ウッドストックの森から

【バックナンバー・1】
                                        


******************************2002.9*
その6 ウッドストックのバー 西新宿のバー

 お酒にはそれほど強くないくせに、私はバーが大好き。バーのカウンターに、気のあう 友人とならんで腰かけて、ゆったりとお酒を飲む……私にとって最高の贅沢だ。
 東京にもウッドストックにも、飲み友だちがいる。
 ウッドストックの悪友から誘いの電話がかかってくるのはだいたい当日の昼下がり。
「ハッピーアワーしない?」
「きょうの4時20分あたり、一杯どう?」
 そんなメッセージが留守電に入っていたりすると、もうすっかりバー気分。そわそわしてしまって、そのあとの仕事はちっともはかどらない。
 ハッピーアワーというのは夕暮れまえのたまゆら、仲間と酒を飲んで楽しく過ごす時間のこと。4時20分というのも同じ意味合いの表現。こういう早い時間から酒を飲むというのは、なんともウッドストック的というか、アメリカの典型的な田舎町的というか。
 理由は車、である。電車やバスのないウッドストックではバーに行くにも自分の車を動かすしかない(流しのタクシー? もちろんありません)。車で飲み行ったからには、飲んだあとも車を運転して帰らなくてはならない。そのために早くから飲んで、ある程度酔いを醒ましてから、慎重に飲酒運転をする必要があるのである。
 私の夫は、車でバーに出かけようとしている私の背中に、いつも懇願の言葉を投げかける。
「お願いだから、ジントニックは一杯だけにしてくれよ」
 そうは飲み屋が卸さないのである。
 つい先日、東京に住んでいる飲み友だちが、気持ちよく酔える酒の本を送ってくれた。
 「問題の酒 本物の酒」(大嶋幸治著 2002年11月 双葉社刊)。
 この本を読めば日本酒、焼酎をはじめ、ビール、発泡酒、ウィスキー、ワインなど、酒 のすべてがわかると同時に、日本の酒事情&裏事情にも詳しくなれる。まさに”酒通”のための美味しい酒の肴的な一冊。酒にあまり詳しくない私のような者にとっては、わかりやすい酒のガイドブック、あるいは酒の教科書として重宝できる。とくに、日本酒と焼酎がお好きな方なら喉ごし良く読めるだろうし、辛口の酒がお好みの方にはこたえられない魅力があるはずだ。
 この本を読んでいると、なんだか無性に日本酒が飲みたくなってくる。これは、困る。
 なぜならここ、アメリカの片田舎で、まともな日本酒を手に入れるのはほとんど不可能に近いからだ。町の酒屋に行けば、たしかに日本酒は置かれている。お店のいちばんすみっこに。埃をかぶって。英単語で言えばそれは「ジャパニーズ・クッキングワイン」。ようするに料理用の日本酒でしかないのである。
 さて、話をバーにもどそう。
 今年の秋、日本に一時帰国し、東京に住んでいる飲み友だちと西新宿のバーで飲んだ。
 バーの名を「コウノスケ・バー」という。5人がけのカウンターに、ボックス席がわずか2つ、という可愛いバー。青梅街道から細い裏路地を入ったところにある。
 カウンターに腰を落ち着けると、まず熱いおしぼり。そしてバーテンダが分厚いメニューを広げて差し出してくれる。友だちとふたりでメニューを眺めながら、これもいいね、あれもいいね、と楽しく検討を重ね、バーテンダーに質問もし、おもむろに注文をする。
 彼はグレーンモーレンジのオン・ザ・ロックスを、私はジンをベースにしたカクテル 「パリジャン」を。  バーテンダーは、まんまるいお月様の形をした氷を1個、彼の目の前のグラスのなかに入れると、上弦の月の曲線の上から、黄金色のウィスキイをゆっくりと静かに、少しずつ丁寧に、注いでゆく。まるで窓ガラスを伝う雨の滴のように、ウィスキイがグラスのなかに流れこんでゆく。見ているだけで、酩酊してしまいそう。こんなに優しく扱われて、お酒の方もさぞかし気分が良いだろうと思う。
 このバーテンダーさん、正真正銘の酒のプロフェッショナルであった。話を聞けば、長く厳しい修業ののち、このバーを任されているということだったが、お酒だけではなく、お客の扱い方にも、神経がゆきとどいていた。しかも、神経がゆきとどいているということがまったく見えない形で、ゆきとどいていた。
 私と飲み友だちは至福の時を過ごし、ハグをして別れた。
 それから約3週間後の4時20分。
 私はウッドストックの飲み友だちとバー「レザボア・イン」で再会のハグをしていた。
 レザボアというのは貯水池という意味。バーの近くには巨大な貯水池がある。あたりには民家は一軒もなく、店を取り囲んでいるのは林、野原、田圃など。ときどき付近の道路を横断するのは鹿、熊、栗鼠、スカンク、ウッドチャック、野兎などの野性的な面々。駐車場にずらりと並んでいる車はほとんどがピックアップ・トラックか、大型のSUVキャンピングカー)。荷台には農機具や材木が積んであったり、助手席に大型犬が座って、酒飲みの主人が車にもどってくるのを待っていたりする。
 まだ日は高いが、バーは満席だ。
「どうだった? ニッポンへの里帰りは」
「楽しかったよ」
 挨拶もそこそこに、カウンターに並んで腰かけた私と彼。さっそく注文を入れる。アメリカのバーにはメニューというものは存在しない。好みの酒を注文してみて、「そんなの、ない!」と言われたら、すかさず別のものを注文する。また、ウィスキイにしても、ビールにしても、すべて具体的な銘柄で注文しなくてはならない。メニューがない、ということは、そう、値段も不明なのである。お客は注文したあとで、カウンターの上に10ドル札なり、20ドル札なり、適当なお札を置いておく。するとバーテンダーはドリンクを出すたびにそこからお金を適当にとっていく。お客は最後にチップを残して去っていく。
「ギムレット」と私。
「ワイルドターキー、オン・ザ・ロックス」と連れ。
 カウンターのなかから「あいよっ!」と威勢の良い返事が返ってくる。
 レザボア・インのバーテンダーは思わず「おばちゃん」と呼びたくなるような中年女性である。ポニーテイルに結んだ金髪。Tシャツにジーンズ。カウンターのなかで、あちこちにぶつかっているでっかいお尻。出勤前には大急ぎで子どものおむつをとりかえ、ベイビーシッターに預け、そのへんのスーパーであわただしく買い物をすませてきた、そういう生活臭のするおばちゃんである。
 おばちゃんは、まるでかき氷みたいに細かく砕かれた氷をグラスのなかに「ザバッ」と入れ、酒瓶についたホースみたいな蛇口からバーボンを「ジャーッ」と注ぐ。そしてそのグラスを「ドン」と音をさせて、カウンターの上に置く。
 まったく、風情もへったくれもあったものではない。
 それだけではない。おばちゃんは強引に私と彼の会話に割りこもうとする。株投資家の彼は、低迷をつづけているアメリカの株について、深刻な口調で話している。なのに、このおばちゃんときたら、頼んでもいないのにバッグのなかから、ハローウィンで変装した子どもの写真を取りだしてきて、「ねえねえ、見て。かわいいでしょ」。
 まったく、お客に対する配慮というのもがないのである。
 優雅さというものが、上品さというものが、趣が、奥ゆきの深さが、ようするにわびさびというものが、このバーにはないのである。どんな酒でもアメリカで飲めば「アメリカン」になってしまう。味も味わいも薄まってしまう。そう思うのは、私だけだろうか。
 にぎやかで、がさつで、カジュアルなウッドストックのバーの片隅で、私は思い出している。西新宿の小さなバーで、お月様の氷の上を、涙のようにひそやかにすべり落ちていったウィスキイのひとしずく、ひとしずくを。年季の入ったバーテンダーの繊細な指先を。
 静けさのなかに、シンガポール・スリングの紅色のような淡い華やぎのあった、あの、狭くて、素敵な空間を。
******************************2002.11*
その5 ワルツの好きなアメリカの歯医者さん


 あれはアメリカに引っ越してまだ日も浅い、ある夏の日の朝のことだった。
 朝ご飯を食べているとき、口のなかに「ほろっ」というような奇妙な感覚があって、気がついたら、奥歯の虫歯に詰めてあった詰め物(英語=フィリング)がとれてしまっていた。それはなんと遠い遠い昔……三十年もあまり前……、私が中学生だったころに実家のある岡山の歯科医で詰めてもらった詰め物だった。幸いなことに私はその後、一度も歯科医のお世話になることはなかった。だが、なんの因果か三十年という年月を経て、アメリカで歯科医にかかる羽目におちいってしまったのである。
 「羽目におちいった」という表現からお察しいただけるかと思うが、それは私にとって、人生の一大事にも相当する出来事だった。
 何しろ、引っ越したばかりだったから、歯科医院はもちろんのこと、町のどこに何があるのか皆目わからなかったし、それよりももっと大きな問題は英語がロクに話せなかったこと、ヒアリングもからきしダメだったこと。つまり当時の私は、外国の町で迷子になった3歳児のようなもの。3歳児がひとりで歯医者さんへ行くとなれば、これはもう、大変な出来事以外の何ものでもないだろう。アメリカ人である私の夫は、新しく始めたばかりの自身の仕事に日々忙殺されており、英語のできない外国人妻を助ける心の余裕などみじ んも持ち合わせていなかった。が、うろたえている私に向かってたったひとこと、このようにアドバイスしてくれた。
「歯科医? 電話帳でさがすといいよ。腐るほど出てると思う」
 本当にその通りだった。
 電話帳を広げて「Dentists(歯科医)」の項目を開くと、出てます、出てます、うんざりするほどたくさんの歯科医の広告が……。こんなにたくさんの歯科医のなかから、いったい何を基準に選べばいいのか、私はふたたび頭を抱えてしまった。そんな私を横目でちらりと見ながら、夫がくれたアドバイスは「フィーリングだよ、フィーリング。つまりカンで選ぶんだね」。
 なるほど。フィリング(詰め物)をしてもらうための歯科医は、フィーリングで探すのか、などと思いながら、私は電話帳をめくっていった。
 広告にはかならず歯科医の名前がフルネームで記されている。たとえば「17年の経験を誇ります。ほとんどのケースは1日で処置できます。明るい笑顔が魅力です」という謳い文句を掲げているのは、Marlin Schwartz,D.D.S さん。「とっても優しいです。あらゆるケースに対応できるマルチな歯科医です。お値段もとっても手ごろ。歯の無料クリーニング付き」と言っているのは、 Vivian Letiza,D.D.S. さん。この女医さんはなんと、広告に顔写真を載せている。いかにも優しそうな感じ……。顔写真で歯科医を選ぶ、とい うのは、しかしなかなか良い方法ではあるなあ、と思ったことだった。
 ちなみに医者の名前のあとにくっついている「D.D.S.」というのは doctor of dentalscience の略語である。このほか「D.M.D.」(出窓社さんと同じ)という資格をもつ医師もいて、これは doctor of dental medicine の略語。
 迷ったすえに、とりあえず私は、家からもっとも近い場所にあった歯科医(家に近いということで、なぜか安心感を覚え、歯科医を選ぶ人は多いのではないだろうか。私も例外ではなかった)に電話をかけて、翌日のアポイントメントをとった。これはあとでわかっことだけれど、アメリカの歯科医はだいたいどんな治療でも、一回こっきりで済ませるようにしているようだ。そのため、一回の治療時間は長い。しかし、一回で済んでしまうのだから、患者にとってはありがたい。
 さて当日。診察台の上に横たわり、ガチガチに緊張して、刑の執行を待つ罪人の気分で歯科医が現れるのを待っていると、ドアの向こうからまず口笛が聞こえてきた。明るくて、陽気な口笛だ。「ドナウ川のさざ波」だったような記憶がある。ときどき音程がずれたりして、聞いているだけで頬がゆるみ、なんとなく気分がなごんでくるような……。
 そう、その口笛の主こそ、私の歯の治療にあたってくれる歯科医さんだった。
 アメリカ人は概して、陽気な国民であると言われている。それは99%あたっていると私は思う。楽天家、ポジティブシンキング、脳天気、ジョークが大好き……。でも、アメリカ生活も十年を迎えるこのごろになって、こういったアメリカ人の明るさは、じつは性格というよりは配慮ではないか、つまり、まわりの人たちをなごませ、緊張をほぐし、対人関係から起こる摩擦を防ぐためのアメリカ人の知恵のようなものではないか、と、私は思うに至っている。関西人のお笑いのノリに近いのかもしれない。ようするに「気をつかっている」のである。歯科医の口笛も、今にして思えばそのような緊張緩和剤だった気がするのだ。  たしかに、調子はずれの口笛によって、私の気持ちはいくぶんかラクになっていた。そして私はあらかじめ頭にしっかりインプットしてきた英語で、虫歯の詰め物がとれてしまった、という事情を説明した。すると歯医者さんは笑顔でこう言った。
「ところであなた、きょうはその詰め物をお持ちになってますか?」
「は?」
 昨日の朝、歯からはがれ落ちた気味の悪いその代物を、私はバスルームのごみ箱に捨ててしまっていた。
「あ、あの、捨ててしまったんですけど……でも」
 ごみ箱のなかを探せば、見つかるかもしれない。
「まだくずかごのなかにあるのだったら、家にもどって、ぜひそれを持ってきてください」
「今から、ですか?」
 一瞬、ジョークかと思ったけれど、歯科医はあくまでもまじめな顔つきで私を見つめている。歯科医院から私の家までは、車で五分ほどの距離である。
「ええ。今すぐ持ってきてください。僕はここでじっと待ってますから」
 というわけで、私は診察台から降りると、車を飛ばして家にもどり、バスルームのくずかごをひっくりかえして、詰め物を見つけ出し、ティッシュペーパーにくるんで、ふたたび歯科医に舞いもどった。
 診察室で私を待っていた歯医者さんは、三十年も前に日本の歯医者さんが詰めてくれた詰め物を、ふたたび私の歯にもどしてくれた。
 口笛を吹きながら……。
 曲目は、曲がりなりにもショパンのワルツ、だった記憶がある。


******************************2002.10*
その4 暴走するアメリカの教育ママたち


 私の暮らしている町ウッドストックは、キャッツキルという名の山脈に囲まれた高原地帯にあり、家はトバイアス山という名の山の中腹にあるので、私が日々車を走らせている道路はすべて、いわゆるカントリーロードである。アメリカのカントリーロードというのはなかなかの優れもので「え! こんなところまで道があるの!」というようなへんぴな場所、山のなか、森の奥の奥、ド田舎のすみずみまで、ちゃんと整備された道がはりめぐらされているのである。
 私はカントリーロードを車で走るのが大好きだ。対向車もいなければ、後続車もいない。横断歩道もなければ、信号もない。美しくのどかな田舎道。樹木に囲まれたツリートンネルをくぐり抜けながら、すいすいと走る。ほんとうに気持ちの良いひとときなのである。
 当然のことながら、走っているときには、人や子どもの飛び出しに注意する必要はあまりない。道を歩いている人など、ごくまれにしかいないからだ。しかしながら、動物の飛び出しには、注意してもしすぎるということはない。大きなところでは鹿、クマ。中くらいのところではスカンク、キツネ、タヌキ、ウッドチャック。小さなところでは野ネズミ、袋ネズミ、野ウサギ、各種リス。ちょっと変わったところではワイルドターキーなんかも雛鳥をしたがえて道路を横断する。とても楽しいカントリーローではあるが、無惨にも車に撥ねられた動物の姿を目にしない日はない。「鹿に注意!」を鹿の絵で示す道路標識も多い。
 私はいつでも制限速度以下で車を走らせている。絶対に、動物を撥ねたくないからである。急ブレーキはしょっちゅう踏んでいる。路上に他の車が走っているときには、車間距離はじゅうぶんすぎるほどじゅうぶんにとっている。
 さて、対向車も後続車もほとんどないカントリーロードではあるが、午後3時〜6時くらいの時間帯になると、かならず暴走族が出現する。バックミラーに後続車が映ったかと思うと、車間距離がどんどん縮まってきて、私の車のまうしろに、ぴたりとくっつけてくる。もちろん、制限速度ははるかにこえている。私の車を追い抜きたくてたまらないのだろうけれど、道路の幅は狭く、おまけに追い越し禁止の道なので、暴走車は私の車を追い抜くことができない。
 バックミラーをのぞくと、そこには、髪の毛をふり乱し、目をつりあげ、般若の面にそっくりな顔が映っている。運転者がいらいらしているのは一目瞭然だ。「やれやれ」と思いつつ、私は車を寄せるのが可能な場所を見つけしだい、車を路肩に寄せて一時停止し、暴走車に追い抜いてもらう。そうしないと、危なくて仕様がない。仮に、私の車のすぐ前を鹿が横切りでもしたら、私は急ブレーキをかけるだろうし、そうなれば、後続車が私の車に突っこんでしまうのは必至だからである。また、鹿を撥ねてしまえば、私の車の前部はめちゃめちゃになるだろう。
 暴走車の運転手は20代〜40代の女性である。アメリカでは「サッカーマム」と呼ばれている。助手席には子どもが乗っている場合もあれば、そうでない場合もある。彼女たちは、学校から帰ってきた子どもたちを、サッカーをはじめとするスポーツ教室、音楽クラブ、各種習い事の会場まで送り届けるために、あるいは迎えに行くために、車を暴走させているのである。学習塾はアメリカには存在しないので、送迎先はあくまでもスポーツやカルチャー関係の教室だ。
 たとえば、子どもがふたりいたらどうなるか。私の夫の継母の娘=つまり夫の継姉のジャネット(40歳)はシングルマザーで、彼女には小学生と中学生の男の子がふたりいる。彼女の午後は車の運転だけで過ぎていく。
「午後3時。下の子が学校からもどってくるでしょ。そうしたらすぐに彼をバンドの練習会場まで車で連れていく。家にもどったら3時半すぎ。やがて4時になる。今度は上の子が学校からもどってくる。そのあとすぐに彼を野球場まで連れていく。家にもどってきたら4時半になってる。5時半には下の子をバンド会場まで迎えにいく。6時半になったら上の子を野球場まで迎えにいく。運転手のあいまに、家事と自分の仕事をやって、夕ご飯をつくり、下の子の宿題をみてやって……バンドと野球以外にも、友だちの家に遊びにい きたいと言われたら、その子のおうちまで車で連れていき、また迎えにいかなくちゃならないの」
 これでは運転中に般若の面になり、暴走しない方がおかしいともいえるだろう。サッカーマムのなかには、スクールバスのバス停と自宅が離れているため、習い事の送り迎えのほかに、スクールバス停と自宅間の送迎を余儀なくされているマムもおおぜいいる。
 公共のバス、電車のまったくないアメリカの田舎。そして、自転車や徒歩で子どもが行き来するには、施設や学校と家の距離があまりにも離れ過ぎているという住宅事情。広〜い敷地に広〜い家と広〜い庭をもち、ゆったりとしたカントリーライフをいとなんでいるように見えるアメリカの田舎の人々ではあるが、思わぬところに車社会の弊害がひそんでいるのである。
 ちなみに、アメリカのカントリーロードでは、スピード違反の取り締まりというようなものはいっさいおこなわれていない。余談ではあるが、バーなどに酒を飲みに出かけるときにも、車を使用しなくてはならないわけだが、飲酒運転(私もいつもやっている)の取り締まりも、このあたりでは一度も見かけたことがない。スピード違反や飲酒運転をいちいち取り締まっていたら、警察官は何人いても足りないだろう。


******************************2002.09*
その3 しつけのゆき届いたアメリカの男


 夫の大学時代の友人が、泊まりがけでうちに遊びにきたときのことだった。  彼の名前はデイビッド。当時33歳。独身。西海岸に住み、コンピュータ関係の仕事をしている。会社の夏休みを利用して東海岸に住んでいる友だちや親戚をたずねる旅の途中で、私たちのところへも立ち寄ってくれたのである。
 空港からレンタカーを運転して、デイビッドはうちまでやってきた。事前に、道順も何も説明していなかったにもかかわらず、彼は地図と番地だけを頼りに、いたってスムーズに、しかも予定していた時刻通りに我が家に到着した。それだけでも、私はけっこう感激していた。なぜなら、それまでうちをたずねてきたゲストの多くは「空港まで迎えにきてほしい」とリクエストしてきたり、自分の車でくるにしても「道に迷った」「高速道路の出口の番号がわからない」「反対方向の高速に乗ってしまった」「3時間ほど遅れそうだ」などとSOSの電話をひっきりなしにかけてきて、そのたびにいつもてんやわんやの騒ぎになっていたからだ。
 デイビッドが到着した夜、私は腕によりをかけて、ふだんはしない料理をつくり、夫と三人で楽しい語らいのひとときを過ごした。翌朝目覚めると、デイビットと夫はすでに起きていて、ふたりで朝食をつくってくれていた。三人でテーブルを囲んで、和気あいあいと食べた。ここでも私は感心してしまったのだが、デイビッドは夕食時も、朝食時も、自分の使った食器類をはじめ、すべてのあとかたづけをきちんとやってのけた。それは子どものころから身についているごく自然な行為のように見えた。「よくしつけられた人なのだな〜」と私は思ったものだった。
 その日、デイビッドは車に乗って、近郊に住んでいる別の友人の家を訪問する予定になっていた。しかし、夕方にはふたたびうちにもどってきて、うちに泊まる。翌日もほぼ同じ予定。つまり、デイビッドはうちに3泊する予定だったのである。
「行ってらっしゃ〜い」
「行ってきま〜す」
「気をつけてね〜」
 玄関先で、夫とふたり、デイビッドを見送った。それから私は雑用をすませたあと、ふと、デイビッドが使用したゲストルームの窓を開けて換気をしておこうと思い立ち、部屋に入った。
「あれっ!」
 と、私は驚いてしまった。きちんと整えられたベッド。枕もシーツもベッドカバーも、まるで昨晩、そこに人が泊まったとは思えないくらいにしわひとつなく、きれいにメイキングされている。さらに不思議なことに、部屋のなかには、デイビッドの持ち物、荷物が何も置かれていない! ゲスト用の洗面所にもやはり、何も置かれていない。歯ブラシも、タオルも、ひげ剃りも……。さらに驚かされたことには、ゴミ箱にゴミすら残されていないではないか。
 私は夫にたずねてみた。
「ねえ、デイビッドの今夜の予定、変更になったんだね?」
 私が話を聞き逃していただけで、デイビッドはおそらく、今夜は予定を変更し、うちではなく別の友人の家に泊まることにしたに違いない。だからあんなに部屋をきれいに片づけて、荷物をまとめて出ていったのだ、と、私はそう思ったのである。
 すると夫は答えた。
「いや、彼は予定通り、ここにもどってくるよ」
 それならいったいどうして、彼はすべての荷物を持って、うちを出て行ったのだろう? 歯ブラシくらい置いていけばいいのに。
 首をかしげる私に、夫は「ふふふ」と笑いながら、デイビッドの秘密を教えてくれた。 夫の話によると、デイビッドは高校を卒業したあと何年間か、軍に入っていたのだという。アメリカでは職業軍人を目指していなくても、デイビッドのように一定期間、軍に入隊する人がけっこういる。その目的は、大学に行くための奨学金を得ること。ちなみに、アメリカには日本人のように100%親のお金で大学に行く人はあまりいなくて、多くの学生は自分でアルバイトをして稼いだお金で、あるいは学生ローンでお金を借りて(夫はこのケース)、あるいはデイビッドのように軍生活を経て奨学金を得たのち、大学に進学するのである。軍の是非はともかくとして、私はこのように自力で大学に進もうとする姿勢はとてもすばらしいと思う。
「軍生活を経験した人はだいたい、自分の身のまわりの整理整頓が異常なまでにきちんと、できるようになるんだよね」と、夫は言った。
「なるほど〜」と、私は納得した。
 デイビッドはその夜、うちにもどってくると荷物をほどいて、うちに泊まった。そして翌朝はふたたび荷物をまとめ、ベッドを整えたあと、車で出かけていった。あとにはちりひとつ、ごみひとつ、髪の毛一本残さないで。


******************************2002.08*
その2 体で稼ぐアメリカの女の子たち


  「援助交際」という言葉を私がはじめて耳にしたのは、たしか1990年代のはじめだった。そのとき私はすでにアメリカに住んでいて、日本から遊びにきてくれた親友が「最近の日本では若い女の子がね……」と教えてくれたのだった。
 その言葉の意味するところを教わったとき、私は「え、援助交際? どうして売春と呼ばないのだろう?」と、シンプルな疑問を抱いたものだった。遊ぶ金ほしさに、あるいは洋服、ブランド物ほしさに、自分の体を売る。というと、あまりに聞こえが悪いため、「援助」という言葉をあてはめたのだろう。どんな言葉をあてはめてみても、やっていることは同じではないか、と思うのは私だけだろうか。
「アメリカにも援助交際ってある?」
 と、友だちにたずねられて、はたと考えてみた。
「やろうと思っても、ここじゃあ、無理だろうね」
 と、当時はそのように答えた記憶がある。
 そのころ私が暮らしていたのは小さな大学町で、大学のキャンパスから一歩外に出ると、牧場と農場とりんご園とぶどう畑しか目に入らないような田舎だったし、今暮らしている町ウッドストックも、森と山と野原と草原にかこまれた、のどかなカントリーサイドである。このような美しい環境のなかではとても援助交際をしよう、という気にはならない(はずだ)。売る方も買う方も。
 けれど、人口密度の高い大都会となれば、話はまた違ってくるだろう。
 映画「タクシードライバー」のなかには、ジョディ・フォスター演じる少女売春婦アイリスが登場しているが、映画のなかにはそのアイリスのモデルとなった現実の少女売春婦も、アイリスの友人役として登場している。彼女は麻薬を買う金ほしさに売春をしていた。
 援助交際にしても買売春にしても、それをやるには町に、家庭に、あるいは人々の目に、死角というものがなくてはならない。死角のない場所、環境のなかでは当然のことながら「人目を忍んで」という行為はできにくくなる。
 アメリカの田舎や郊外の町を散歩していると、ときどき「neighborhood watch」という看板(交通標識程度の大きさ)を掲げたエリアを見かける。ようするに「近所の人々はみんなあなたのすることを見ていますよ」とわざわざ公言しているのである。このことの是非は別として、アメリカの郊外の町には死角がない、ということを読者の方々にイメージしていただけるひとつの例になるかもしれないと思って、書いてみた。
 あともうひとつ、似たような例として、教会の存在がある。アメリカには、マクドナルドのない町はあっても教会のない町はない。どんな小さな町にも、教会だけはある。教会はたいてい町の中心にある。青空に向かって十字架をかざした真っ白な教会に、人々は見守られて暮らしている……そんななかで、援助交際ないしは売買春をするのは、心情的に困難なのではないか、と無宗教の私でさえ思う。

 前置きが長くなったが、豊かな自然に囲まれた美しい環境のなかで、私の出会った「体で稼ぐ少女たち」を紹介しよう。
 昨年の夏、近くの山に登ったときのことだ。
 ウッドストックの町は、キャッツキル山脈と呼ばれる山々に囲まれている。3500フィートから4000フィート級(およそ1000メートル〜1200メートル)の山々だ。日帰りでもじゅうぶんに登れるし、週末や連休になるとマンハッタンをはじめとする都会や遠い町からやってきて、テントをかついで登る人たちも多い。
 ウェストキルという急峻な山を登っているとき、山道の途中で、数人の少女たちに出会った。上半身はスポーツブラ、あるいはタンクトップ、下半身は太股にぴちっとフィットしたショートパンツ、あるいは超ミニのキュロットスカート。つまり肉体の露出度のかなり高いファッションである。これで、ハイヒールかロングブーツを履いていれば、アメリカのプロの売春婦の服装にかぎりなく近くなる。
 だが、彼女たちが持っているのはシャネルのバッグでもなければ、ヴィトンのバッグでもない。ある女の子はツルハシ、ある女の子はシャベルを手に、山の斜面にへばりついている。ある女の子は自分の体よりもでっかい岩石に手をかけて、それを動かそうと気合いを入れているところだ。浅黒く焼けた皮膚に玉のような汗を浮かべて、ある少女は両足を広げて踏んばり、ある少女は「うおりゃー」(これはあくまでも日本語訳であるが)と叫びながら、ある少女は黙々と……。
 どうやら彼女たちは、山崩れを防ぐための水路を切り開いているようだった。
「こんにちは」
 と、私は声をかけてみた。
「ちはー」「ちはー」「ちはー」と、つぎつぎに威勢の良い声が返ってきた。
「ずいぶんきつい仕事をしているのね」
 いったいどうしてまた、このような険しい山のなかで、あなたたちみたいな遊びたい盛りのかわいいティーンエイジャーたちが、このような激しい肉体労働に打ちこんでいるのか、たずねてみた。
 泥だらけになった顔を、腰に巻いていたタオルで拭きながら、サラという名の女の子が答えてくれた。彼女の話によれば、女の子たちはみな、大学一年生か二年生。夏休みのアルバイトとして、この仕事を選んだのだという。期間は約三週間。その間、電気も水道も風呂もない山のなかにテントを張って、キャンプ生活をつづけながらひたすら岩石や土砂と格闘する。
「熱いシャワーを浴びられないのが、ちょっとつらいかな。でも谷川の冷たい水で体をごしごし洗うのも悪くないよ。この仕事? すごく気に入ってる。来年もやるつもり。体も強くなるし、精神も鍛えられるし、お金ももらえるでしょ。まさに一挙三得ってところ」
 土の混じった唾を吐きながら語る、サラのたくましい腕の筋肉、精悍な顔つきに、私はすっかり魅了されてしまっていた。ひと夏が終わればサラは、文学部で哲学を学ぶ女子大生にもどるのである。


******************************2002.07*
その1 説教好きなアメリカの乞食


 ニューヨーク周辺にはJFK国際空港、ニューアーク国際空港のほかに、おもに国内便の離発着に使用されているラ・ガーディア空港がある。これはそのラ・ガーディア空港で出会ったアメリカ人女性のお話。そして世の中に携帯電話が今ほど普及してなかったころのお話である。

 1993年当時、私はマンハッタンから遠く離れたイサカという学園都市で暮らしていた。日本からイサカに行くためには、成田からJFKに飛び、その後バスでJFKからラガーディアまで移動し、そこでイサカ行きの国内便に乗りかえなくてはならない。そのとき私は日本に用事があって一時帰国したのち、ふたたびイサカにもどるため、ラガーディア空港の待合室にいた。
 ストレートな長髪にバンダナ、エスニック調の巻きスカート、70年代ヒッピー風のなりをした40代後半くらいの女性の乞食が、待合室にいる人たちひとりひとりの前に順番に立って、一生懸命話しかけている。足が悪いのか、彼女は杖をついている。人々は彼女を無視したり、熱心に耳を傾けたり、彼女の手にお金を握らせたり、反論を述べたり、さまざまな反応をしていた。
 やがて彼女は私のとなりの人の前に立った。つたない私のヒアリング能力の範囲内でわかったことをまとめると、彼女は環境問題、人口問題をはじめとする現代社会が抱えるさまざまな問題について述べたのち「こうして空港のなかで、物乞いをしながら生きている自分の生き方は反資本主義、反消費主義、反米主義にのっとった正常な生き方である」と主張しているようだった。そうか、アメリカでは乞食にもちゃんと主義主張があり、物乞いをするための大義名分をもっているのだな〜と、妙なところで感心した。
 となりに座っていたビジネスマン風な男はいかにもうんざりした表情で言った。
「で、それがどうかしたのかい?(So what?) 俺と何か関係があるのか?」
 彼女は毅然とした表情で言った。
「馬鹿ね、関係は大ありよ。時間をかけて、自分のやっていることをよーく考えてみなさい。あんたがそうやって体を豚のように太らせ、クソをたれてのうのうと生きている陰で、搾取され、貧困にあえいでいる人々が世界中にはごまんといる、ということよ。ところであなた、電話代くらい持っているでしょ? 飛行機が遅れたら、奥さんに電話しなきゃならないじゃない? でも飛行機は遅れていない。だったらその25セントを私にちょうだいよ」
 男は渋々、財布のなかから25セント玉を取り出して、彼女にわたした。これ以上やっかいなことを言われたくないといった風である。次に彼女は私の前に立ち、まったく同じ話を私にして、私からも25セント玉を受け取った。当時のアメリカではまだ携帯電話は今ほど普及していなかった。電話をかけるためには最低25セント玉が一個必要である。だから「電話代くらい持っているでしょ?」という彼女の決め台詞は、まことに的を得たセールストークであった。
 それから一年ほどが過ぎたある日のことである。  その日も私は成田からJFKへもどり、JFKからバスでラ・ガーディアに移動し、そこでイサカにもどるための飛行機を待っていた。時は十二月。運悪く、イサカは例年の豪雪に見舞われていて、夕方からの国内便はすべて欠航になってしまった。私は翌朝の飛行機に乗るため、空港周辺のモーテルに泊まらなくてはならない。その前に、イサカの空港に迎えにくるつもりにしている夫に電話をかけて、このことを知らせなくてはならない。
 公衆電話の前には長い行列ができていた。並んで順番を待ちながら、私は財布のなかにコインがあるかどうかを調べていた。
 うしろの方から人が近づいてくる気配があって……何やらどこかで聞いたような声、どこかで聞いたような話の内容である。見るとそれは、一年ほど前にここで商売をしていた、かの説教乞食ではないか。
 やがて彼女は私のそばにきた。そして一年前とまったく同じ主張を述べて、
「あなた、電話をかけるために並んでいるのだから、電話代くらい持っているでしょ」と、言った。
 じつはそのとき、私は非常にあせっていた。財布のなかにはイサカに電話をかけられるだけのコインがなかったのである。それなのに乞食は「電話代をよこせ」としつこい。
 怒りをふくんだ声で、私は彼女に言った。
「私は今、電話代が足りなくて困ってるんです! あなたにあげられるコインなんてありませんよ!」と。
 すると彼女はにっこり笑って、こう言ったのである。
「わかったわ。じゃあ、これを使いなさい」
 彼女はスカートのポケットをまさぐって25セント玉を何個か取り出すと、私の手のひらに握らせてくれた。
 アメリカ人は総じて他人に対して親切で、人助けをするのがとても好きな国民である。なかには大きなお世話と言いたくなるような親切もあるけれど、それでもその日、私は乞食から施された親切によって、無事、夫に連絡することができたのだった。
 あれから十年。あっというまに携帯電話が普及した現在、彼女はどんな営業を展開しているのだろうか? もしもふたたび彼女に出会うことがあったなら、2001年に起こった911(アメリカではテロ事件のことをナイン・イレブンと呼んでいる)について、彼女の意見をたずねてみたいものだと思っている。

**********************************
コラムのTOP PAGEへ
「バックナンバー2」へ戻る