【バックナンバー・2】
その13 あなたなら、どうする? その朝、私は隣町に向かって、車を走らせていた。珍しく、外で人と会う約束があった。 雑用に手間取って、家を出るのがすこしだけ遅れた。だからちょっと気が急いていた。そ れでも約束の時刻ぎりぎりには、待ち合わせ場所に着けるはずだった。 後続車も対向車も、数えるほどしかやってこないカントリーロード。道の両脇は鬱蒼と した森。路肩で風に揺れているワイルドフラワーが美しい。家々は樹木に包まれて、ひっ そりとたたずんでいる。 「あ!」 思わずブレーキを踏んだ。 前方の路上に、茶色い毛をした動物が横たわっているのが見えた。 鹿か? 犬だった。ゴールデンレトリーバーと何かの混じった雑種。かなり大きい。可哀想に……。 車に撥ねられたのだろう。こんな大きな犬を撥ねておいて、運転者がそれに気づかない、 ということはあり得ない。轢き逃げである。犬は四肢を投げ出して、路肩に倒れている。 すでに死んでいるように見えた。 「生きている!」 犬のすぐそばを通り過ぎようとした瞬間、犬の躰が「ビクッ」と、まるで痙攣するよう に動いたのが、車内からでもはっきり見てとれた。 私は近くの脇道で車をターンさせて、引き返した。正直なところ、そのときの私の頭の なかでは「この犬にかかわっていると、待ち合わせに遅れてしまう」という思いと、私が 助けなくても「ほかのだれかがきっと、助けるだろう」という思いと、「私が犬を撥ねた と思われたら、いやだなあ」という思いが、目まぐるしく交錯していた。 それでも私は車を停め、犬の様子を見に行かないではいられなかった。 犬は白目を剥いて倒れたまま、頭から大量の血を流していた。 「だめかもしれないな」 と思った。 が、今はまだ、生きている。なんとかしてやらなくては。 首輪ははまっているが、鑑札は躰の下になっていて、読めない。いちばん近くにある動 物病院までは、車で30分ほどだ。しかし、頭から血を流している大型犬を、私ひとりで 動かすのは不可能なように思えた。 周囲を見まわした。小高い丘の上に一軒の家が立っていた。その家を訪ねて、助けを求 めようと思った。それに、もしかしたら、その家で飼われている犬かもしれない。 出てきた人は、50代くらいの女性だった。不審な人物を見るような目つきで、網戸越 しに、私を一瞥した。私は必死で事情を説明した。犬を車に乗せるのを手伝ってもらえな いだろうか。手助けが無理なら、獣医に電話をかけてもらえるだけでもありがたい、とお 願いした(私は携帯電話はもっていないし、あたりには公衆電話などない)。 彼女は答えた。なんの迷いも躊躇いもない、明晰な返答だった。 「その犬は、私の犬ではありません。あなたの置かれている状況は大変よくわかりました。 同情します。しかし残念ながら、私はあなたを助けることはできません」。 I can't という拒否の言葉は、さして冷たくもなく、突き放した感じでもなく、ただまっ すぐに私の耳に届いた。 ふたたび路上にもどった。犬はさっきと同じ姿勢で、ぐったりと身を投げ出したままだ。 ときどきやってくる痙攣。躰の下の血液の輪は広がっていくばかり。 私は途方に暮れていた。そのときにはもう、待ち合わせのことは頭から消えていた。兎 に角この犬をこのまま放っておくわけにはいかない。私ひとりで、なんとかしなくては。 と、そのとき、前方から一台の車がやってきて、私と犬のそばをちょっとだけ通り過ぎ てから、急停車した。私は手を上げて、助けを求める意志を示した。車にはふたりの女性 が乗っていた。 運転席に座っていた女性が降りてきた。やはり50代くらいに見えた。 「どうしたの? 大丈夫?」 私は事情を説明した。彼女は話を聞きながら、犬のそばにしゃがんで、犬の躰を優しく 撫でていた。私の話が終わると、彼女はきっぱりとこう言った。なんの迷いもない、躊躇 もない、明晰な口調で。 「わかったわ。私たちが獣医まで運びましょう。私たちは二人だし、車はあなたの車より も大きいし、それに動物病院は、私たちの向かっている方向にありますから」 そう言いながら、彼女は立ち上がって、車のなかにいたもうひとりの女性に声をかけた。 「トランクのなかに毛布があるから、それを出して、持ってきてちょうだ〜い!」 三人で、犬を後部座席に乗せた。 別れ際、彼女は私に言った。 「たとえこの犬が助からなくても、獣医から連絡が行けば、飼い主は引き取りにくるでしょ う。それがせめてもの慰めね」 犬の乗った車を、両手を合わせて拝みたいような気持ちで見送った。 私はその日、カントリーロードで、あまりにも「対照的な人々」に出会ったのだろうか。 親切な人と、そうでない人。 助けてくれた人と、助けを拒否した人。 いや、そうは思わない。 彼女たちはそれぞれ、私の話を聞いたのち、ただちに決断を下すことができた。 イエス、あるいは、ノー。 できる、あるいは、できない。 それはあまりにも明快な決断だった。困難な事態に直面したとき、どうするべきか、自 分には何ができて、何ができないのか、即座に判断できる。世間体や他人に左右されない、 自分自身の基準がある。そこに迷いはなく、自信だけがある。したがって決断したあとは、 それにしたがって、もっとも相応しい行動がとれる。仮にうまくいかなくても、後悔する ことはない。彼女たちは、アメリカのどこにでもいる「普通の人々」だった……。 ******************************2003.06* その12 宇宙人到来事件 「きゃー、どうしたの?!」 その朝、庭に彼女の姿を見かけたとき、私は悲鳴に近い叫び声をあげていた。 私の家を取り囲んでいる森のなかには、ホワイトテイルと呼ばれる鹿たちが暮らしていて、しょっちゅう庭に姿を見せるのだけれど、そのなかの一頭……人なつこくて、声をかけるとすぐそばまでやってくる雌鹿……の背中から横っ腹にかけて、大きな傷がついているのを発見したのである。 「大丈夫? いったい、どうしたの?」 足音を忍ばせ、鹿のそばまでゆっくり近づいていって、傷を見た。同時に私は、心臓が張り裂けてしまいそうなほどの衝撃を受けた。シャープなナイフか何かで、毛皮と皮膚をざっくりえぐり取られたような、むごたらしい傷。ぽっかりと空いた、赤ん坊の頭くらいの楕円形の穴から、骨とも筋肉とも内臓ともつかないような、生々しいものが見えている鹿の呼吸に合わせて、それらは動いている。目を覆いたくなるような惨状。しかもこの雌鹿、どうやら妊娠しているようだ。 しかし、不思議なことに、傷口から血液は一滴も流れていない。そして鹿はいつもと変わらず元気だ。四つ足でしっかりと立ち、いつもどおりの仕草で、地面の草を黙々とはんでいる。つぶらな瞳。長いまつげ。穏やかな顔つき。時折、思い出したように、首をうしろに曲げては、傷を舌で舐めている。が、痛そうでも、苦しんでいるようでも、ない。……今は普通にしているけれど、今晩死んでしまうかもしれないな。 鹿の躰にぽっかりと空いた、赤黒い穴を見つめながら、私は居ても立ってもいられない気持ちでいた。折しも夫は、旅行に出かけていて、留守。やるかたない思いを抱えて、私は、鹿が森の奥に消えてしまうまで、その姿を見守っていた。……どうぞ、安らかに眠ってください。 その夜、だれかにこの話を聞いてもらい、気を鎮めてもらいたくて、何人かの友だちに電話をかけた。長くウッドストックに住んでいる人には、今までこんな鹿を見かけたことがあったかどうか、たずねてみた。また、動物保護団体あるいは獣医などに知らせて、助けを求めるべきかどうか、意見を求めてみた。 友人たちの想像と、私のそれとはほとんど同じだった。 「するどい枝か何かに躰を引っかけたんだろうね」 「急な岩場で転倒したんだろう」 「それにしても、血が出ていないというのはへんだね」 「皮膚が剥がれ落ちるような、病気にかかっているのかもしれない」 「しばらく様子を見てから、動物保護施設に電話して、相談してみたら」 「とにかく、人間の仕業じゃないことだけは、たしかだよね」 私にとって、それはひとつの救いのようなものだった。鹿にあんな傷をつけるためには、まず鹿を麻酔で寝かせる必要があるだろうし、そんな面倒な悪戯をする暇人はいないだろうと思えたから。 なかにひとり、こんなことを言った人がいた。 「そんなことができるのは、宇宙人くらいしかいないと思うね」 この人はジョークの好きな人で、いつも可笑しなことを言っては、人を大笑いさせるのが趣味のようなもの。 「ジョークじゃないよ、これは」 と、彼は付け加えた。「以前にアメリカのどこかで、同じような傷をつけられた牛が、たくさん死んでいる映像を見たことがある」 私も、笑えなかった。 「地元の新聞社に連絡してみたら。ほかにもそんな鹿を見た人間がいるかもしれない」 私はそれまでずっと、宇宙人とか宇宙船とか、宇宙人による誘拐とか、実験とか、そういった類の現象はいっさい、信じていなかった。だが、今度ばかりは「たしかに、あの傷はただものではない」と思えるのだった。もしかしたら、宇宙人が森に現れて、鹿の皮膚を採集していったのか、と。 傷ついた鹿のことを思って、私は眠れない夜を過ごした。 一夜明けて、私の心のなかで、謎が解けた。 ヒントをくれたのは、うちの猫。夜中にバタバタ物音がしていたので、昨夜、猫が鼠を追いかけていたということはわかっていた。案の定、ダイニングルームのまんなかに、私への貢ぎ物が置かれていた。 「きゃー!」 それは、親指大ほどの鼠の頭だった。頭のそばには、小指大の鼠の足が落ちている。鼠のバラバラ死体を見つけた瞬間、私の頭のなかに忽然と、あるイメージが浮かんできた。「熊だ!」 鹿の躰にあのような傷をつけられるのは、野生動物しかいない。熊でなければ、コヨーテか。コヨーテと飼い犬が交配して生まれたと言われているコイドッグか。 動物界には動物界の掟がある。喧嘩はいけない、殺生はいけない、というのは人間界の決まりであって、それを動物界に適用することはできない。飼い慣らされたうちの猫でさえ、例外ではない。その行為は一見残酷に見えるが、ちっぽけで感傷的な人の同情など寄せ付けない崇高さがある。 その日の夕方、旅行からもどってきた夫といっしょに、ふたたび現れた鹿をじっくり観察した。鹿はやはり元気だ。傷は昨日に比べると、ずいぶん黒くなっている。 その大きさはちょうど、熊の手のひらくらい。傷の先端には、爪痕らしき直線のような傷跡も見える。立ちあがった熊が鹿に手をかけ、鋭い爪を食いこませ、そのままばりっと皮膚をひっぺがえした……。あるいは、コヨーテの攻撃。反芻するためにしゃがんでいる鹿の脇腹に、鋭い牙で噛みついたコヨーテ。それをふりきろうとして、ものすごい勢いで立ちあがった鹿。その瞬間、皮膚の一部がコヨーテに噛みちぎられた……。 宇宙人は呆気なく去っていき、森の動物たちは、人を介入させない絶対的孤独のなかで、きょうも静かな営みをくりかえしている。 ******************************2003.05* その11 西海岸人気質、東海岸人気質 プエルトリコ料理店(私は店の常連客)で働いているステファニーは最近、カリフォルニア州からニューヨーク州に引っ越してきた。生まれも育ちも西海岸。一時期、シアトルにも住んでいたことがあるそうだが、東海岸で暮らすのはこれが初めて。 一方の私。10年前、日本からアメリカに移住したときには、ロスから入国し、西海岸からコロラド州にかけて3週間ほど旅したことはあるが、そのあとはずっとニューヨーク州で暮らしている。西海岸での生活の経験はない。 先日、店に食事に出かけたさい、彼女とこんな会話になった。 今年のNY州の冬の寒さがあまりに厳しかったので、「西海岸は気候が穏やかで良かったでしょう?」と、私がなにげなく言ったことから、話は始まって……。 ステファニー:季節を比べるなら、私はカリフォルニアよりも、ニューヨークの方が圧倒的に好き。何故なら、ここには<すべて>があるじゃない? 春、夏、秋、冬。カリフォルニアにはたしかに厳しい雪の季節はない。でも、やっとのことで春が訪れたときの、あの喜びもないし、真夏、夜になっても裸足で過ごせるような熱帯夜もないし、カラフルな秋の紅葉もないのよ。 「すべてがある」というのは、上手い表現だなあ、と感心した。ハワイ州出身の夫もよく、同じようなことを言う。常夏、というと、年中半袖で過ごて、なんだかとっても快適そうだけれど、実際に住んでみると「年中同じ気候に飽きてくるのね」とステファニーは言った。夫は「ハワイの気候は人を退屈させる」などと言っている。 つぎに、西海岸を旅行中、私の感じていた「西海岸人の印象」を話題にした。「西海岸の人たちはみんな、道ですれちがう人に対して、とっても明るい笑顔で、フレンドリーに声をかけてくれるでしょ? でも、ニューヨークではだれもが無愛想で、むっとしている気がしない?」というコメントに対して……。 ステファニー:カリフォルニアの人たちはたしかに、だれに対しても「やあ! こんにちは! 元気〜???」って、すごく陽気よね。でも、それって、ほとんど意味のない愛想の良さなのよ。とくに相手が元気かどうかなんて、本当はだれもまったく関心はないの。それに対して、ニューヨーカーは、道ゆく人に気軽に「ハーイ!」と声をかけたりはしない。だけど、こちらが助けを求めていたり、道を尋ねたりしたときなんかには、それはもうとっても親切だし、懇切丁寧に教えてくれる。ニューヨーク人は、カリフォルニア人みたいにおざなりの挨拶はしないけれど、そのかわり、話すとなったら、とても真剣に会話する。ニューヨークでタクシーに乗れば、運転手さんの人生のストーリーが聞けたりするじゃない? そうか、あの愛想の良さは単なる「口先だけのこと」だったのか。そういえば、タクシーの運転手さんの人生ストーリーについては、私にも似たような経験があるなあ、と思った。 そしてつぎの話題は、西海岸の人たちと東海岸の人たちのライフスタイルや人生観の違い。それは、ステファニーによると……。 ステファニー:西海岸で暮らしている人たちの多くは、何かに背を向け、何から去って、西海岸にきている人が多い。それに対して、東海岸ではファミリーの絆、地元との絆、とにかく、何かにしっかりと結ばれて、暮らしている人が多いという気がする。地に足がついているというのかな。あと、大きな違いは、仕事に対する考え方ね。カリフォルニアには、はやく仕事からリタイヤして、リラックスしたい、のんびりしたい、という人が多かった。ニューヨークではみんな一生懸命、まじめに働いているでしょ。若いうちからリタイヤしたい、なんて言う人はいないじゃない? 彼女と話しているうちに、私の心のなかに、懐かしい記憶がよみがえってきた。 それは学生時代から10年間暮らした京都を離れて、東京に出てきたばかりのころのこと。あのころの私はだれかと、「関西人と関東人の違い」あるいは「京都人と東京人の違い」について話すのが好きだった……。 なんでも本音で話す関西人に対して、クールで感情をあらわにしない関東人。 言葉は優しいけれど、内面は冷たい京都人に対して、あまり表裏のない東京人。 地元意識の強い京都人に対して、よそ者の集まりである東京人。などなど。 こうして書いていると、アメリカの西海岸人と東海岸人の違いに、微妙に似ているところもあって、なんだか面白い。 ステレオタイプという言葉がある。 ステレオタイプで人や物事を見たり、述べたりすることは……とくに人種や民族にかんしては……差別や偏見につながることが多く、私はつねづね、避けたいことだと思っている。しかし、西海岸から東海岸にやってきたステファニーの話は、興味深く聞いた。 ある土地からある土地に移ってきたとき、肌で感じる「違い」。空気で感じる「違い」。人の表情や笑顔で感じる「違い」って、たしかにあると思う。それこそ、私が京都から東京に引っ越したばかりのときに感じた「違い」。日本からアメリカに移住したときに感じていた「違い」だった。 「違い」をまず認識し、それをステレオタイプで表現してしまう、という過程は、人が新しい何かになじむための、手続きのようなものなのかもしれないと、ステファニーの話を聞いていて、思った。京都人と東京人の違いについて、私があまり話さなくなったとき、私が東京での暮らしになじんでいたように、ステファニーもこれから、東海岸での暮らしになじんでいくのだろうか。 ただ、日米の「違い」については、私はあくまでもその「違い」を忘れず、かといって「違い」にこだわるのでもなく、アメリカになじみつつも、完全にアメリカに同化することなく、かといってじぶんが日本人であることにこわだるのでもなく、つねに曖昧で微妙な「違い」の領域のなかに、自分自身を置いていきたいものだと思っている。 ******************************2003.04* その10 戦時下のアメリカの”普通の人々” 今年の誕生日は憂鬱な気持ちでむかえた。 何故ならその日は、アメリカがイラクに対して、卑怯で愚劣で残酷で、最悪の戦争攻撃 を開始した日だったから。 私はその日のお昼、隣町に住んでいる友だちの家に遊びに行く予定にしていた。約束を したのは二週間ほど前だったか。彼女は私の誕生日を祝うために、一緒にランチを食べま しょうと誘ってくれたのだった。 朝、騒然としたニュースを読んでから、彼女に電話した。お昼の予定は延期した方がい いかな、と思ったのだ。 「こんな時だからこそ、会いましょう」と彼女は力強く言った。「こういうことは、親し いだれかといろいろ会話して、意見や気持ちをシェアするのがいいのよ」。 気持ちをシェア(share)する、という言い方は、アメリカ人がよく使う表現だ。分かち 合う、共有する、というような意味。悲しんでいたり、悩んでいたりする人に対して「あ なたの悲しみを一緒にシェアしましょう」という風に使う。 彼女の家までは車で三十分ほど。カントリーロードから幹線道路に乗り入れようとした とき、愕然とした。普段は適当に混んでいる道路が、がらんとしていたのだ。「みんな出 かけるのをやめて、家でテレビにかじりついているのね」と、彼女は言った。 戦争に対する恐怖、憤り、やるせなさを彼女とシェアして、私は家にもどった。 その夜は、夫と気持ちをシェアした。 「僕はアメリカ人であることが恥ずかしい」と、夫はブッシュ政権に激怒しつつ、同時に 失意のどん底に沈んでいた。 私も一緒に怒り、一緒に失望し、そしてたがいに慰めあった。 夫のステップシスター(夫の継母の娘にあたる人)がうちに遊びにきたのは、その週末 だった。これも一ヶ月ほど前から予定していたこと。 彼女はチリ産の赤ワインをたずさえてやってきた。 「家の近所の酒屋から、フランス産のワインがすっかり消えていたわね」と、彼女は笑い ながら言った。 それって、ジョークなの? とたずねると、いいえ、事実よ、と彼女は答えた。「それ にしても情けないわね。アメリカ人もヨーロッパ人もアラブ人も、みんな同じ人間じゃな いの。アメリカ人といっても、アメリカには、ありとあらゆる人種が暮らしているのよ。 みんな混血なのよ。同じ人間同士、どうして戦争なんかするのかしら」。 三人でワインを飲みながら、ひとしきり、戦争批判を展開した。 彼女には、ふたりの息子がいる。 「ところであなたの息子たちは、戦争についてどう思ってるの?」と、私はたずねてみた。 そして、彼女からもどってきた答えに、私は打ちのめされた。 「この戦争は正しい、と彼らは言ってるわ」 兄弟は十六歳と十四歳。生まれてくるのがもう少しはやければ、彼らも軍人になって、 前線に向かっていた可能性はある。 言うまでもないことだけれど、私は戦争には反対だ。 正しい戦争など、この世にあるはずがない。けれど、私には闇雲に「アメリカが悪い。 何もかもブッシュが悪い」と叫ぶこともできない。鬼の首を捕ったようなアメリカ批判は、 御免だとも思う。 アメリカに住んでいる私には、アメリカの軍人ひとりひとりの顔が「見えてしまう」の だ。軍人のなかには、ティーンエイジャーもいれば、シングルマザーもいる。両親ともに 軍人で、ふたりともイラクに派遣され、ひとりで留守番をしている幼い子どもたちもいる。 戦争に行っているのは、ごく普通の人々。戦場で殺されているのもまた、ごく普通の人々。 それは私だったかもしれないし、あなただったかもしれないのだ。 イラクでも毎日、おおぜいの普通の人々が亡くなっている。 「女と子どもが犠牲になっている」という表現は、戦争になるとマスコミに頻繁に登場す る常套句だ。これは、戦争の真実を見えにくくする言葉だと私は思っている。 戦争で死ぬのは、女子どもだけではない。男も民間人も軍人も、みんな死んでいく。老 いも若きもみんな。さまざまな人生とさまざまな人格をもった、例外なく同じ重さの命が、 木っ端微塵に失われてゆくのだ。 毎日、死者の数が報道されるなか、ホノルルに住んでいる義理の母からメールが届いた。 義母も勿論、戦争には反対している。 「……もう、戦争のことを考えるのは空しいのでやめた。私は今朝から、テレビのスイッ チはつけないことにした……」 今のアメリカでは、テレビのスイッチを消せば、戦争は見えてこない。 私がこれを書いている部屋の窓から見えているのは、春の気配の漂いはじめた初々しい 森だ。庭ではクロッカスが紫色のつぼみを膨らませている。私のそばでは可愛い猫がすや すや眠っている。戦争の落とす暗い影は、私の見ている風景のなかにはまったく、ない。 だからこそ私は、戦争が怖い。 ******************************2003.03* その9 カフェで出会った人 ウッドストックの街の中心に「ブレッド・アローン」というカフェがある。 買い物のついでに立ちよって、焼きたてのパンをかじりながらエスプレッソを飲んでいると、ときどき、近くに座っている人から話しかけられる。 私に声をかけてくる人は大きく分けて、つぎの2タイプに分かれる。 軟派タイプ=日本文化、日本人、あるいは東洋文化、東洋人に関心があって、それについて、アジア系の顔をしている私に質問したり、話したりしたいと思っている人。「きみは茶道が好きか? 琴が弾けるのか?」に始まって「日本人女性は優しいから好きだ」と発展していく人もいて、けっこう笑える。 硬派タイプ=時事問題、今なら、イラクとの戦争の是非について、だれでもいいからだれかと、会話したい人。つい先日も、もと海軍に勤務(岩国にも駐屯していた経験があると彼は言っていた)していたという人と、反戦について、熱く語りあったばかりだ。 その日、カフェで出会った人は、このどちらのタイプでもなかった。 彼女の名前はメリッサ。私とおない年。 おない年ということから、なんとなく馬が合ってしまい、ふたりともコーヒーのおかわりをして、夢中になって話しこんだ。 メリッサは結婚して、ひとり娘をもうけたあと、四十歳のときに離婚した。離婚の原因は、夫に恋人ができたせい。その恋人はなんと、メリッサたちの住んでいた家の二階を間借りしていた女性だったという。 「つまり私は夫に、ダンプされたわけね」 ダンプというのはふられた、捨てられた、という意味の俗語である。 「毎日、泣いて暮らしたわ。激しい鬱病にもかかって、自殺しようかと思ったこともある」 離婚後しばらくのあいだ、メリッサの方が娘を引き取って、母子ふたりで暮らしていた。が、もと夫(アメリカではエックス・ハズバンドと呼ぶ)の再婚をきっかけに、メリッサは娘をエックス・ハズバンドの家庭に引き渡すことにした。再婚相手は二階を間借りしていた人、言ってしまえば夫の不倫相手である。 「私は仕事で家を留守にすることが多いし、幼い娘に、あっちとこっちを行き来させるのも可哀想だと思ってね」 アメリカでは、夫婦が離婚しても、その子どもは、じつの父親や母親と常に行き来をするのが一般的だ。親の立場に立って書けば、離婚後もじぶんの子どもに会う権利があるというわけである。 メリッサは週に一、二度、車で五分も離れていない場所に住んでいる娘に会いに行く。そして、娘の家庭で、みんなと一緒に食事をする。 つまりメリッサは、かつてじぶんの夫だった人とその妻とじぶんの産んだ娘の3人と一緒に、食卓を囲んで、笑いながら、たのしく、夕御飯を食べている……ということなのである。 日本ではちょっと想像しにくい、夕餉のひとときではないだろうか。 アメリカでは、とくに珍しい話ではない。 とはいえ、4人みんなでにこやかに食卓を囲めるまでには、それなりの時間がかかっただろうし、それぞれの心のなかには、乗り越えなくてはならないそれぞれの葛藤があったにちがいない。 「世間の目から見ればきっと、私は、夫には裏切られるし、たったひとりの娘も向こうに渡してしまったし、哀れで、みじめで、孤独な中年女性、ということになるのかもしれないわね」 と、メリッサは言う。 「でも、じっさいのところ、私はちっとも不幸ではないの。人の幸・不幸って、外側からだけではわからないものよ。勿論、最初のうちは毎日泣いていたわ。どうして私だけが、こんなつらい目に遭わなきゃならないのかしら、と思ってね。だけど今はこう考えられるようになったの。あの試練は、私が成長するために、神様が与えてくださった素晴らしいチャンスだったのだと。それがその人にとって難しい試練であればあるほど、それを乗り越えたところには、大きな成長があるものよ」 彼女の現在の仕事は看護婦。 二十代のころはグラフィックデザイナーだったが、コンピュータの普及にはついてゆけないと感じて、離婚後、学校に通って看護婦の資格を取得。そして高齢者専門の医療施設に職を見つけた。週に5日、フルタイムで働いている。 仕事柄、人が亡くなる場面や瞬間に立ち合うことがひじょうに多い。 メリッサの話によると、人の死に方には「2つのタイプしかないの」という。 「家族もいなくて、ひとりぼっちで、死を迎える。なのに、ああ、幸せだった。いい人生だった。ありがとう。愛しています、と私の手を握って、頬に笑みを浮かべたまま、亡くなっていく人。もう1つのタイプは、駆けつけたおおぜいの家族に看取られながら、ちっとも良い人生ではなかった。何もいいことがなかった。不幸だった。最悪だった、と言って、嘆きながら死んでいく人。さて、あなたはどちらの死に方をしたいと思う? どちらを選ぶか、それはあなたの自由であり、あなたの権利。あなたの死に方はあなた自身にしか、決められないのよ」 カフェで出会った人は私にそう言い残して、午後3時から深夜までにおよぶ仕事に出かけていった。 ******************************2003.02* その8 悪魔なのか、天使なのか 友だちが経営しているB&Bの敷地の片隅にあるガーデン・シェドで、一年ほど前から、 ひとりの白人男性が暮らしている。 ガーデン・シェドというのは、庭仕事をするための道具……鍬やらスコップやらトロッ コやら箒やら芝刈り機やら……をおさめておく小屋。犬なら住めると思うけれど、およそ 人の住むような場所ではない。 B&Bには、従業員のための部屋はある。けれど、そこには今、住みこみで働いている メキシコ人従業員が暮らしていて、すべてふさがっている。男の仕事は日雇いのウェイター。 B&Bで結婚式やパーティなどが開かれたときだけに発生する仕事だ。 男の生まれ育った家は、B&Bから車で二十分ほどのところにある。家族は年の離れた 姉と病気がちな母親。父親ははやくに亡くして、いない。 ここ数年、男は、仕事のある日には自宅からB&Bに通ってきていた。 しかしながら最近、ある事情があって、家には住めなくなってしまった。 アパートを借りられるようなお金を持ち合わせていなかった男は、B&Bの経営者に泣 きついた。そして現在、彼らの厚意によって、犬小屋にも似たガーデン・シェドで雨風を しのいでいるのである。 ある事情というのは……。 年の離れた姉。 彼女は、生まれたときから目も見えず、耳も聞こえず、しゃべることもできず、重度の 精神薄弱と身体障害のため、ずっと寝たきりの生活をつづけてきた。ひとりでは手足も動 かせない状態だという。 そんな彼女が妊娠した。そして娘を出産した。 警察に届けを出したのは、となりに住んでいる人だった。その人はある日、赤ん坊の泣 き声を耳にして、隣家に異変を感じた。寝たきりの女性が「だれかにレイプされて、妊娠 し、出産したのではないか」と通報したのである。 一連の捜査のなかで、外部から家にだれかが侵入した可能性はないことがわかり、その 後、家族全員のDNA検査がおこなわれた。 その結果、子どもの父親は女性の弟である、ということが判明した。 弟は犯行を全面否定。しかし警察は彼を起訴。すべては裁判によって争われることとなっ た。裁判の結果が出るまでの間、彼には、自宅からの「退去勧告」が出された。 彼はおとなしくて、穏やかで、優しい性格をしている。すくなくとも私の目には、そう いう風に見える。犬が大好きだ。物腰はつねに柔らかく、おおぜいのなかにいると、目立 たないタイプだと思う。 「僕は、やましいことは何もしていないよ」 と、彼はまっすぐに私の目を見て、言った。 B&Bに遊びにいって、経営者、従業員、彼、私、みんなで夕食のテーブルを囲んでい た時のことだ。 「神に誓って、言える」と。 でも、DNA 鑑定では、赤ん坊の父親はあなただという結果が出てるんだよね、という言 葉は、その場にいただれもが、心のなかでは思っていても、口にできない言葉だった。 B&Bの経営者のひとりはある時、彼のいない場で、私に言った。 「彼の家はすごく貧しいんだよ。そんじょそこらの貧しさではないんだ。その日の食事に も事欠くことがあるくらいらしくてね。そういう時には、彼が川で魚を釣ったり、鹿を撃っ てその肉を食べたりしているみたいなんだ。母親は病弱で、まともに働くことなど到底で きないだろうし、そういう境遇のなかで、これからあのお姉さんの面倒をだれがみていく のかと考えたとき、もしも子どもがいれば……そう考えたのかもしれないね」 つまり、それは母親と彼の、合意の上での出来事だったのではないか、というのである。 いや、あれは純然たるレイプだ、人権蹂躙であり、虐待だ。そう言って、憚らない人も いる。「あの男は悪魔だ」と。近所の人たちの解釈はおおむね、そうであるらしい。 私は、こうも考えた。 寝たきりの姉。ベッドの上だけで過ごしてきた人生。そしてこれからも一生、ベッドの 上だけの生活がつづいていく。意識も、感情も、ほとんどないに等しい。喜びも、ぬくも りも、幸福感も、いっさい感じることができない。 でも、果たして本当にそうなのだろうか? たとえば、だれかの腕に抱かれたとき、あるいは妊娠し、出産したとき、彼女が何を感 じていたのか、何も感じていなかったのか、感じていたのは喜びだったのか、苦痛だった のか、一体だれに、わかるというのだだろう。 「Who knows?」 「Only God knows.」 いや、もしかしたら、神にも知り得ない真実というものが、あるのかもしれない。 裁判は長引くだろうといわれている。 アメリカでは、腕のいい弁護士を雇うためには莫大な費用がかかる。彼にはそんなお金 はない。冬のあいだはB&Bでの仕事も激減する。 年の瀬にB&Bに遊びにいったとき、そこで再び彼に会った。 「今年のクリスマスはおうちで過ごせなくて、寂しくなかった?」 そうたずねると、彼は赤ら顔の頬に、天使のような笑みを浮かべて言った。 「静かなクリスマスも良いものだよ」 彼の母親はときどき、食べ物や飲み物を持って、窓も暖房もないガーデン・シェドに息 子をたずねてくる。息子は二十八歳。名前をチェスターという。チェスターの娘はもうす ぐ二歳になる。 ******************************2003.01* その7 ジェシカは4人家族 交差点で信号待ちをしているとき、前の車の助手席には、はっとするほど美しい金髪の人が乗っていて、ふと隣車線に目を移すと、真横に止まっている車の助手席には、つやつやと輝くような黒髪の人が乗っていたりする。 金髪の人はゴールデン・レトリーバー、黒髪の人はラブラドール・レトリーバーなのである。 猫派の私はこういうとき、ほんのちょっとだけうらやましくなる。うちの猫は絶対に私といっしょに車に乗ってくれないから。 いつだったか、カントリーロードに車を走らせているとき、いかにも道に迷っている風に見える大型犬、セント・バーナードがいたので、とりあえず車を路肩に寄せ、ドアを開けたその瞬間、入れかわりに、その犬にどかーんと車に乗りこまれてしまったことがある。 私は大型犬のあつかいには慣れていないので、どうしたものかと困り果ててしまった。でっかい迷い犬はそのまま助手席にお行儀良く座ると、しっぽをぱたぱたさせながら、つぶらな瞳で私を見ている。ようするに 「ああ、助かった。ちょっと遠出をし過ぎたもので、困っていたの。でもちょうど良かった。お願い。あたしのうちまでちゃんと届けてちょうだいな。首輪に住所が書いてあるでしょ」 と、こういうことなのである。 五十年にわたる盲導犬育成の日々をつづった作品『アイメイトと生きる』(2002年10月、出窓社刊)のなかで、著者の塩屋賢一氏は、アメリカの盲導犬育成施設を訪問した際の体験や印象をもとに、日本人とアメリカ人の間には、盲導犬をふくめて、犬に対する対応に大きな違いがある、と、述べておられる。 塩屋氏によると、(アメリカでは)「盲導犬を見かけても「ああ、あれが盲導犬だ」と珍しがる人はほとんどいない。目が見えない人が盲導犬と一緒に歩くのは当たり前のことで無関心である。また、犬を飼っている人は非常に多いが、それに対して、社会があまりムキになっていない」とのこと。 アメリカに住んで十年になるが、犬にかんしてはつねづね、私も塩屋氏と同じようなことを実感している。 アメリカでは、鎖につながれたまま屋外で飼われている犬は滅多に見かけない。犬はたいてい、家の内外を自由に歩き回っている。家のなかに犬がいるのはごく普通の光景。散歩に出かけるときにも紐なしで、飼い主にちゃんとついていく。 車に乗って飼い主といっしょにお出かけする犬が多いことは、冒頭で書いたとおりだし、お店で買い物をしてレジに行くと、カウンターの下には、店員さんの飼い犬が寝そべって店番をしていたりするし、大学の教室では、犬といっしょに授業を受けている学生がいたりする。犬が社会のなかに溶けこんでいる。盲導犬を連れている人が目立たないのも当然のことだろうと思う。 ウッドストックでケイタリング・ビジネスをしているジェシカ(50歳)は離婚後、ひとり娘を女手ひとつでりっぱに育て上げ、今年の夏、ボストンにある大学に送り出したばかりだ。けれども、彼女はまだまだ、気ままな一人暮らしを謳歌できない。 彼女にはあと3人、扶養家族がいるのである。 メンバーはジャーマン・シャパートと育ち盛りのビーグルと、アメリカン・ショートヘアの子猫。いずれも動物保護施設(日本の保健所のような施設)からもらい受けてきた養子たちだ。 ジェシカの話によると、アメリカでは「犬の飼い主は、一歳未満の子犬のときにドッグ・トレイナーのところに預けるか、いっしょに通っていくかして、とても厳しくしつけるの。食事、排泄、生活習慣、基本的行動などのすべてをみっちり訓練させるの」という。 その際、飼い主はまず、 (1)犬といっしょに散歩に行きたいか。 (2)犬をまったくの放し飼いにするか。 の、どちらかを選択するそうだ。 (2)を選んだ場合には、基本的な訓練以外に、じぶんの家の敷地内からけっして外に出ないようにするための訓練も受けることになる。ジェシカ曰く「パニッシュメントを与えて、してはいけないことを躯で覚えさせていくの」。パニッシュメントというと、なんだか聞こえは柔らかいが、ようするに「体罰」のことである。 「まあ、ちょっとかわいそうな気もするけれど、大きくなってからしつけようとしても無理なのね。小さなときが肝心。子どものしつけと同じじゃないかしら」 なるほどね、と、私は納得した。 道で出会っても、けっして人に飛びついたりしない。吠えたりもしない。あの、優しくて、穏やかな気性の犬たちはみな、子犬時代に死ぬほど厳しくしつけられてきたのだ。 ちなみにアメリカでは、子どものしつけの大原則として「幼いときにはできるだけ厳しく。大きくなっていくにつれて、それをゆるめていく」という考え方があるそうだ。そういえば、小さな子ども連れの親が公共の場で、じぶんの子どもを無茶苦茶きびしく叱っている場面に、非常によく出くわす。まわりの人たちが思わず、子どもの方に同情してしまうくらい、激しく叱っている親が多い。 アメリカでは、犬のことも猫のことも、ペット、と呼ぶ人は少ない。 「ファミリーのメンバーなの。うちの可愛い子どもたちなの」 と、ジェシカは言う。 「同感」 と、答えながら、猫派の私は心のなかで「猫っていいな」と思っている。なぜなら猫は、きびしいしつけなどしなくても、ひとりでちあゃんとりっぱな猫に成長してくれるからである。 ********************************** 「バックナンバー1」へ 「バックナンバー3」へ戻る |