【バックナンバー・4】 その25 何を悩んでいるの? ドラゴン・チェン・バフェ。 安くて美味しい中華料理店の名前である。店はうちから車で三十分ほど走ったところにある町キングストンの幹線道路沿いにあって、連日連夜、大勢のお客で賑わっている。バフェというのは日本語で言えば「ビュッフェ」あるいは「バイキング」のこと。そう、何でも好きなだけ食べ放題のお店なのである。 アメリカには太り過ぎの人が多い。統計によれば、成人の64%が太り過ぎという悩みを抱えている。2000年のアメリカ国民の肥満率は31%(1980年は15%だった)まで膨れ上がってしまった。心臓病、脳卒中、糖尿病、高血圧、癌を引き起こす要因となる「肥満」は今や、アメリカの抱える深刻な社会問題のひとつとなっている。 というような現実を、実際に自分の目で見て、実感したければ、ドラゴン・チェン・バフェを訪れるに限る。 午前十一時過ぎに、店は開く。正式な開店時刻は十一時半なのだが、それまで待ちきれないお客たちが開いている扉からどんどん中に入って来る。 三つのブロックに分かれて、五列に並べられた料理の種類は、ゆうに五十は越えているだろう。もちろん中華料理が中心だが、洋風にアレンジされた料理も数々あるし、巻き寿司(といっても、アボガドを巻き込んだカリフォルニア・ロールだが)もあるし、好みの野菜や麺類や肉をその場で好きなだけ焼いてもらえる「モンゴリアン・バーベキュー」のコーナーもある。デザート類も充実している。ケーキにシュークリームにクッキーに、そして自分で好きなだけ絞れるソフトクリームまである。 これらを食べ放題に食べて、値段はランチ=5.95ドル、ディナー=8.95ドル。店は十一時から三時までがランチで、三時からはディナータイムに切り替わる。中休みなしで終日営業しているのである。 客の大半はまるで「中年相撲愛好会」か「重量挙げ同好会」にでも入っているのかと思えるような巨漢揃い。女はほとんど妊娠十ヶ月の身重の躰。男女共に、でっかいお尻は椅子から外にはみ出しているし、果たしてフォークを握った手がちゃんとテーブルの皿の上に届くのだろうかと、心配になるほど出っ張ったお腹の持ち主。立てばビア樽、座れば力士、歩く姿は牛のよう……。 とにもかくにも「アメリカ人はめちゃめちゃ太っている!」。 大きなお皿も、彼らの手にかかるとまるで小皿のように見えてしまう。その小皿にフライドチキンやら揚げ餃子やら焼きそばやらをてんこ盛りにして……。太っているからたくさん食べないとならないのか、たくさん食べるからますます太るのか。おそらくその両方だろう。肥満は循環する、ということなんだろう。 店の前には巨大な駐車場がある。停められているのは、大型車ばかりだ。太っている人が多いから車も大型になるのか、車が大きいから人も安心して太るのか(これはきっと、前者だろう)。 車社会のアメリカにおいては、日本のように、車で出かけたいけれど「駐車場がない」「駐車場代が高くて、いつも一杯だ」というようなことは、ない。駐車場はいつでもどこでも空いているし、タダである。また、道路もよく整備されており、道は太く、車線も多く、従って渋滞もほとんどない。 だから、家の前から店の前まで、車ですーっと行ける。駅までの道を歩く必要はないし、改札を抜けてプラットホームまでの階段を上る必要もない。したがって、運動不足に陥るのは至極簡単である。 専門家の分析によると、アメリカ人の太り過ぎの原因は、運動不足、一回分一人前の食事量の多さ、そして、ハンバーガー+フライドポテト+炭酸飲料水をはじめとするジャンクフードの取り過ぎにあるという。 納得できる分析である。 ジャンクフードはその名の通り、ジャンク=ごみのような食べ物で、高カロリー、高脂肪、高コレステロール、つまり百害あって一利なしの不健康食品なのである。 ドラゴン・チェン・バフェのすぐそばを走っている幹線道路沿いには、マクドナルド、ウェンディーズ、ピザハットなどなどなど、ジャンクフードのお店がずらりと軒を並べている。どの店にもドライブスルーで入れるし、広大な駐車場はもちろんいつでも空いている。ジャンクフード店の構造を空の上から見ると、まるで網(=駐車場)を張って、獲物(=車)を待ちかまえている巨大な蜘蛛のように見えるのではないだろうか。 何を隠そう、この私も、アメリカに引っ越してきて二、三年もたたないうちに、この肥満の蜘蛛の巣に、見事に引っかかってしまった。当時の写真を見ると、顔も躰もふっくらと、いや、丸々と太っている。危機感を感じた私はまず肉食とジャンクフードを一切やめ、次に定期的なランニングを始めた。現在は、一日おきの10キロのランニングに、玄米食と野菜食を心掛けることによって、なんとか肥満から逃れている。 太るのはとても簡単だが、いったん太ってしまった躰をもとに戻すのは非常に難しい。 ダイエット食品を買い求めるために、あるいは、ジムで運動するために、家の前から車で町に出かけて、その帰りについ気軽なファーストフード店に立ち寄ってしまう、あるいは、スーパーサイズ(ラージよりも大きい)のコーラを買って飲み干してしまう、というシナリオもアメリカではありがち。なんだかアメリカ社会全体が、国民の肥満を加速させるように出来上がっている、という風にも感じられる。 そんな中にあって、最近、一部のアメリカ人の注目を集めているダイエット方法がある。 それは、発案者の名を取って「アトキンズ・ダイエット」と呼ばれている方法で、一言でまとめてしまえば「食生活から炭水化物を排除する」というやり方である。米、小麦粉、ポテトなど、炭水化物を含んだ食べ物を食べない。最初のうちは野菜も排除する。しかし肉だけはずっと食べ続けていい。炭水化物を摂取しなくなった身体は、みずからの脂肪を燃やし始める。それが画期的な減量につながっていく、という仕組みである。 おそらく「肉だけはいくらでも食べられる」という点において、このダイエット方法はアメリカ人に大きく受けたものと思われる。 ドラゴン・チェン・バフェにやって来て、肉料理だけをお皿に山盛りにして、もりもり食べている人がいたら、その人はアトキンズ・ダイエットに挑戦中なのかもしれない。 英語に、 What's eating you? という慣用句がある。この言葉の意味は「何を食べているの?」ではなく「何を悩んでいるの?」なのである。 ******************************2004.06* その24 海を隔てて、安楽死論争 一ヶ月ほど前から、飼い猫の具合が悪くなってしまった。 今年になってから、なんだか食事の量が減ってきたなあ、と思ってはいたのだけれど、四月のある日を境にガクンと食欲を失い、食事の量は激減、その後まったく回復することなく現在に至っている。五月はそれでもまだ、好物を鼻先に持っていくと、匂いを嗅ぐだけは嗅いでいたのだけれど、とうとうそれもなくなった。 ほとんど絶食に近い状態になってからは、私は嫌がる猫を抱きかかえ、私の手でごく少量の食べ物を口の中に押し込む、というやり方で食べ物を与えていた。そうでもしないと衰弱死、あるいは餓死するしかないような状態だったからだ。 そうこうしているうちに、夫の中国出張の日がやって来た。 私は早朝、マンハッタン行きのバス停まで夫を送り届けて、家に戻って来た。猫はその夜は一晩中、朝までずっと、玄関と夫の書斎の両方が見渡せる場所にうずくまっていた。もちろん食事はまったくしていない。 私の目にそれは「夫の不在を嘆いている猫」と映った。しかし夫の出張はその日から合計二週間の予定である。 猫のことをあまり知らない方にはここを読んで「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないが、猫というのはこのように、何らかの精神的ショック……たとえばうちの猫の場合、自分の体調が悪いときに、夫がいなくなってしまったことにより、自分が夫から捨てられてしまったと思い込んでしまったようだ………から、死に至るような重い病気にかかってしまうこともある、そういう繊細な生き物なのである。 案の定、翌朝から、猫の状態はさらに悪化してしまった。もう、水さえ飲もうとしない。躰を動かすのも苦しいのか、一日中一カ所にじっとうずくまったままだ。空腹のせいか、苦しみのせいか、理由は定かではないが、眠ることさえできなくなっている。食事はともかくとして、眠ることがあんなに好きな猫が「眠れない状態」でいるというのは、これは尋常の深刻さではないと私は感じた。 私はかねてから、猫を動物病院に連れて行き、獣医に診せ、西洋医学の治療を受けさせることに対して、非常に懐疑的であり、消極的である。実際のところ、これまでの病気のほとんどは、自然治癒という形で、猫自身が自分の力で乗り越えてきた。猫は病院に行くために車に乗せただけでも、軽いノイローゼにかかってしまうほどの車嫌い、移動嫌いだ。まして、見知らぬ他人に躰を触られる病院での診察など、猫にとっては地獄以外の何物でもない。 しかし、今度ばかりは、これは獣医に連れて行かねばならないだろうと、私は思うに至った。猫の食欲不振の原因は、単に精神的ショックから来ているのではなくて、何かもっとシリアスな肉体的疾患にあるのかもしれないと思ったのだ。 病院へ電話をかけてアポイントメントを取り、嫌がる猫を車に乗せて連れて行った。 触診だけでは何もわからないと言われ、一晩入院させて「血液検査」を受けることになった。その結果がわかったのは翌朝のことである。 「肝臓から悪い物質が検出されました。肝臓癌の疑いがあります」 と、獣医は言った。もしも癌だった場合、「覚悟を決めておいて下さい」とのこと。つまり、猫の肝臓癌には治療方法はないというのである。 猫はもう一晩入院して、今度はもっと高度な「超音波検査」を受けることになった。 上海に滞在していた夫と、私たちが決めておくべき「覚悟」について、電話で話し合った。これまで猫を溺愛してきた夫は泣きながら、 「僕は安楽死させるのが良いと思う」 と言う。癌だと判明した時点で、猫の苦しみをできるだけ軽減するために、そのまま病院で安楽死させてもらうのが良いのではないか、と言うのである。 私は泣いている夫を怒鳴りつけた。 「何言ってるの! 検査のために預けて、そのまま安楽死なんて、冗談じゃない! いったいあなたは何を考えているの!!!」 はっきり書こう。夫は「猫の苦しみを少なくしたい」と口では言っているが、それは「猫の苦しむ姿を見て、自分が苦しむことに耐えられない」という意味なのである。 私は受話器を握りしめて、夫を叱責した。怒りのあまり、声が震えていた。 「たとえ、癌だとわかっても、猫はひとまず家に連れて帰ります。そして猫の好きなことをいろいろさせてあげて、最後の最後まで私が介護し、私が最期を看取ります」 「でも、ひどく痛がったり、苦しがったりしていたら、どうするんだ?」 と、彼がぐずぐず言うので、 「もしもそうなっても、病院で安楽死させるのではなく、痛み止めなどをもらい、最期の瞬間まで家に置いて、私が面倒を見ます。あなたが苦しむ猫を見るのに忍びないというのなら、猫が苦しんでいる間は、あなたが家から外に出ていればいいでしょう」 と、私は怒り心頭に発したままだった。 アメリカ人は……と書いてしまうのは、まったく適切でないと重々承知の上で、それでもあえて書くが、夫をはじめ、アメリカ人は「合理的過ぎる」と、私は思う。アメリカでは、飼っていた猫や犬が重い病気にかかると、イージーに安楽死させてしまうケースが非常に多い。しかも、安楽死のアポイントメントを取り、病院へ連れて行ったら、受付でそのまま「バイバイ」して、帰ってくる飼い主が多いと聞く。 ペットの苦しみを回避するという名目で、本当は自分の悲しみを回避したいのである。まったく薄ら寒い合理主義である。 猫が癌にかかった。苦しむ前に安楽死させてやる。それがベストの方法だ。こういう合理主義は、人間にとってだけ都合の良い合理主義であり、命に対する敬意もなければ、猫に対する愛情もない、まったく非人道的な考え方だと私は思う。 私たちは猫を可愛がってきたし、これまで十年以上も、猫のおかげで楽しい生活を送って来られた。ならば、病気になった猫をあるがままに受け入れ、どんなに悲しくても、最後まで手厚く看病し、一緒に病気と闘い、最期はその死を見届けてやるのが人としての道ではないか。要するに、自分が、自分の親きょうだいや家族に対してするべき行為を、飼い猫に対してもまったく同じようにすればいいのである。 と、まあ、このようなことを言葉を尽くして話しているうちに、夫もだんだん私の主張に納得し始めてきた。そして最終的には「僕が間違っていた」と自分の考え方を修正するに至った。こうして私たちは、仮に検査で癌だと判明しても、安楽死はさせず、まずは家に連れ帰るということで合意したのである。 翌朝、獣医から連絡があり「癌ではありませんでした」とのこと。 しかし、依然として、猫の食欲はまったく戻ってこないし、獣医もこれにはまったくのお手上げで、もう為すすべもありません、と言ったふうだった。私は「あと一晩預かりたい」という獣医の申し出を固く断り、猫を自宅に連れ帰った。今後は毎日少しずつ、私が手で食事を与えながら、静かに様子を見守っていくつもりである。 猫の病気は人間や犬のそれと違って「人智を超えている」と、昔かかったことのある獣医は言っていたものだった。 たかが猫、と笑うなかれ。猫の命も、人の命も、まったく同じ重さを持っている。この世には、こんな簡単なことがわかっていない人間があまりにも多過ぎる。傲慢な人間が起こしている悲劇……身近な例ではイラク戦争……を目の当たりにするにつけ、私は、人智を超えたところに存在する小さな命が、懸命に私たちに教えようとしていることに目を向けていたいと思う。 ******************************2004.05* その23 けなげで危なげなアメリカの十六歳 よく買い物に出かけるスーパーマーケットのレジで、週末になるとアルバイトをしている可愛い女の子がいた。ガムをくちゃくちゃ、同僚とべちゃべちゃ、お喋りをしながらその合間に、間違いだらけの精算をしてくれる他の店員と違って、彼女は一心不乱に誠実に、実にてきぱきと仕事をこなしていた。 アジア系の顔つきをしていたこともあって、私の方では勝手に親近感を抱いていた。そのうち、彼女も私の顔を見ると最上級の笑顔で微笑みかけてくれるようになり、短い世間話なども交わすようになった。 彼女の名前はキム。年齢は十六歳。道路を隔ててスーパーの真向かいにある公立学校の十一年生(eleventh grade)だった。十一年生というのは、日本では高校三年生にあたる学年。アメリカの高校は四年制で、中学校が二年しかない。学年の数え方は、小学校一年生(first grade)に始まって、高校四年生にあたる十二年生(twelfth grade)まで、一貫して、数字を重ねていく。 ある土曜日の夕方。 スーパーの駐車場で偶然、キムちゃんと出会った。彼女はアルバイトを終え、私服に着替えて外に出てきたところで、迎えに来ていた恋人の車に乗り込もうとしているところだった。お化粧もして、すごく色っぽい感じ。でも、化粧では隠しきれない幼さが頬のあたりに漂っている。彼氏の方も十六歳か、十七歳くらいではないだろうか。アメリカではほとんどの州で、十六歳になると運転免許を取ることができる。 「こんにちは! これからデイト?」 と声をかけると、彼女は嬉しそうな、くすぐったそうな、幸福度100%の笑顔で「うん!」と答えた。ああ、青春しているんだな〜と、私も思わず頬をゆるめたことだった。 アルバイトとデイト。 これは、アメリカの高校生にとって、重要なキイワードではないかと私は思っている。「高校時代のアルバイト」は、社会人としての自覚を持ち、責任感を養うという意味で、アメリカ社会では日本以上に奨励されている。大学に願書を提出する際にも、アルバイト歴がないと不利になるくらいである。 デイトの方は、奨励されているかどうかは別として、たぶん日本以上に盛んなのではないかと思う。男の子が車で迎えに来て、映画や食事や踊りやパーティに連れて行き、女の子の家まで送り届けた後、彼女の部屋に上げてもらって、そこで初めての……というようなパタンが一般的なのではないかと想像している。 パーティとドラッグ。 これは、アメリカの高校生にとって、いわばアキレス腱みたいなものではないかと思う。親が家を留守にしている隙に、高校生たちが大量のアルコールやマリファナ類を持ち寄ってその家に集まり、パーティを開き、泥酔状態になり、気がついたら取り返しのつかないことに……というような話は、あまりにもよく耳にする。 セックスと妊娠。 これが「……」のところに入る言葉である。 そんなこんなをこのコラムに書いてみようと思っていた矢先、私の親友のおびか・ゆうこさんから、彼女の新作翻訳書『いつまでもベストフレンド』(原作:サラ・デッセン 徳間書店刊)を送っていただいた。 中学生・高校生向けに書かれたこの小説は、大人の私にも十分読み応えのある、素晴らしい作品だった。むしろ大人にこそ、読んでもらいたい作品。特に、ティーンエイジャーのお子さんを持つ親御さんには「教科書代わり」にしていただきたい、おすすめの一冊である。 アメリカのごく普通の高校生がどんなことを考え、どんなことにあこがれ、心を踊らせ、どんな風に胸を痛め、傷つき、悩んでいるのか、この本を読むと、すべてが手に取るようにわかる。背景にあるアメリカの家族や家庭もヴィヴィッドに描かれている。 アルバイト。初めてのデイト。親との確執。マリファナ付きのパーティ。十代の妊娠。 アメリカの十六歳の物語はそのまま、日本の十六歳の物語でもある。 おびかさんもきっと、彼女自身の「十六歳」に思いを馳せながら、この作品を訳していたに違いない。一語一語、彼女の審美眼を通して選び抜かれた日本語は優しく、ふんわりと柔らかく、露の玉のように美しい。そのせいか、私はいつのまにかこの作品が翻訳書であることを忘れてしまい、ハレーとスカーレットの青春と友情の物語に一喜一憂していた。 そして、最後まで読み終えたときには、私も「あのころ」に戻っていた。 あらすじも結末も、あえてここには書かないが、私は十代の妊娠・出産に対しては、中立の立場を取っている。つまり、出産することに対しても、中絶することに対しても、特に肯定もしなければ、否定もしない、ということになるだろうか。 もしも出産することに決めたティーンエイジャーが身近にいたならば、私は勿論、彼女のことを心から応援したいと思うが、中絶することに決めた子がいても、やはり心からその選択に寄り添ってあげたいと思う。 それが彼女の望んでいた妊娠であっても、そうでなかったとしても、彼女たちの選択肢はふたつのうち、ひとつしかないのだから。まわりの人間にできることといえば、彼女たちの選んだ選択肢をサポートしてあげること以外にはないだろう。 数年ほど前だったか、アメリカのハイスクールで、エイズと妊娠を防ぐためにコンドームが配られたとき、社会では賛否両論が巻き起こっていたけれど、私はコンドーム配布には全面的に賛成である。転ばぬ先のコンドーム。ティーンエイジャーのセックスに対する好奇心は誰にも止められないが、妊娠は食い止められる。避妊の徹底は、中絶の是非を巡る議論よりも重要だと私は思う。 最近、可愛いキムちゃんの姿をスーパーマーケットで見かけなくなった。 私はほんの少し、心配しているのである。 ******************************2004.04* その22 メキシコからやってきた人 彼の名前はビンセンテ。 メキシコからの移民労働者、いや、もっと正確に書けば「不法移民労働者」である。 彼は、うちの近くにあるベッド&ブレックファーストで、雑役夫として働いている。雇用主はB&Bの経営者であり、所有者でもある実業家の韓国系アメリカ人。この人は私の友人である。 ビンセンテの仕事内容は多岐に渡る。B&Bの客室の掃除や食事のあと片付けや、壊れた水道管や暖房装置の修理。犬の散歩もさせるし、庭の雑草も抜くし、種蒔きもするし、薪割りもするし、煙突掃除もする。壁塗りもするし、タイル張りもする。大中小各種荷物運びや買い物や洗濯や、とにかく雇用主から言い付けられた用事は、なんでもする。召使いというか、使用人というか、要するに何でも屋さんなのだ。 2002年の統計によると、アメリカの全人口のうち、外国生まれの人々の占める割合は11.5%。その内訳は、 メキシコ人=1,080万人 中国、台湾、香港人=160万人 フィリピン人=160万人 インド人=150万人 キューバ人=100万人 と、メキシコ人が大きく、他の国々の人々を引き離している。 ちなみに1910年の統計では、トップにくるのはドイツ人(230万人)で、アイルランド人、イタリア人、イギリス人、カナダ人がほぼ同数(120〜130万人)で並んでいる。つまり、メキシコ人はここ九十年間のあいだに、アメリカ在住外国人のマジョリティとなったのである。 ビンセンテは現在26歳。 20歳のとき祖国で結婚し、三人の子どもをもうけたのち、23歳のときアメリカに渡ってきた。彼は「暗闇の斡旋所」を介して取得した、6年間有効の「不法労働ビサ」を持っている。 B&Bの経営者の話によれば、 「不法な労働ビサの有効期限はなぜだか6年間になっているみたいだね。でも、こっちで6年間働いてメキシコに戻れば、向こうではりっぱな家が建つらしいよ」とのこと。 ジャパゆきさんならぬ、アメゆきさんということらしい。 ビンセンテはまだ片言の英語しか話せない。毎晩、仕事を終えたあと、地下室にあるテレビで、スペイン語の番組を見るのが唯一の楽しみだという。 昨年の暮れ、B&Bで催されたクリスマスパーティに呼ばれて、遊びに行ったとき、ビンセンテと会った。 お互いに下手な英語であれこれ話しているうちに、話が盛り上がり、ビンセンテの案内で、彼が普段寝泊まりしているB&Bの地下室(そこはプールルームにもなっている)を覗かせてもらった。 彼はたどたどしい英語で、こんな意味合いのことを語った。 「メキシコを出てきたとき、妻は20歳だった。次に会うとき、妻は26歳になっている。 僕は妻の6年間を知ることができない。妻が浮気していたら、どうしよう。もしもメキシコに戻ったとき、妻に別の恋人ができていたら、どうしよう」 いったいどういう風に答えてあげればいいのか、私にはわからなかった。が、とりあえず、彼を励ましておくことにした。 「そんなこと、ないって。奥さんはきっと、あなたの帰りを首を長くして待っているはず。あと三年、がんばってね!」 それから私たちは、玉突き台の近くに置かれている長椅子に並んで腰掛けて、ひとしきり、他愛ないお喋をしていた……つもりだったのだけれど、そのうち、しだいに、ビンセンテが私のそばにじりじりと躙り寄ってきたかと思うと、気が付いたら、いつのまにか、彼の右腕と右太股が私の左腕と左太股にぴったりとくっついているではないか。そして彼はおずおずと、右手のひらを私の太股の上に置いたりしているではないか。 いくらなんでも、これはちょっと…… と、感じた私は、彼のそばからすーっと躰を横にずらした。 すると彼は満面に笑みを湛え、私がずらした分だけ、私に接近し、またまた躰をぴたりと寄せてくる。 もう一度書けば、彼は26歳。私は彼よりも二十以上も年上の女。分別も夫もある身の上。玉突き台の上に、押し倒されてしまうわけにはいかないのである。 まったくもう、奥さんの浮気が心配でたまらないのは、自分がこういうことばかりしているからじゃないの? などと思いつつ、それにしても、若くてハンサムなメキシコ人男性が私に「女」を感じ、むらむらと性欲の高まりを覚え、発情してくれたことを、私は喜ぶべきなのだろうか、それとも怒るべきなのだろうか、などと冷静に思いつつ、それでも私は「彼は友人が雇っている従業員、なのであるからして、あからさまに彼の心を傷つけてはならないだろう」と思うに至った。 そもそも、無邪気に地下室に降りてきて、若い男と不用意にふたりきりになった私にも責任がある、と、思ったのである。 私はやおら立ち上がって、 「さてさて、ビンセンテ、お喋りできて、楽しかった。あなたのお部屋を見せてくれて、ありがとう。さあ、上では美味しいお料理がいっぱい出ているころだから、私と一緒に上にあがりましょう!」 と、清く正しく明るく声をかけた。 階段を上がって行こうとする私の手を、うしろからビンセンテが強く握って、引っ張り、なんとか私を上に行かせまいとしていた。彼は階段の下から私に取りすがるようにして、懸命に、熱く燃え盛る欲望の視線の矢をびゅんびゅん飛ばしていた。 しかしながら私は、彼よりも二十歳以上も年上の、分別あるオトナの女性。そして一階には、私の夫もいるのであるからして……。 帰り道。事の顛末を私は夫に話して聞かせた。 夫は笑いながら、言った。 「そうか、今度ビンセンテに会うときには、ポルノ雑誌をプレゼントしなきゃな」 私は夫のこういう風な性格……天真爛漫で、屈託のないところ……が好きなのである。 ******************************2004.03* その21 プライドという名の翼 あなたも空を飛べるよ。 あなたの背中に生えている、希望という名の翼を広げさえすれば。 大橋弘枝さんのソウルフルな作品『もう声なんかいらないと思った』(出窓社)を読み終えたとき、私の「耳」に、そんな彼女の「声」が届いた。 耳の聞こえない大橋さんが、音楽をハートで聞いて踊っているように、私も大橋さんの言葉を、ハートで聞き取れたのかもしれない。そう思うと、私はなんだか嬉しくなった。私も大橋さんと一緒に、くるくる踊り出したくなってしまった。 この作品は、先天的な聴力障害を持って生まれた大橋さんが、つらい思いをいっぱいしながらも、障害を乗り越えて、明るく、たくましく生きていく物語、ではない。 天性の明るさと、たくましさを持って生まれた大橋さんが、理不尽な教育環境や社会制度や偏見によって歪められ、去勢されていたプライドを取り戻し、障害者である自分を受け入れ、障害と共に生きて行こうと決心する、彼女の魂の覚醒の物語である。 大橋さんは、高校三年生になったとき、進路指導の先生に「美容師になりたい」と相談してみた。そのとき先生は、彼女にこう言った。 「美容師は無理だ」。 耳が聞こえないのだから、美容師は無理。可能性のないことに向かって、努力しても無駄だよ、と。もしもそのとき先生が、まるで反対のことを彼女に言っていたら、どうなっていただろう。耳が聞こえなくても、美容師はできる。どんな努力も、無駄にはならない。努力すれば少しずつ、不可能も可能になっていくんだよ、と。 残念ながら、この先生をはじめ、日本の学校も、日本の社会も、大橋さんにそのようなポジティブなメッセージを送ることはなかった。 アメリカにやって来た大橋さんは、この「できない」という考え方から解放される。「ああ、ここはなんて居心地がいいんだろう」と。 私には、そのときの彼女の解放感が、手に取るように、心が震えるほどに、わかる。 私もアメリカに来て、大橋さんとまったく同じような経験をした。 子どものころから、私はまるでコンプレックスが洋服を着て、歩いているような人間だった。「あれができない」「これもできない」「私はだめな人間」。自分の弱点や短所にばかり注目して、できない自分を責め、「うまくいかないのじゃないか」「きっと失敗するだろう」と、物事を悪い方へ、悪い方へと考えてしまう。いわゆる、ネガティブシンキング。大人になってからも私は、そういった発想に縛られていた。 多くのアメリカ人はすべての物事を「私は〜ができる」という方向からとらえる。「私は英語が下手だ」と考えるのが私なら、「あなたは日本語が素晴らしく上手で、おまけに英語も少しはできる」と考えるのがアメリカ流なのだ。 そういえば夫があるとき、こんなことを言っていた。 「アメリカ人は幼いときから、徹底して、教え込まれるんだよ。物事のポジティブな側面を見つめなさいってね」 大橋さんはアメリカの学校で、水を得た魚のように、本来の自分を取り戻す。 日本の学校では「発音がおかしい」「変な声だ」「日本人じゃないみたい」「おまえの声を聴いているとむかつく」といじめられた彼女が、アメリカの学校にくると「キュートな声ね」と褒められる。大橋さんの笑い声を聞いていると「ハッピーになれる!」と。 私が特に感動したのは、アメリカの大学でおこなわれた音楽の授業の一場面だ。 それは「ろう者の声で遊ぶ」というワークショップで、なんと、教室の中で、耳の聞こえる人と聞こえない人に分かれて、ぞれぞれが「人間の声」と「動物の声」で歌ってみましょう、というのである。 これぞまさしくアメリカ人のやり方、と、私は思わず拍手喝采を送りたくなった。 最初は「人間」グループがきれいな声で、歌い上げる。そのあとで、耳の聞こえない「動物」グループがまるで野獣の雄叫びのような声で、歌う。それを聴いた人間グループは大爆笑しながらも、負けてはいられないと、大合唱する……。 「日本では受け入れられない感覚かもしれない」 と、大橋さんも書いているけれど、アメリカ社会には確かに、こうしたおおらかさ、そして懐の深さがある。人と同じである必要なんか、まったくないんだ、と思わせてくれる不思議なパワーがある。だから「障害がある」ということを、隠すどころか、全面に押し出していける。それは非常に個性的で、魅力的なことであると、人に対して、社会に対して、積極的にアピールしていくことができる。 大橋さんの作品を読んで、力強い感動に包まれている最中に、ある雑誌の記事の中で、こんな発言を目にした。やはり大橋さんと同じような聴覚障害を持って生まれてきた人のコメントだった。 「そもそも、ろう(deaf)が障害であるなんて、とんでもない考え方だと思う。僕はろうを治そうなどと思ったことは一度もないし、健常者になりたいなどとは思ってもいない。ろうの世界は、楽しい。聞こえない世界は、とっても素晴らしい。僕が将来、誰かと結婚して、子どもができたとしたら、子どもも僕と同じように、ろうであってくれれば良いと願っている」 ******************************2004.02* その20 ガールズ・ナイト 今年のニューヨーク州は、記録的な寒さの記録をどんどん更新している。1月になってからは連日、マイナスの気温。零下50度くらいまで下がった日もあって、その日はちょっと外に出ただけで、鼻の中と口のまわりにシャーベットができてしまった。 森や庭に降り積もった雪は、すでに凍り付いている。「きょうのお天気は」晴れでも、曇りでも、雨でも雪でもなく「氷です」と言いたくなってしまう。零下10度くらいの日には「きょうはあったかいねえ」という言葉が口をついて出てくる。 そんなある日、近所に住んでいる日本人女性の友人から電話がかかってきた。 「こんなに寒いと、キャビン・フィーバーにかかってしまいそうでしょ。今夜うちに集まってガールズ・ナイトしない?」 「するする!」 外は寒い。あまりにも寒い。出かける気が起こらない。家の中に閉じこもりがちになる。気分が滅入ってくる。憂鬱になってくる。厭世観さえ覚える。キャビン・フィーバーというのはこんな状態のこと。 まっ白な雪原が濃いブルーに染まって、それはそれは幻想的な真冬の夕暮れ時。私は雪道に30分ほど車を走らせて、彼女の家へと向かった。 その夜、集合した「ガールズ」は、合計5人。 誘ってくれた人=再婚相手と別居中。前夫との間に娘ひとり。 ナンシー=離婚して現在は独身。ボーイフレンドがいる。 アンジェラ=夫と死別。ボーイフレンドがいる。 ケイ=既婚。息子ひとり。 私=既婚。猫一匹。 ついさっき、電卓で、この5人の平均年齢を計算してみたところ、その数字はなんと「56.6歳」と出た。ナンシーは70代で、私は40代、残りの3人は50代。つまり、まあ、なんというか、堂堂たる中年女性たちの集まりですね。けれどもアメリカでは、どんな年代の女性であろうと、女だけで集まって楽しく騒ぐ夜のことは「ガールズ・ナイト」と呼ばれている。 もちろん「ボーイズ・ナイト」というのもある。こちらも年齢は問われない。 日本語の世界では、ガール=少女、ボーイ=少年、という風に解釈されているようだけれど、アメリカ英語の世界では、ガールもボーイも決して、子どもだけを意味してはいない。アメリカでは女も男も、どんなに年を取っても、ガール(女の子)であり、ボーイ (男の子)であり続けることができる。私はこのふたつの英単語の持つ無邪気さというか、自由闊達さみたいなものが、とても気に入っている。 グッド・ガール、バッド・ガールという言葉もよく耳にする(ボーイも同様)。バッド・ガールという言葉には、ちょっと不良っぽくて、茶目っ気があって、隅に置けない奴、というような意味もあるようだ。親しみをこめて使われる場合も多い。 年老いた後、周囲の人たちから「あのばあちゃんときたら、相変わらずバッド・ガールだよね」なんて、言われてみたいものだと私は思っている。 そしてもうひとつ、私が気に入っている言葉は、ナンシーとアンジェラの「ボーイフレンド」。アメリカ英語のボーイフレンドは、日本語のボーイフレンド(男友だち)とは全然違っていて、それはれっきとした恋人、あるいは同棲中の恋人、あるいは事実婚の相手などを指している。70代のナンシーも、50代のアンジェラも、英語の世界ではれっきとした「ガール」であり、彼女たちは「今、ボーイフレンドと一緒に住んでいるの」というわけ。 たかが言葉、たかが呼び名と、笑うなかれ。 人間として、最も円熟しているはずの時期に「中年のおばさん」とか「ばばあ」とか「おやじ」などと呼ばれるなんて、悲しい、と私は思う。それよりも永遠に男の子・女の子でいられる方が、楽しく年取っていけそうな気がしませんか。 そういえば先日、日本に住んでいる友人(40代の女性)が、こんなことをこぼしていた。息子が手を離れたので、そろそろ再就職したいと思って、仕事を探している。けれども、年齢制限に引っかかってしまって、なかなか見つけることができない。 ちなみにアメリカでは、求人募集をするときには、職種を問わず、年齢制限や性別の制限を付けてはならない、という決まりがある。むろん、人種の制限など以ての外。 確かに、アメリカから日本に戻って、居酒屋やレストランなどへ行くと、そこでは妙に若い世代の人だけしか働いていないような気がして、なんとなく落ち着かない気分になる。そしてアメリカに戻ってきて、10代〜70代まで、実にバラエティに富んだ店員や従業員がいるのを目にすると、ほっとする。銀行、デパートなどでは、この日米の差はもっと顕著になる。 さてその夜、5人のガールズは、ひとつのテーブルを囲んで、マティーニ、マルガリータなど、好みのカクテルのグラスを傾けながら、大いに語り合い、笑い合った。 「女の子」が5人も集まれば、やはり会話のメインテーマは「愛とは?」「人生とは?」ということになってくる。 誰が話し始めたのか覚えていないけれど、気がついたら私たちは、十年ほど前にアメリカでも日本でも大ヒットした『マジソン郡の橋』の主人公の立場に、もしも自分たちが置かれたらどうするか? という話題で盛り上がっていた。要するに、夫と子どものある身で、ほかの人を好きになってしまったと仮定して、あなたは新しい男に走るのか、それとも主人公のように恋は諦めて家庭にとどまるのか、について、議論を戦わせたのである。 「私は男に走ってしまうと思うわ。でも一生、そのことで悩み続けるでしょうね」 「あら、私はそんなことはしないわ。やっぱりファミリーが一番大切よ」 「ファミリーを思うあまり、自分の情熱を押し込めて、不毛な結婚生活を続けていくなんて、最低じゃない。そんなの、絶対にいやよ」 「でも、たとえ新しい男とくっついても、最初は情熱的でも次第に冷めていき、あとは前と同じような退屈な結婚生活が待っているだけよ」 「そんなことないと思うわ」 「あなたはどうなの? 新しい男に走るの?」 「私? そうねえ、相手によるわね。相手が私の大好きなスコット・グレンなら走るわ。でもクリント・イーストウッドじゃ走れないわね」 外はどこもかしこも凍て付いた氷の世界。酷寒の夜、ガールズ・ナイトはあくまでも熱く、ホットに、沸騰しながら、更けていくのだった。 ********************************** 「バックナンバー3」へ 「バックナンバー5」へ戻る |