーケットやデパートや薬局には、必ずカードコーナーがある。目的別、相手別に、あらかじめ文面が印刷されたカードが、売り場の柵いっぱいに展示されている。ものすごい数だ。たとえば、誕生日カードひとつを取っても、「お父さんへ」「お母さんへ」「息子へ」「娘へ」だけでなく「孫娘へ」とか「義理の娘へ」まで揃っている。 わたしはたいてい、「ブランク」のコーナーへ行き、メッセージが何も記されていない白紙のカードを買う。そして、英語のメッセージを自分で考えて書く。というのは、実は嘘で、わたしはカンニングをしながら、メッセージを書く。数年ほど前、親しくしている編集者の友人からいただいた「ステキな英語のカードを書きましょう!」(西森マリー著 ジャパンタイムズ刊)が、心強いカンニングペーパーである。 たとえば、バレンタイン・デイには、 Roses are red 薔薇は赤く Violets are blue すみれはブルー You're the one for me 君は僕の運命の人で And I'm the one for you. 僕は君の運命の人 というような言葉をカードに書けばいい、とこの本は指導してくれる。もちろんこのフレーズは、わたしの夫がわたしに、贈るべき言葉、というわけである。 西森マリーさんの近著に「この英語、ネイティブにはジョーシキです!」(ジャパンタイムズより2004年刊)があるが、これがまた、目から鱗がぽろぽろの優れもの。読み物としてももちろん面白いのだけれど、わたしはやはり、アメリカ人の友人、知人、家族などに、英語の手紙やメールやカードを書く時のアンチョコ(というような言葉、ありましたよね?)としても活用している。 たとえば、ブッシュ政権を痛烈に批判するような、びしっと決まった台詞を一言、書き込みたいなと思った時、ページをめくると、 In Bush's America,fair is foul and foul is fair. ブッシュのアメリカでは、いいが悪いで、悪いがいい、なのよ。 というような言葉が目に飛び込んでくる。この言葉の由来は、シェイクスピアの「マクベス」なのだそうだ。 たとえば、バレンタイン・デイに「妻に薔薇の花を贈るなんて!」と鼻白んでいる人には、わたしからこんな言葉をお贈りしたい。直訳すると「立ち止まって、薔薇の香りを嗅ぎなさい」になるが、西森さんの解説によれば「あくせくするのはやめて、人生を楽しめるだけの、心のゆとりを持ちなさい」という意味。 Stop and smell the roses. 今年のバレンタイン・デイには、日本でもアメリカみたいに、男性から女性に、可憐な薔薇の花がたくさん贈られるといいですね。 ********************************** 「バックナンバー5」へ 「バックナンバー7」へ戻る |