【バックナンバー・3】 その19 もういくつ寝るとクリスマス 私がこの文章を書いているのは2003年12月24日。クリスマスイブ当日である。 窓の外は折からの激しい雨。それでも庭や森に積もった分厚い雪は溶けそうもない。 明日はいよいよクリスマス。 アメリカでは今夜、多くの子どもたちが期待に胸をときめかせ、興奮のあまりよく眠れない夜を過ごすことだろう。アメリカのクリスマスは、日本のお正月に似て「家族で過ごす日」である。自宅を離れて暮らしている大学生もクリスマスには実家に戻って、家族と過ごすのが一般的だ。それとは対照的に、アメリカのお正月は1月1日だけ。2日からは学校も会社も普通に始まる。だからお正月に帰省する人はいない。 「今年もホノルルには、戻らなくていいの?」 と、夫に尋ねたのは今から1ヶ月ほど前のこと。夫の答えは去年と同じだった。 「誰が戻るものか! 冗談じゃないよ!」 私と夫は、まだ結婚して間もない頃、二、三度、ハワイ州にある夫の実家にふたりで戻り、そこで「典型的なアメリカのクリスマス」というのを過ごした経験がある。だがそれ以降、かれこれ十年近く、この季節にハワイには戻っていない。 毎年のように、クリスマスが近づくと、夫の母親からは催促のメールや電話が届く。 「今年のクリスマスには、戻ってきてくれるのでしょうね?」と。 しかし夫は頑としてそれを拒否する。 毎年、いろいろな理由を付けている。 「僕はクリスマスが嫌いだ。鬱陶しいだけだ」 「僕はキリスト教徒じゃないので、僕にはクリスマスを祝う理由がない」 「僕はアメリカの物質主義に同調できない」 「僕は企業に踊らされる消費者になりたくない」 これはもう、信念みたいなものだな、と、私はひとり苦笑いしている。 彼と知り合ったばかりの頃、どうしてそんなにクリスマスが嫌いなのか、私にはよく理解できなかった。日本で生まれ育った私にとって、クリスマスとは、仲の良い恋人同士がプレゼントを交換し、ロマンチックな夜を過ごす日、というようなイメージが強かった。 しかし、彼にとってクリスマスとは「アメリカの消費主義と付き合わされる、煩わしい日」に過ぎなかったようなのである。 数年ほど前だったか、夫の継母の姉(NY州在住)の家で、クリスマスを過ごしたことがあった。 24日の夜、姉のふたりの息子たち(当時7歳と5歳くらいだった)が寝静まったのを見届けてから、私と夫と姉の3人は、屋根裏部屋に隠してあったプレゼントの箱や包みをせっせと階下に下ろして、クリスマスツリーの周辺に置いた。それらのプレゼントはすべて、24日の深夜、サンタクロースがトナカイに乗ってやってきて、置いて行ったことになっている品々である。 そのほかにも、ツリーの下にはすでに、兄弟の父親(離婚後、別の女性と再婚している)、親戚縁者、両親それぞれの友人、知人などから郵送で届いていた特大・大・中・小のプレゼントが山のように積み上げてある。もちろん、私と夫も複数のプレゼントを持参してきている。その総数は、優に百個を越えていたと思う。 とにかく、ものすごい量のプレゼントなのだ。「質よりも量で勝負」というのは、アメリカ文化の真髄みたいなものじゃないか、と、私はかねがね思っているのだけれど、クリスマスプレゼントも決して例外ではない。 25日の早朝、兄弟たちはパジャマ姿でベッドから飛び出してくると、顔も洗わず、朝ご飯もそっちのけで、プレゼントを開封していった。あたりには、びりびり、ばりばり、ぐしゃぐしゃ、包装紙を破る音、リボンや紐を引きちぎる音が響いている。とにもかくにも、プレゼントの総量があまりにも多いので、猛烈な勢いで開封していかないと、追いつかない。 そうした勢いにもかかわらず、開封後のふたりの表情はといえば、プレゼントの中身を見て、感激したり、喜んだりしているというよりはむしろ、なーんだ、こんなものか、と軽く失望していることの方が圧倒的に多い。それでも、自分が本当に欲しいと思っているお目当ての品に早く巡り会いたいという必死の思いで、次から次へと品物に手を伸ばしている。 かくして、狂乱と喧噪の1時間が過ぎてみれば…… あとに残されたのは、包装紙、箱などのごみの山。兄弟に気に入られず、そのへんに放り出されている数々の贈り物。黒いごみ袋を手に、部屋から部屋へと歩き回る大人たち。ごみの総量はごみ袋5つ分くらいはあったと思う。そして、100個のプレゼントのなかに、自分が最も望んでいたCDが入っていなかった、と言って涙ぐんでいる弟と、僕はドラムのセットが欲しかったのに、と言って唇を尖らせている兄。 そんな様子を眺めながら、私の開いた口はなかなか塞がらなかった。同時に、夫がクリスマスを嫌っている理由も、何とはなしに理解できたような気がした。 「幼い子どもの頃には、それなりに楽しかったのかもしれないけれど、今は御免だね、あんな馬鹿馬鹿しい習慣は」と、夫は言う。 「金と資源の無駄使いに過ぎないよ」と。 しかし、41歳となった夫の、71歳の母親は、いまだに”それ”をやりたいようなのだ。洪水のようにプレゼントの品を買い与え、それらを次々に開封して狂喜乱舞する我が子の姿を見たい……もしかしたらアメリカのクリスマスは、幼い子どもを持つ「親のための行事」なのかもしれない。 最後に、アメリカで交換されるクリスマスプレゼントの特徴を紹介しておこう。 (1)実用的な品であること。 (2)それぞれの品の価格は、かなり安い。 (3)数は最低でも一人に付き、3個〜5個揃える。 (4)包装は、贈り主が自身の手で。 (5)包装紙はばりばり破って捨てるので、安物を使うこと。 (6)それぞれの贈り物には「〜から、〜へ」と名前を書いた小さなカードを貼り付けておく。そうしないと、どれが誰から贈られたのか、わからなくなる。 (7)衣服などの贈り物をするときには、レシートを付けておく(ちなみに26日には、クリスマス・ギフトの返品、交換に訪れる人たちで、ショッピング・モールはごった返している)。 ******************************2003.12* その18 アメリカで暮らす6000万匹の猫たち 窓の外で、静かに雪の降り積もる夜。 暖かい暖炉の前に寝そべって、ゆっくりページをめくりながら、愛おしむように文字を追っている。するといつの間にか、私のそばに猫がやってきて、ごろごろ喉を鳴らしてくれる。猫と一緒に、いつまでも読んでいたくなる。『男の相棒は猫に限る』(ウィリー・モリス著/桜内篤子訳/WAVE 出版刊)は、そんな作品である。 子どものころから猫が大嫌いで、ひたすら猫を恐れ続けてきた「筋金入りの犬好き」の著者が、中年を過ぎてから、猫の好きな女性と「恋に落ちて」、再婚することになる。結婚式を数ヶ月後に控えたクリスマスイブの夜。ツリーの影から、赤いリボンを付けて姿を現した白い子猫。この子猫との出会いをきっかけに、著者は恐る恐る猫の世界に足を踏み入れていく……。 著者はその子猫が成長して産んだ白い猫の命を助け、さらにもう一匹の迷い猫を拾って育て、その猫の産んだ子猫たちを家族に加え、多いときには合計七匹もの猫と暮らすことになる。そして、猫嫌いだった著者はついに「彼らの幸せのためなら命を捨てても惜しくない。これまでいろいろな場所で暮らしたが、今ほど幸せをかみしめたことはない」という言葉を書くに至る。 まるで、ご近所に住んでいる、気さくなアメリカ人のおじさんの問わず語りを聞いているような、親しみ深い文章。読んでいると自然に、心のなかの湖に、微笑みの輪が広がってくるようなのだ。それでいて、ただ「可愛い」というだけではない、犬には決してない、猫独特の、神秘的で不思議な魅力が余すところなくちりばめられている。深い洞察力に支えられた珠玉の猫作品。 手元にある猫の医学書『Complete Cat Care Manual』の統計によれば、アメリカで飼われている猫の数は、なんと6000万匹にも及ぶという。これは世界第1位で、2位のフランス(840万匹)、3位のイギリス(690万匹)を大きく引き離している。ちなみに日本はイタリア、ドイツに継いで、6位(350万匹)。 初対面のアメリカ人と出会ったときなどには、猫のことを話すに限るし、通りすがりの人や行きずりの人などとも、猫をきっかけにして、会話が弾むことが多い。 思い返せば、アメリカに引っ越してきて、一匹の猫と一緒に暮らすようになってから、私の人生はすっかり変わってしまった。今では、著者と同様、猫なしの人生は考えられないし、猫のいない人生など、人生とは呼べないとさえ思っている。女の相棒もまた、猫に限る。猫=愛、と置き換えてもいいだろう。私にとって猫のいない人生とは、愛のない人生なのである。 できることなら、私は、うちの猫よりも先に死にたいと思う。 この作品の著者のように。 表紙に映っている猫、スピット・マギーの写真を、私は涙なしでは見ることができない。 「猫好きな小手鞠さんに、ぜひ読んでいただきたいと思って」 と、お世話になっている人から贈っていただいた『バグダッドのモモ』(山本けんぞう作/アンドリュース・プレス刊)は、心に突き刺さるような、痛い作品だった。 風邪を引いて寝込んでいたとき、ベッドのなかで、小さなこの本を抱き抱えるようにして読んでいたのだけれど、途中からは、まるで活字に射られたようにベッドの上で半身を起こして、最後まで一気に読んでしまった。 戦時下の町バグダッドで、たくましく生きる男勝りの少女ももと、その家族の物語。語り手は、ももと行動を共にしている野良猫のモモである。 飄々とした語り口とは裏腹に、物語の中では残酷な出来事が立て続けに起こる。戦争のせいで気が狂った父親は、拷問のような形で惨殺されてしまうし、兄も姉も姉の子どもも、母親も、最後には弟のびびちゃんも、やはり戦争によって、命を奪われてしまう。ももが密かに思いを寄せている少年たるびのくんは、少年兵として前線に旅立ってしまう。作品の中から聞こえてくるのは、人々の悲鳴と叫び声と、耳を覆いたくなるような機関銃の銃撃音。 「大きすぎたり、強すぎたりすると、いいことないのさ」 と、バグダッドのモモは、びびちゃんに語っている。これって、アメリカのことなんだろうな、と、私は思う。「にんげんは、いつも、戦争をなくそうと言っている。でも、いつも戦争をしている。この世で、戦争がなかったことは、ぼくの小さな頭で覚えているかぎりなかった。にんげんは、なんでも殺すのが好きだけど、にんげんを殺すのが大好きなんだ」と、モモは言う。本当にその通りだと思う。仮にアメリカ人が戦争をやめたとしても、必ず、別の国の人間が世界のどこかで戦争を始めるだろう。 結末は、ここには書かないけれど、それは決してハッピーエンドではない。もしかしたら作者はこの物語をハッピーエンドで終わらせたくなかったのかもしれない。私には、そう読めた。 とても悲しいお話だ。 けれど、この物語は何故だか、底抜けに、明るい。人が次々に殺されていく救いのない世界を描いている、にもかかわらず、空はあくまでも青く、どこまでも澄み切っている。そしてその青空のもとには、トマト畑が広がっているのだ。真っ赤に熟れ、艶艶と輝くようなトマトが、鈴なりになっている……これって、猫の心の世界なのじゃないかな、と、私は思う。うちの猫が昼寝をしているとき、彼の見ている風景はそんな風なのじゃないかな、と。猫の世界では、戦争は起こらない。アメリカに住んでいる6000万匹の猫たちは、戦争をしない。 この本もやはり、窓の外に雪がしんしんと降っている夜、暖かい部屋の中で、猫と一緒に読みたい。兵士にレイプされそうになったももを、するどい爪攻撃で救ったあと、モモは少女をこんな言葉で慰めている。「生きていれば、いろいろと傷を負うものさ。にんげんも、ねこも……。気長に、ぺろぺろなめていれば、いつかは、傷が傷じゃなくなる」。 そしていつか、人間が戦争をやめる日は、くるのだろうか。 ******************************2003.11* その17 素晴らしい子どもの教育 「バザーに協力してくれない?」 ある日、友人から電話で連絡を受けた。 バザーの主催者は友人の友人。バザーはその人の個人的なボランティア活動であるという。 「どんなものでもいいの。ごみとして捨てるには忍びないけれど、誰かが使ってくれるのなら、喜んでさしあげたいというようなものであれば」 家のなかを探してみると、結構あった。 着なくなったセーター、気に入らなくなった食器、一度も使っていない鞄、新品のまま埃をかぶっていたキッチン用品。テレビを買い換えたためいらなくなったテレビを置くための台などなど。 「あなたにとってはまったく価値のないものでも、他人にとってはそれが必要だったり、貴重だったりすることがあるものよ」 なるほど、素晴らしい。 これは賢いやり方だ、と思った。私にとっては不要品の整理につながるし、他人にとっては必要なものがタダ同然で手に入るのだし、集まったお金は慈善団体に寄付されるのだし。 バザー会場には大勢の子どもたちが手伝いに来ていた。バザーは子どもの教育にも大いに役立っている、と、主催者は得意気だった。 それから1ヶ月ほどが過ぎたある日。 同じ友人から、電話がかかってきた。 「あなたんち、猫がもう一匹欲しい、なんて思っていない?」 猫は血統書付きのシャム猫で、性別はめす、年齢は八歳。 猫の里親を探しているのは、例のバザーの主催者だという。 「とても可哀相な猫なの。あなたの家は広いし、もう一匹くらい。なんとかならない?」 「もちろん猫は大好きだし、できることなら、もらってあげたい。そういう気持ちは山山なのだけれど、でも、残念ながら……」 と、私は軽快とはいえない口調で答えを返した。 私と夫は無類の猫好きだ。好きで好きでたまらない。けれど、もう一匹欲しいか、と訊かれたら、今のところ答えは「ノー」なのである。なぜならうちにはすでに一匹、目のなかに入れても痛くないほど可愛がっている猫がいる。猫は子猫のときから一緒に育てていない限り、ほかの猫とあまり仲良くなれない。うちの猫も例外ではない。だからうちでは二匹めをもらうつもりはない。 可哀相だから、という理由で猫をもらっていたら、世界中の猫をもらうことになってしまう。 「そうなの? じゃあどうしても……だめなのね?」 私の返答に対して、かなり気落ちしている様子が伝わってきたので、私はもう少し詳しく事情を尋ねてみることにした。 「いったいその人はどうして、八年間も一緒に暮らしてきた猫を手放そうとしているの?」 しかも、めすのシャム猫にはおすのシャム猫のきょうだいもいるのだが、もらい手を探しているのは、めすの方だけだという。 「それがね……まあ、言ってしまえば、子どものためってことかしら?」 「子どものため?」 それは聞き捨てならない、と私は思った。 その人のところには、三歳と五歳の男の子がいるという。 上の子には問題はない。問題は、下の三歳の男の子。この子がとても乱暴な子で、階段の上から猫を突き落としたり、殴ったり、蹴ったりして、ひどく猫をいじめているのだという。おす猫の方は隠れたり、逃げたりして、今のところそれに耐えているらしいのだが、めす猫の方は激しく抵抗し、報復行動として、三歳の男の子のベッドの上で、おしっこをするようになってしまった。 話を聞いているうちに、私はなんだか釈然としない気持ちになってきた。 三歳の子どもが猫をいじめている。 猫がそれに抵抗している。 子どもの親は「子どものために」と言って、猫を捨てようとしている……。 なんて素晴らしい子どもの教育なんでしょう! 傲慢きわまりない発言だということは承知の上で、私はその母親に、こう言いたくなった。 「必死になって猫のもらい手を探す前に、まず自分の子どもに『猫をいじめてはいけない』という教育をしたらどうなんでしょう」 猫の寿命は、どんなに長く生きても、二十年。 八歳のシャム猫の老い先は、短い。子どもにいじめられ、住み慣れた家や仲の良いきょうだいとも引き離され、余所にもらわれていく……。 「でもね、三歳の子どもって、それはもう大変なのよ。やることなすことすべてが動物か、それ以下なんだから。言って聞かせて、わかる年頃じゃないの」 と、子育ての経験のある友人は、ため息をつきながら電話線の向こうで言っている。 「だけど、その三歳の状態が永遠に続くわけじゃないでしょう?」 思わず、そう言ってしまった。友人は沈黙した。友人の言いたいことは、私にはわかっている。……あなたには、子どもがいないから、わからないのよ。 そのとおり。 私には子どもがいないから、その大変さはわからない。子を思う母親の気持ちも、実感としては、まったくわかっていないと思う。 しかし私には猫がいる。十年間一緒に暮らしてきた猫がいる。だから猫の気持ちはある程度、わかっているつもりだ。 不要になったから、誰かうちの猫を引き取ってくれる人はいませんか? 冗談じゃない。猫はバザーの品ではない。猫は喜びも悲しみも、私たち同様に感じている、私たちとまったく同じ命と人生を持った生き物なのである。それを子どもに教えるのが、親のなすべきことなのではないのだろうか? ******************************2003.10* その16 デパートで出会った人 町はずれにあるデパートは、売り場面積がやたらに広い。野球場ひとつ分くらいは優にあるのじゃないかと思う。土地が広いから、デパートの建物を縦に立てる必要がない。日本のデパートのすべての階のすべての売場が、すべて1階に集結している、それがアメリカの郊外の町にあるデパートだと言っていいだろう。 日本への里帰りを予定していた私はその日、旅に必要な品を買い求めるため、ターゲットという名の、このあたりでは最も大きなデパートを訪ねた。 平日の午後2時半くらいだった。 デパートはがらんとしていて、客も店員も、数えられるほどしかいない。でもけっして、さびれているという感じではない。おそらく売場があまりにも広いから、閑散とした雰囲気が強調されるのだと思う。どこもかしこも空いているから、買い物は、とてもしやすい。 買い物の途中で、レストルームに入った(アメリカではお手洗いのことをレストルームと呼ぶ)。 ドアを開けたとたん、耳をつんざくような激しい泣き声に襲撃された。 「ぎゃああああ、ぎゃああああ」 「待っててね。もうすぐ終わるから」 レストルームの片隅で、若い母親が一生懸命、赤ん坊をあやしながら、おしめを取り替えていた。赤ん坊はなかなか泣きやまない。それどころか、泣き声はさらに激しさを増していく。 「きいいいいい、きいいいいい」 ほとんど悲鳴にも近い声。全身全霊で泣いているという感じだ。 広くて、がらんとしたレストルーム。休日の学校を思い出させるような。私のほかには利用者はいない。 そのような場所で聞く、赤ん坊の激しい泣き声には、なんていうのだろう、一種独特の悲哀みたいなものがある。ほつれた髪の毛を繕いもせず、額に汗を滲ませ、泣きやまない赤ん坊に手を焼いている若い母親。横顔には、明らかに疲弊の色が浮かんでいる。私の目には、その母親と赤ん坊が、陸の孤島に置き去りにされた孤独なふたり連れ、のように思えてならなかった。 傲慢だと思いつつも、私は若い母親に同情心を抱いていた。 「かわいそうに。まだ、こんなに若いのに。買い物を楽しむこともできず、育児に疲れ果てて……」 私が用を済ませ、外に出て手を洗い始めたころ、赤ん坊はやっと泣きやんだ。 母親は赤ん坊を抱き上げて、私のすぐ近くにあった鏡の前に立った。 それから赤ん坊の姿を鏡に映して、鏡のなかの我が子に話しかけ始めた。 「ほら! 見てごらん。あなたはとっても美しい女の子。見てごらん。あなたの顔を。ほら、美しいでしょう? 笑って、笑って。あなたは、こんなに美しいのよ。あなたは世界一、美しい子なのよ。なんて、素敵な女の子。なんて、可愛い女の子。あなたは、美しい。あなたは美しい」 母親の声は、降り注ぐ木漏れ日のように柔らかく、優しい。 「あなたは、とっても美しい」 そうか、アメリカの母親はこんな風な言葉で子どもをあやすのか、幼子は母から「美しい」と言われながら成長するのか、などと思いながら、私もついつられて、隣の鏡に映っている赤ん坊の顔を見た。 さっきまでの泣き声が幻聴だったのかと思えるほど、赤ん坊の表情はおだやかで、満面に、初初しい真珠の粒のような笑みを浮かべていた。 私はそのとき、不思議な感動に包まれていた。 人気(ひとけ)のない平日の午後のデパートのレストルーム。おしめを取り替えたあと、我が子をあやす母親。それは、どこにでもある、ありふれた光景なのかもしれない。子どもをもったことのある人にとっては、別に取り立てて人に語ったりするほどのこともない出来事に違いない。しかし、そのとき私の胸にわき上がっていたのは、たしかに「感動」と呼ぶのが、もっともふさわしい感情だった。 「You are beautiful.」 私を感動させたのはおそらく、母親が赤ん坊に向かって繰り返しつぶやいていたその言葉……英語……ではなかったかと思う。その言葉の響き、その言葉の持つ力、そこにこめられた感情、真実、そして何よりも愛が、私の胸にストレートに届いたのだと思う。 それは、「あなたは美しい」という日本語をはじめ、いかなる日本語に置き換えても、意味のない、説明のつかない感動だと言っていい。その場で、そういう状況のなかで、その言葉を聞いた者にしか、理解できない感動、とも言えるだろうか。 アメリカで暮らし始めて、かれこれ十年になるのだけれど、正直なところ、私はいまだに、英語で何かを考えたり、英語で何かを感じたりすることは、できない。だれかと英語で話しているときにも、心の中心ではまず、日本語で思考し、すばやく考えをまとめてから、それを英語に置き換えている。そういう意味では英語は私にとって、外国語でしかない。 けれど、ときどき、だれかの発した英語のなかに、その人の赤裸々な思いや生の感情を感じ取ることのできる瞬間、というのがたしかにあって、それはかなり感動的な出来事なのだ。暗闇のなかに、ふいに射しこむ暁光のように。それは本当に「英語が理解できた」 「英語という言葉を感じた」瞬間に違いないから。 そして、そういうときには、自分の感情を日本語から英語に置き換えることなく、私の口からも、英語が自然にこぼれ出てくる。 私は鏡のなかの若い母親に向かって、こう声をかけていた。 「You are so beautiful,too.」 ******************************2003.09* その15 動物病院の赤ひげ先生 「なんだかこのごろ、睡眠時間がずいぶん長くなったねえ」 「やっぱり、年のせいかなあ」 「そんなこともないでしょ、だってまだ55歳くらいだもの」 55歳というのは、うちの猫の推定年齢。猫の医学書によれば、猫の10歳はだいたいそのくらいだという。 「そういえば、なんだかこのごろは鼠もあまり捕らなくなったね」 とにかく一日中、眠りこけている。朝から晩まで。そして夜も。ご飯とトイレのとき以外はずっと。いくらなんでもこれはちょっと…… 猫がこういう状態になったのは、今年(2003年)の1月のことだった。 「猫」の語源は「寝る子」ということからもわかるように、猫というのは本当によく寝る動物だ。けれどもこんな風に、一日中、まるで死んでいるように寝ている、なんてことは、これまでの十年間にはなかったことだった。 それでもはじめのころは、そんなに心配していなかった。 またそのうち、元気になるだろう。「ねえねえ遊んで」と、可愛く私にまとわりついてきて、いつものように私の仕事を中断させてくれるだろう。そう、思っていた。夫も同じような思いを抱いていたようだった。 猫がふだんよりも長く、深く、眠るようになったら、それは体のどこかに大きな不調あるいは故障、深刻な病気を抱えているシグナルである。ただちに病院に連れていって、獣医に診てもらった方がいい。 ウェブサーフィンをしていた夫がこんな記述を発見したのは、1月の終わりごろ。 私たちは悩んだ。 ウッドストックに引っ越してからかかった獣医は、動物をモノのように扱う、獣医の風上にも置けない人物。いわゆる金儲け主義者。だから病院へ連れていくとしたら、新しい獣医を探さなくてはならない。いや、それよりも「果たして、猫を病院に連れていくべきなのだろうか?」。 できることなら、動物病院へは連れていきたくなかった。なぜなら、車に乗せて家を出た瞬間から、家にもどってくるその瞬間まで、猫が地獄の苦しみを味わい、まるで死刑台に無理矢理のぼらされているような気持ちでいることが、手にとるようにわかるから。 三日三晩、話し合って、やはり連れていくことにした。もしも病気だった場合、このまま放っておいて、手遅れになってはいけないと思ったから。 初めてかかることになった先生の名は、ポール・スミス先生。 でっぷり太って、恰幅が良い。髪の毛は赤毛で、顎髭をたくわえている。赤ひげ先生のネクタイに、犬と猫の可愛い模様がついているのを見て、私はなんとはなしに安心した。 先生は、猫の背中を優しく撫でながら、 「十歳とは思えないほど健康で、美しくて、元気な猫ですね」 と、まず、うちの猫を褒めてくれた。 「でも、歯がこのように、相当悪くなっています」 先生は猫の口を開いて、ぐらぐらしている歯を、私たちに示した。 猫が一日中眠るようになっていた理由は、どうやら歯痛にあったようだった。 「猫というのは犬と違って、非常に勇敢で、我慢強く、誇り高いのです」 と、先生は言った。先生の話によれば、犬は痛みがあると、キャンキャン啼いたり、騒いだりして、不調を訴えるそうだけれど、猫はひたすら耐えて、痛みを忘れるために長時間の睡眠に入るのだという。 翌朝、ふたたび病院に連れていき、猫に麻酔をかけて、悪くなっていた歯を抜いてもらうことにした。 手術の前に、先生は二枚の契約書を取り出して、言った。 「どちらかを選んで、サインをしてください」 一枚は、歯を三本抜くことに同意します、という内容。 もう一枚は、三本の抜歯以外に、 「背中の近くに、シスト(おでき、小さな瘤のようなもの、医学用語では胞嚢)ができています。抜歯のために麻酔をかけますから、ついでに、このシストを外科手術で除去することが可能です。悪質のものではないので、無理に取ってしまう必要はありません。でも、取ってしまうチャンスは今こそある、ということです」。 したがって、こちらの契約書は、もう一枚より金額が200ドルほど高い。 私はたずねてみた。 「猫の健康上、取る意義はあるのですか?」 先生は言った。 「いいえ。取るとしたらそれは猫のため、というよりは、飼い主のため、というべきでしょうね」 その言葉を聞いて、私たちは即座に、取らない方の契約書にサインをした。 歯を抜かれるだけでも、猫にとっては大変なことなのに、どうして、飼い主のため(ようするに、外見の美しさを保つため、ということなのだから)に、外科手術を受けさせる必要があるだろう。 私はそのとき、ポール先生の正直さに胸を打たれていた。 もしも先生が「このおできは手術で取ってしまう必要があります」と言ったなら、私たちはそれに同意する以外に、選ぶ道はなかった。むろんポール先生は、事実をありのまま伝えてくれたに過ぎない、と、言ってしまえば、それまでのことだ。しかし、物言わぬ患者や専門知識の乏しい飼い主の弱みにつけこむ医者を知っているだけに、私の胸はポール先生に対する尊敬と感謝の気持ちでいっぱいになったのだった。 あれから七ヶ月。猫は見違えるように元気になった。尽きせぬ好奇心ももどってきた。 抜歯した数日後、さっそく鼠を捕まえて、夜中にベッドまで献上しにきてくれたときには、とても嬉しかった。 あいかわらず「よく寝る子」ではあるけれど、起きているときはよく遊び、よく遊ぶ。55歳とは思えない若々しさ。さっきから、この文章を書いている私のそばにすり寄ってきて「ねえねえ遊んで」と、しつこく、おねだりをしている。まったく猫というのは、なんて、なんて、可愛いのだろう! ******************************2003.08* その14 思いがけない贈り物 「バーンでクラシックのコンサートがあるんだけど、良かったら一緒に行かない?」 音楽関係の仕事をしている友だちに誘われて、出かけることにした。 夫も誘ってみたのだけれど、ロックやメタルの好きな夫は「バーンでクラシックなんて勘弁してよ」とつれない。 バーン(barn)というのは、農家や農場などにある納屋というか、馬小屋というか、ようするに穀物や干し草を入れたり、家畜を飼ったりするための小屋みたいな建物のこと。土曜の夜に、馬小屋でクラシック音楽の生演奏を聞くというのも、なかなか趣があるというか、乙な味というか。いかにもアメリカのカントリーサイドならではのイベントだ。 車を走らせること40分。雄大なキャッツキル(山猫の水飲み場という意味)山脈の北部にひっそりとたたずんでいる小さな田舎村に着いた。こんなへんぴなところで、本当にクラシック音楽の演奏があるのかな?と、首をかしげたくなるような村。 「メインストリートに面した赤いバーンだから、すぐにわかるわ」 と、教えてくれた友人の言葉通り、バーンはすぐに見つかった。隣接しているのは「ファーマーズマーケット」。とれたての野菜や果物が所狭しと並んでいた。 今夜の演奏者はたぶん、これらの農作物を生産している人たちに違いない、昼間はトラクターに乗っていた人、鍬を手に田畑を耕していた人たちが正装して、舞台に上がり、一夜のミュージシャンと化す、これもいかにもアメリカのカントリーサイド的……などと思っていた私の予想は、しかしながら見事にくつがえされた。 受付で渡されたプログラムを見ると、演奏者はみんなプロ中のプロ、学歴や賞歴なども華々しい一流のミュージシャンばかりで、なかには今夜の演奏のために、マンハッタンからはるばるやってきた人もいるようだった。会場はすでに満席に近い状態。お客は総勢50人くらいだったか。 演奏は、予想を遥かに越えて、素晴らしかった。 思いがけない贈り物をもらった気分だった。ブラームスのピアノクァルテットGマイナー、プロコフィエフのフルートのためのソナタ、インターミッションをはさんで、ふたたびブラームスの、ピアノクィンテットFマイナー。演奏者たちの背景にある半円形の大きな窓の外には、オレンジ色の夕焼けと、暮れなずむキャッツキルの森が浮かびあがって……。 「近くのホテルでパーティがあるんだけれど、良かったら顔を出さない?」 コンサートが終わって、帰ろうとしていると、友人がふたたび誘ってくれた。ホテルは道路をはさんで、バーンのすぐ向かい側にあった。ホテルというよりは「民宿」と書いた方が正確な表現になる、そんなホテル。 気軽な気持ちで、のこのこ付いていった私。パーティ会場に足を踏み入れたとたんに、後悔し始めていた。 集まっていた人たちの大半は、さっきまで舞台で演奏していたミュージシャンとその関係者たち。みんなとてもお洒落。洗練されている。私はといえば、ジーンズとTシャツ姿。なんだかひどく場違いな感じ。そして、パーティの話題はといえばやはり、音楽のこと、楽器のこと、演奏のこと。英語力も音楽力もない私は気遅れし、会場の片隅でひとり石仏のように固まっていた。 「こんばんは!」 帰るタイミングをはかっている私のそばに、ハンサムな若い青年が近づいてきて、声をかけてくれた。 「あっ、あなたは!」 その青年は、最後のブラームスのピアノ+弦楽四重奏で、チェロを弾いていた人。じつは今夜のミュージシャンのなかで「一番かっこいい!!!」と、私が密かに思っていた人ではないか。その人の笑顔が今、私の目の前にあった。私はドキドキした。 たがいに自己紹介をしあった。彼はフィリピン系アメリカ人で、名前はマーク。マンハッタン在住のミュージシャン。マークは私に、たいていのアメリカ人が初対面の人に向かってする質問をしてきた。 「あなたの職業は?」 「ミュージシャンじゃないの。私は……」 アメリカ在住の日本人で、日本語で作品を書いていることなどを話した。すると、マークはこう言うではないか。 「あなたは、日本人小説家の村上春樹を知っていますか?」 知っているもなにも、私は彼の大ファン。出版された作品はすべて読んでいる。マークも英訳された作品をすべて読んで、ファンになったのだという。日本から遠く離れたキャッツキルの深い森のなかで、とってもとってもハンサムなチェリストと『ノルウェイの森』について話ができるとは……夢にも思っていなかった。そのあと、私たちの会話が大いに盛り上がったことは、言うまでもない。 「私は『国境の南、太陽の西』がいちばん好きだけど、あなたは?」 「僕は『ノルウェイの森』がいちばん好き。あの作品は深かった。とてもロマンチックで、激しい作品だった。心を揺さぶられて、だけど読んだあとは、優しい気持ちになれた」 「まるで、きょうのあなたのチェロの演奏みたいに」 これは、お世辞ではなかった。 「ありがとう。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』も素敵だよね。ミステリアスで、美しい。複雑さに満ちていて、まるで、今夜のあなたのようかな」 お世辞とわかっていても、そのように言われると、嬉しい。 たいていのアメリカ人がそうであるように、マークも人を喜ばせる言葉をいっぱいくれた。夫と一緒に来なくて、本当に良かったと思った。 神様は、忘れたころにやってきて、意外な場所で、意外な贈り物をくださるものだ。 ********************************** 「バックナンバー2」へ 「バックナンバー4」へ戻る |