******************************2006.1* その35 マプートの年越し 年の瀬の12月21日に突発の仕事が入り、またもや北のキリマネまで1泊4日の強行走行をしてきた。往復3,400kmを、ホテルに1泊しただけで、寝ずに走った。交代の運転手はいたが、夜間、雨が降り続け、道が泥ですべるので、とても任せられず、ほとんど運転していた。 雨季の到来が早く、北へ北へと向っていくと、周りが見事な新緑だった。モザンビークはアフリカ大陸の南東に位置していて、他の国より樹木が多く緑の多い国だが、これほどまでの新緑を見たのは初めてだった。緑の色も、ちょうど初夏の北海道の緑に近かった。 毎年、クリスマスが近づくと、南アフリカへ出稼ぎに行っていた人々が里帰りする時期で、たくさんの大型バスとすれ違った。これがまた凄まじいスピードで、道の良いところではゆうに120kmは出して走る。屋根にまで沢山の荷物を乗せ、カーブでは倒れるのではないかと思うほど傾く。乗っている乗客はたまったものではないだろう。 行く時はたいした事故も見なかったが、帰り道では凄まじい事故跡ばかりが目立った。乗用車が半分にちぎれているのや、大型バスが路肩から転落し炎上しているのやら、どうすれば、そんな事故になるのかと不思議な事故もあった。 その日は23日で、首都近辺から北へ里帰りする人が多く、長い休暇が続くこともあって、皆、浮かれて運転しているのだ。カセットデッキの音楽をボリュームいっぱい上げ、ビールを飲みながら運転しているのがほとんどで、事故が起きない方が不思議だ。 当地の正月は、山羊料理で祝うのが一般的で、この時期、地方から首都マプートへの山羊の出荷が多くなる。生きた山羊を買って、各家庭でさばくのである。 同行した運転手が、マプートで買うより安いので山羊を買って帰ると言い出した。車はハッチバックタイプなので、後部に乗せて帰ると言うのだ。殺して食べてしまう山羊が、長い道中、後ろで「めーえめーえー」となくのには耐えられないので、「ここでの値段とマプートで買う差額を俺が出すからやめてくれ」と頼みなんとか納得してもらった。 ところが、マプートへ向い夜中に走っていると、真っ暗な前方に何かがいるのが遠くから見える。近づくと山羊が道の真ん中で座っている。車から降りてみると足が折れて痛々しい。たぶん輸送車から振り落とされたのだろう。大型トラックは、荷物を満載し、その上に生きた山羊を沢山乗せて猛スピードで走るから、中には振り落とされるのもいる。以前もすれ違ったバスの屋根から山羊が降ってきてびっくりしたことがあった。 同行の運転手は、素早く車のバックドアーを開け、山羊を運び込もうとする。「たのむ、やめてくれ。俺、そういうのは駄目だから」と言い山羊を道端へ運びその場を離れた。 運転手は「どっちにしても、野犬に食われるか誰かに持っていかれるのに」と恨めしげである。 ところが、これが始まりで、夜明けまでに4度同じ場面に出くわした。あちこちに山羊が落ちていたのである。その度に「やめろ」と「もったいない」の繰り返しだった。 暮れの30日、我が家で餅つき会をやることになり、前日から準備に大童だった。モチ米を15kgほど研いで水につけておき、臼と杵はきれいに洗い、臼に少し水を入れておいた。準備だけで、ぐったりと疲れてしまった。 餅つき当日は、日本から来ている海外青年協力隊の連中が6名ほど来て、わいわいがやがやと餅つきを始めた。しかし、モチ米を蒸すのに時間がかかり過ぎ、どうやっても、うまく蒸せない。仕方ないので電気釜でモチ米を炊き、それを搗いたら、柔ら過ぎて、なんともだらしのない餅が出来上がった。それでも、餅だ餅だと大騒ぎをして結構楽しかった。 現在、モザンビークには33名の海外青年協力隊員が派遣されていて、それぞれの分野で国際協力に従事している。この2年間で、これだけ多くの隊員が派遣されることは、当国が落ち着いてきた証拠で、4月には新規隊員が10名ほど派遣されるそうだ。 皆いちおうに日本でポルトガル語の研修を受け、当地でも語学研修を受けるのだが、来て2ヵ月目の隊員に、私の会話力は追い越されてしまう。なんとも情けない話である。 餅つきの時に、我が家のメイドに指示をしていたら「それで通じているのですか?」と聞かれてしまい、「そうだよ、要は気合だよ、気合!」と訳の分からない事を言ってごまかしたが、今年は少し会話の勉強をやり直そうと思っている。 家に居るときは、息子とほとんど日本語で話している。息子の日本語は函館なまりが混じるほど上達していくが、私のポル語は低下していくだけ。 31日は、息子が出稼ぎ先のスワジランドから久々に戻ってきた母親に会いに行ったので、犬の菊ちゃんと猫とで年を越した。 新年1日には、正月料理ということで菊ちゃんにはボーンステーキ、猫には尾頭付きのイワシ3匹。後は絵に描いたような寝正月を過ごした。 3日は仕事始め、張り切って会社に行くと、5名いる男性社員のうち3名が顔や頭に白い包帯や絆創膏を貼っている。 「どうした?」と聞くと、年末に盛り場で喧嘩に巻き込まれケガをしたそうで、1人は顔とおでこに深い傷を負い、まるでフランケンシュタインのように縫ってある。 「当社は客商売で、戦闘員を雇っているのじゃない!」と怒鳴ってみたが、何とも反応が鈍い。 今年もこんなのを引っ張って行かなければならないのかと思うと疲れる。 ******************************2005.12* その34 飛行機の旅 11月18日に私の母が他界した。96歳の大往生で、特に悲しいと言う感情はわかなかった。というわけで、10日間ばかり日本へ行ってきた。 危篤の知らせを受けてからも、仕事の段取りなどもあり、当地を発つまでに4日もかかり、日本へ着いた時には初七日だった。なんとも間抜けな話だが、これも遠い外国の僻地に住んでいる定めなのだろう。 当地マプートから車で南アフリカのヨハネスブルグまで行き、1泊し翌日の飛行機で香港まで行き、そこで札幌行きの直行便に乗り換え札幌空港着と、時間にして約22時間かかるわけである。 今回はヨハネスブルグの空港から香港行きの飛行機の中で、ちょっとした揉め事を起こしてしまった。ヨハネス−香港は約13時間のフライトで、疲れるので、いつも一番後ろの窓側を取ることに決めている。 搭乗時刻になり、順番に乗り込むと、前方から強烈なニンニク臭がただよって来た。内心「側に座らなければいいが」と思っていたのが的中して、何と私の隣の席にニンニク男が座ってしまった。 この先13時間この強烈な臭いを嗅ぎ続けるのかと思うと、それだけで気が遠くなるようで「何とかしなければ」の一心で出来ない英語でスッチーを呼び、 「隣の人の異臭は我慢できない。何とかしてくれ」とたどたどしく言うと、日本人のスッチーを呼んでくれた。 こうなれば、しめたものでその日本人のスッチーに 「隣の人もこの席に座る権利はあるだろうが、世間一般の常識をわきまえていない」と話すとスッチーは「分かりました」と言いニンニク男へ顔を半分そむけながらも優しく席を変えるようにお願いしたところ、男はがんとして聞かない構えである。 ところが前の席に座っていた人、2人が私と同じ思いで「どこかへ連れて行け」みたいな事を言い出し、揉め始めた挙げ句、ニンニク男は前方の空いている席へ連行された。 以前にも隣に超肥満体の白人が座り、暑苦しいのと身動きが出来ないのでスッチーに苦情を言ったら、すんなりと席を変えてくれたことがある。 ここで長距離飛行機に乗るときの裏技をお教えしよう。私がなぜ一番後ろの窓側を指定するのかと言うと、飛行機は構造上後ろの方は湾曲しており、座席と壁の間が普通より間隔が広くなっているからである。その分、体が楽になる。 それと、これが肝心なのだが、金の無い私はいつもエコノミークラスしか乗れない。ところが、エコノミークラスが満席でビジネスクラスが空いている時がある。航空会社は少しでも多くの人を乗せようとする。するとエコノミーにいるお客をビジネスクラスに移してでも乗せる。その場合は、エコノミークラスの一番後ろの客から順番にビジネスクラスへ乗り込ませるのである。私の憶測だが、航空会社の職員も人の子である、真ん中から席を変えるような面倒な事はしない。 私はこの手で4回ほどエコノミークラス料金でビジネスクラスに乗ったことがある。 それと、まったく横になって寝れる席もある。最後部の窓側の席は2席だが、中央は4列の席になっている。飛行機が滑走路へ動き出した時に中央席の4席が空いていると、素早く中央の席へ移動するのである。これは乗客全員が狙っている席だが、人間自分より前方に気を取られ後ろは余り気がつかない。最後尾の席にいると、空いている席がよく分かるのである。 4席を独り占めできるので、肘掛を全部上に上げ、ゆったりと横になり、機内食の時に出るビールやワインをガンガン飲んで、後はゆったりと寝てしまう。これが何度か日本を往復するうちに得た裏技である。 どんなに、ゆったり寝ていてもやはり乗り換えの待機時間を入れると、当地から日本のどの空港へ着くにも約22・3時間はかかるので、日本へ着いた時にはげっそりとしてしまう。時差ぼけも直ぐには出ず、2・3日経ってから出てくる。当地と日本の時差は7時間あり、日本の方が7時間早い。最近、地方へあまり出張しないので国内航空には乗る回数が減ったが、国内便に乗るたびに「大丈夫かいな」と思う。 以前、南アフリカからモザンビーク航空の飛行機で当地へ戻る時に、飛行機へ乗り込むためタラップを上っていて、ふと見るとタイヤがパンクしているではないか。席に座ってからスッチーに「タイヤがパンクしているよ」と言うと「大丈夫ですキャプテンは知ってます」との返事。 その後、乗客を乗せたまま延々と3時間掛けてタイヤ交換を始めた。窓の外を見ると消防車が4台待機している。乗せる前にやればいいものを…。 最近はモザンビーク航空も客の苦情のせいか、スッチーが可愛いとは言えないまでも、普通の女の子に変わった。以前は、タラップを上ると気の弱い人なら一瞬心臓が止まるほど、もの凄いスッチーが立っていた。笑顔を作ると不気味さが増す。化粧がまた凄いので、私は彼女達を「ハクション大魔王」と命名していたが、他の日本人は「歌舞伎」と命名していたようである。 ここだけの話だが、10名ほどの日本人と一緒に国内便に乗った時に出た機内食(ハンバーガーとジュース)、これを食べて食中毒にかかってしまった人がいた。私は国内線の機内食には手を付けないことにしていたので大丈夫だった。 しかし、こんな事が起こっても何も問題にならない。航空会社へ苦情を言いに行った人の話だと「機内食を食べて食中毒になった! どうしてくれるのだ?」と詰め寄ると「どなたがですか?」「私がかかった」「今は大丈夫なのですか?」「病院へ行ったので、もう直った」 すると航空会社の職員が「それは良かった、大事に至らなくて」と言い、話はそこで終わりになってしまった。模範的なモザンビーク人の答えだと感心してしまった。 ******************************2005.11* その33 料理 例年なら一年で一番暑くなる11月だが、なんとも変な天候が続いている。2日間くらい40度近くまで気温が上がったら次の日から3日間雨模様の日が続く、まったく体調に悪い天候である。帯状疱疹は、痛みがとれないまま神経痛として残ってしまい完治はいつになるやら見当もつかない状態である。 先日のテレビ出演と放送後の騒ぎがやっと落ち着いてきて、少しほっとしている。知人が日本から当地へ来る際に放映を録画したDVDを持って来てくれたので、息子とそれを見た。長い時間、撮影したのが、けっこう短くなっていて編集するのが大変だったろうと想像した。 それにしても、何もないところから企画、撮影し、その後、編集して音楽を入れ、ナレーションを入れていく。スポンサーの意向もあるだろうし、いやはや大変な仕事だと実感してしまった。それに自分が出ている番組を見るほど奇妙なものはないと感じた。息子は無邪気に面白がっているが、自分としては恥ずかしいの一言。 番組終了後、沢山の方々から番組を見たとのメールを頂き、有り難い事だと感謝している。制作放送した読売テレビのプロデュサーからも連絡があり、「高視聴率で反響もたくさんあり大成功でした」と言われほっとした。ただ、私の本のことが少ししか紹介されず、ちょっぴり不満だった。 また変な連絡もあった。テレビ局で私の住所、電話番号、メールアドレスを教えてもらえなかったらしく、国会議員経由、外務省、当地の日本大使館とリレーされ連絡が来た。 大使館からの連絡となれば、お上に弱い民間人としては無視もできず、恐る恐る連絡したところ、よく分からない団体で「モザンビークのために役に立つ事をしたい」とのことであった。この手の連絡は以前からたくさんあったが、全部「私には出来かねます」と逃げていた。しかし、議員・大使館経由なので、黙って話を聞いていると「お金は一億でも二億でも出す」と言う。「当社は明日の100円よりも今日の10円で生活してます」という言葉が喉から出そうになったが、必死で堪え「何か探してみます」と答えておいた。 このところ休日に雨の降る日が多く、何もすることがないので料理に凝っている。9月のテレビロケで日本に戻った時に食材をいろいろ買い込んで戻ったので挑戦している。一番出来がいいのが納豆。これは自分で言うのも変だが絶品。納豆は以前から当地の大豆で作っていたが、どうにもいま一だった。ところが、日本から持ち帰った大豆で作ると、断然良い物ができた。 二番目がおはぎ。これも小豆ともち米は日本の物。作り方は、幼い頃、母親の作るのを側で見ていたのでうっすらと覚えていたが、小豆の煮方が分からず、日本の姉に電話で聞き挑戦してみた。出来上がりを知り合いの日本人の方々へおすそ分けしたら、尊敬の眼差しを受けてしまった。ちなみに息子は納豆は食べるが、おはぎは食べない。相棒のベンビンダも長年、日本にいたが、おはぎ、大福など、豆を甘く煮たのは食べられないそうだ。息子も同じで豆の甘いのは駄目、当地の人はほとんどが豆は準主食で、それに砂糖を入れるのは米を砂糖の入った水で炊くようなものなのだろう。 三番目は串団子、これも団子の粉を使い作ってみたが、けこうな出来ばえで、みたらしをかけて食べると小さい頃を思い出してしまう。 どれもこれも手間が掛かり時間の経つのも忘れて没頭できるので、ストレス解消には持ってこい。日本で何事もなく結婚生活を営んでいた時には、料理なぞしたことはなく、靴下さえ自分で履いたこともなかった。こう書くと横暴な男と思われるが、そうではなく、それだけ以前の奥さんが出来た人だったという意味。今でも我が家の食事の味は、母親ではなく、以前の奥さんが作ってくれた料理や味になる。 余談だが、テレビ放送の中で日本の息子が「母に対してきっちり責任を取って欲しい」と言われた時には、正直言って、あせってしまった。20年経ってから自分の子供に言われると、どっきりするものだ。 ここ数年、なんとか生活できるようになって、食事はほとんどが日本食もどきを作っている。その前は、現地食でとうもろこしの粉を料理して野菜のカレーを掛けて食べていた。人間贅沢なもので、今ではまずくて食べられない。 本日の夕食は特製牛タンシチュー。「息子に美味しいか?」と聞くと「ものすげーうまい」と答えるから、「今度から、シェフと呼べ」ときつく言い渡した後、人と会う用事があったので出かけて、1時間ほどして戻ると私の食べる分がない。 「俺の分はどうした?」「あれー、外で食べてくると思ったから全部食べちゃった、やっぱりシェフのは美味しい」と言い訳ともお世辞ともつかないことを言いやがる。 腹が立ったので「三人前も食べていると、そのうちにデブになるぞ」と脅かしてやった。食べ盛りの年頃で、いつも「腹減った! 腹減った!」と騒いでいる。 まだ早いが、今年の暮れに、もし当地で年を越すとしたら正月用の餅を我が家で搗こうかと思っている。臼と杵は以前95年に撤退した日本の自衛隊が持って来たものが、我が家に大事に保管してあるので問題ない。でも、その前にクリスマスの小遣いとボーナスを従業員共に支払う事が先に来るので、それを考えると暗くなってしまう。 ******************************2005.10* その32 アリスの死 アリスが死んだ 3日前、古い女の友人が会社へ悪い知らせをもって来た。アリスが死んだ、享年32歳。彼女には娘が一人いて、もう13歳になっていた。最初に見たのは娘が3・4歳の頃だった。イタリア人の恋人との間にできた、とても可愛い娘で、それは今も変らない。 1994年、私がこの地へ迷い込んだ時期、各国の軍隊がPKOで当地へ駐屯していた。 アリスが以前、恋人と一緒に撮った写真を見せてくれたことがあった。そこには軍服姿の男と嬉しそうな彼女が写っていた。彼女の大事な大事な宝物だったのだろう。 だが、PKOの任期が終わると彼は妻や子供が待つ故郷へと帰ってしまった。 残された彼女は「すぐに戻って来る」という言葉が嘘と知りながらも恋人を想い、そして娘を産んだ。彼女と知り合ってからもう10年近くも経ってしまっている。粗末な棺に寝ていた彼女は昔と変らず優しい顔をして花に囲まれていた。彼女の顔を見た瞬間に自分でも恥ずかしくなるほどの涙が棺に落ちた。周りにいた古い女の友人達が私の姿を見てたまらず、大きな声で泣き出してしまった。 葬儀が終わり、友人達に「これから、俺の家へ行って飲もう」と誘い、ビールやウィスキーを持てるだけ買い込み、会社には「本日、俺は午後から休み。もしかしたら明日も休みになるかも」と不機嫌な声で電話を掛け家へ戻った。 彼女達は口々に「へぇーアキオ、随分いい家に住むようになったね」と昔を知っているだけに軽口をたたく。総勢、5名の女性と昼から大宴会を始めた。 「アキオ、ポル語がちっとも上達してない」とか好き勝手なことを言われてしまう。でも返す言葉がない。アリスを含めこの連中には頭が上がらない。日本語で言うと彼女達の以前の仕事は全員が娼婦だった。仕事が何をやってもうまくいかず、夜な夜ないかがわしい所で安酒を飲んで気晴らしをしていた頃の友人と言った方がいいだろう。一文無しになって、食い物にも困っていた時に、何度も部屋に押しかけて来ては食事を作ってくれた連中だ。 ただ、暗黙の決まり事があって、私はこの連中とたとえ雑魚寝をしても個人的には寝ない、彼女達も私の部屋の物を盗まない。もっとも、あの当時は部屋に盗まれるような物は何もなかったが、夜中の2時3時に仕事にあぶれたのが来るのには疲れた。 話を聞くと全員が結婚もしくは男と同棲していて、それなりの生活をしているとのことで何となく安心した。 結婚している彼女達のほとんどが白人の爺様だ。「歳は幾つくらいなのだ?」と聞くと、60は過ぎていると言う。 「へぇーそれで、金は持ってるの?」 それぞれ顔を見合わせ「まぁー困らない程度には持っているでも、凄いケチだよ」 昼間の酒は効きが早く、夕方には全員レロレロの酔っ払いになってしまった。そのうちに「アキオ、知ってるかい。アリスはね、あんたが好きだったんだよ」 その言葉が辛かった、それは分かっていた。でも、恥を話すと、その当時、性悪女に惚れてしまい、回りが「あれは、止めた方がいい」と何度も言われていたのに、あばたもえくぼで聞く耳を持たなかった。 そのうち会社に出掛けている時に、家にあった全部の金と全家財道具を持って逃げられてしまった。近所の人は引越しだと思ったと言っていた。男が一緒に来て愛想よく荷物を運び出していたとのことだった。 夜、部屋に戻って電気を点けたら、なーにも無くなっていた。それでも部屋を間違えたかな、とか思った私は今思い出してもアホの一言に尽きる。 そんな時アリスが、うす汚い電気コンロと鍋を持って来て飯を作ってくれたことがあった。いつも明るく、大きな口を開けゲラゲラと笑っていたアリス。ここ数年逢っていなかったが、男と同棲していると聞いていた。だが、葬儀にはそれらしき人はいなかった。 「アリスの旦那はいなかったの?」と聞くと「逃げたのよ」と一人が答えた。 「そんな、バカな! なんで自分の恋人が死んだのに逃げるんだ!?」 「病院に入院した時にすでにいなくなっていた」 たぶん、国に妻子がいる人なのだろう。面倒なことに巻き込まれ、勤め先や国の妻にバレることを恐れての行動だろう。 「入院の費用や葬儀の費用は誰が作ったの?」とアリスと一番親しかった友人に聞いたら。 「彼女の母親」 それを聞いて血圧が上がり、酔っていたせいもあるが「俺がふんだくってやる。その後で、国の奥さんや勤め先に全部バラしてやる!」と宣言した。国籍や勤め先を調べるのは簡単だし同棲していた事実は周りが知っている。このままではアリスも浮ばれないだろう。人種差別の典型である。 たいてい国連関係の人間にこのタイプが多い。勤め先や家族にバラす前にやっぱり、二・三発は殴ってやりたいのが本音で事件になっても構わないと思う。 この国に来てからよく見ることだが、白人の大多数は黒人を軽視する。特に男女関係になるとそれがハッキリと出る。私の知っている当地の女性が国に妻子がいる国連関係の男と同棲していた。その男が任期を終え帰国することになり女性と別れることになった。その男の取った行動には呆れ返ってしまった。彼の交代で来た男性に押付けてしまったのだ。彼女は男2人と話し合いをして、結局次の男と生活することにした。貧しいがゆえの選択である。相手が白人の女性であれば、彼らもこんな図々しい行動は取らないはずだ。 その時に思ったものだ「なにが国連勤務だ、馬鹿野郎」と。 ********************************** 「バックナンバー5」へ 「バックナンバー6」へ戻る |