******************************2005.3* その25 交通事故 このところ、ほんの少し秋風らしいものがそよぎ始めたマプートである。まだ日中は30°Cを超えるが、これから少しずつ涼しい季節になっていく。 仕事が忙しく、今日はマプート、明日は往復500km北のシャイシャイの町へ、そこから戻ると今度は往復1,200kmの南アフリカのジョハネスブルグへと一週間のうち3日は車で移動している。車で移動の間も携帯電話は鳴りっぱなしで、全くなにをしている分からなくなる。 しかし、どの仕事もたいして収益にはならず貧乏暮らしに変わりはない。商売下手の見本みたいだ。仕事に熱中すること自体は嫌いではなく団塊の世代丸出しである。家庭も顧みず寂しい思いをさせている息子や犬の菊ちゃんや猫には申し訳なく思っている。 本来ならば、女房や子供に申し訳ないとなるのだろうが、私の場合は家族が犬や猫それと養子なので気が凄く楽である。独身冥利に尽きると強がってはいるが、せめて仕事の愚痴を聞いてくれたり、疲れを癒してくれるのは、犬の菊ちゃんではなく女性の方がいいなーと思ったりもする。 以前にも書いたが、モザンビークでは異常な勢いで車が増えている。それに伴い交通事故が多発し、毎日街中で事故の跡を見る。交通事故が起きるのは当然で免許取得者の三分の二は、試験に受かってはいない。ほとんどが免許を買っているのである。 市内に自動車学校が10ヵ所ほどあるが、教え方が滅茶苦茶である。いきなり路上教習から始め、教える教官も酔っ払って教習車に乗って指導していたりする。 多少車を動かせるようになると生徒は教官に金を払い繰り上げで免許を貰ってしまう。交通法規の授業もあるが、せいぜい交通標識くらい分かればよく、日本のように細かい事までは教えない。とにかく車を走らせればいいのである。 たとえ交通違反で捕まっても警官に小遣いをあげて終わり、実にシンプルである。交差点での事故はどれも凄まじい。直進車が優先ということも分からない人ばかりなので、右折車に直進車が激突する事故が頻繁に起きている。信号のある交差点でも事情は変わらない。信号が青になったからといって直ぐに発進することは危険極まりない。赤信号でも平気で突っ込んでくる車が跡を絶たない。信号が青になったら、まず左右確認して一呼吸置いてから発進する、こうしないと必ず事故に巻き込まれてしまう。 事故の場合、相手に100%非があったとしても車の修理代や治療費などを弁償してもらえることはまずない。ほとんど保険には入っていないのである。したがって、自己防衛の運転しかない。 さらに一般の車よりたちが悪いのは市民の足のミニバスである。ほとんど日本の中古車でハイエースやキャラバンなどのバンである。日本では貨物車として利用されていた車だが、これに椅子を取り付け15名ほど乗れるミニバスとして営業している。 このミニバスは満杯の客を乗せ、平気で信号無視をし、市内でも100kmくらいのスピードで追い越しをするので危険極まりない。 我社でも以前は年間100台ほどのミニバスを販売していたが、2年前から販売を止めた。ミニバスの事故が余りにも多く、販売した車両の無残な姿を見るのが辛いのと、乗客が多数犠牲になってしまうことが耐えられないからである。 履歴書の一行に「観光バス会社役員件運行管理者」と記載できる者としては、この国のバス事業は一体どうなっているのだ!行政は何をしているのだ!乗客を何と思っているのだ!と怒鳴りたくなる。ミニバスの運転手がビール瓶を片手に運転していても乗客は何も文句は言わない。客が悪いのか、運転手が悪いのか分からなくなってくる。ましてや取り締まる立場の交通警察官にとっては、ミニバスの運転手が違反や無謀な運転をした方が私腹が肥えるわけで、交通事故の歯止めになるはずがない。 ほとんどのミニバスの車体には、以前日本で使用していた会社名がそのまま書かれていて「〇〇工務店」「△△保育園」「□□酒店」と住所・電話番号まで明記してある。前の持ち主が見たらきっと嘆くことだろう。 我が家の息子には絶対にミニバスには乗るなと厳命してある。子供から見るとフルスピードで市内を走り回るミニバスは格好良く、それに乗ってキャーキャーと騒ぎたいのだろうが、一歩間違えば大事故になるとまでは考えない。たいてい一度のミニバス事故では、少なくとも死者が3名、重傷者3名、その他軽傷者が出る。営業バスは乗客に対する保険に強制的に加入しているものだが、この国では強制加入の制度はなく、したがって事故に巻き込まれた乗客は、死亡しても怪我をしても何の補償もされない。 バスの所有者や運転手にどんなに掛け合っても「だって、お金がないんだもの」と言われてしまえばそれで終わり、なんら責任はないことになる。 新しい大統領になり、それなりの政治改革が実行されるのかと期待はしているのだが、今のところ、きな臭い話しか聞こえてこない。途上国はどこでも同じだろうが、上級役人のポストは大統領の身内や親戚で占められる。能力など関係ない。当国も例外ではなく、前の大統領の身内が沢山役人についている。今回、大統領が代わったので、彼らはいつ首が飛ぶか戦々恐々としている。10年以上にわたり私腹を肥やしてきた者とすれば、簡単には自分のポストを渡したくないだろうし、新大統領の身内は、今度は自分たちの番だと目をぎらつかせているので、色々と物騒な噂がたえない。 こういう話は途上国だけではなく、日本も似たようなものである。政治家の世襲がいい見本である。どんなにボンクラでも、鼻を垂らした姉ちゃんでも父親が議員だったらその後を継いで議員になっちゃう、選ぶのは国民である。と考えるとモザンビーク国民も日本国民もたいした変わりはないのかもしれない。 ******************************2005.2* その24 夏真っ盛り 以前当地の泥棒から買ったパソコンがついに壊れたため、前回のコラムはなんとも時期はずれのものとなってしまった。今回こそはと大枚をはたいて日本からパソコンを取り寄せ、このコラムを書いている。 新品のパソコンは今回が初めてで、なんと使いやすいこと。こんなことならもっと早く買えば良かったと、今さらながら自分のケチさ加減を後悔している。ただ最新式のパソコンだが付属の機能はほとんど使わない。分からなくなると困るので必要な機能以外は触らないようにしている。 1月後半から、俄然忙しくなり、毎日怒鳴りまくりの日が続いている。来月はもちろん来週のこともどうなるか分からない国なので、取り込める時にはとにかく全部取り込んでしまう習慣がついてしまった。 従業員はたくさんいるが、一人ひとりの仕事内容を全部把握しておいて、それに対する指示を一人ひとり出さなければ従業員は動かない。要するに、当地の人達は自分の意思で動くということが苦手なのである。と言う事で色々と記憶していなければならず脳の老化を防ぐのには調度良いと思っている。 それにしても暑い日が続いて、連日35度は気温が上がり冷房を効かした事務所から一歩出ると暑さでくらっとなる。表に止めてある車のドアを開けるのが恐怖で、乗り込むとたまった熱気で汗がどっと出てくる。エアコンをかけてもなかなか車内は涼しくならず、そのうちに目的地に着いてしまう。 昼日中、車で街を走って歩行者を見ていると、実にうまく日陰をたどりながら歩いているのが分かる。あの歩き方には感心してしまう。車の場合も同様で、信号のある交差点の横に街路樹があればその木陰に止めてしまう。たとえ交差点から10mも手前でも日陰があれば信号待ちの体勢で停めるので迷惑このうえない。 当地の労働時間帯は、朝8時から昼12時まで、午後2時から5時までとなっているが、官庁および銀行は午前8時から午後3時まで、昼の休憩はない。日本と比べると実働時間が短いので、いくら暑い日でも短時間で外回りの仕事をこなさなければならない。官庁は時間がかかるのはまだ許せるが、銀行の杜撰さには毎度のことながら血圧が上がる。 たとえば、受け取り小切手を銀行経由で取り立てに出すと、早くても十日はかかる。先日もドルの受け取り小切手を現金化しようと当国で一番大きな銀行へ行くと窓口で一時間も待たされた挙句に「ドルの現金がないので来週来てください」と信じられない返事。 翌週、指定された曜日に銀行へ行くとまた一時間ほど待たされ「ドルの現金がない」と言う。こういう時には、奥の手を使わなければならない。最近はおとなしくしているのであまり使いたくなかったが、時間がないので仕方なくやってしまった。 銀行内はたくさんの客がいるが静まりかえっている。 やおら大きな声で「どうして現金がない?」「無いのです」「ここは銀行だな?」「はい、銀行です」「客から預かっている金を出そうとしているのに現金がないのは、お前が使ってしまったのか?」「いいえ、私は知りません」「だったら、責任者を呼んで来い!」と、ここまでは周りがびっくりするほどの大声で怒鳴りまくる。 すぐに奥から責任者らしき人が出てくる。 「先週、現金を取りに来たら来週と言われ、今日来たら、また現金がないと言うがどうなっているのだ?」と静かに聞く。「ないのです」「どうして現金がないのだ?」「ないのです」と、あほな返事しか返ってこない。 こうなったら、もう仕方がなく大声で「この銀行は泥棒か! 人の金をないないと言って、その金をどこにやった!」と喚く。 こんなことをやっている自分が泣きたくなるほど情けなくなるが真剣に怒鳴りまくる。横で当社の秘書が私を止めようと演技する。 「納得いかない」とか言い、10分くらい頑張ると「何とか致します」の返事が出る。怒鳴りまくってから30分後、小切手の額面どおりの現金を受け取ることができた。 銀行を出て秘書と顔を見合わせ汗を拭きながら「上手くいったな」と言い会社に戻る。 日本では現金をおろしに行って銀行が現金はないなどと言ったら取り立て騒ぎのパニックが起こるだろうが、当国の人達はおとなしく言うことを聞いてしまう。 誤解のないように断っておくが、けっして銀行を脅してはしていない。口座に残金があるのに現金がないという理由を聞いたのに、ないというので問い質しただけである。 普段、市中ではドルが不足することなく流通しているのに、一番大きな銀行に限りいつもドルがないと言い出す。ドルが中心の商売なので、交換レートにはいつも気を使っていなければならない。さらに、一度に4ヵ国の交換レートを暗算しなければならない。ドル、メディカル、ランド(南アフリカ通貨)、日本円、ユーロである。この暗算には自信があり間違ったことはほとんどない、密かな自慢だ。 話は飛ぶが最近、我が家の息子は当地の日本大使が主催する剣道場に通い出し剣道に夢中である。何事にも集中力のなかった息子にしてみると、今度ばかりは集中しているようだ。大使の尽力で剣道の防具、竹刀も日本から取り寄せてあり、当地の人も10名ほど習いに来ていて本格的な道場となっている。 息子は始めて間もないので、防具は必要なく竹刀だけで初歩の稽古をしている。私も息子と同じ年頃に父親に強制的に剣道場に通わされたので、少しはできる。そこで、息子が道場から帰ってくると「今日のおさらい」とか言って息子を相手に稽古をつけ、ついでに2・3発、面をおもっきり叩いてやる。これがまた楽しいのだ。いつの日か自分が息子に打ちの目される日が来るのだろうか。 ******************************2005.1* その23 年の瀬のマプートから 本日12月30日、振り返ってみると、なーんにも変わらない一年でした。 ひたすら、赤字の会社を一人で支え、ぼやーとしている社員を食べさせるのに奔走して過ぎてしまった。家に戻り、犬の菊ちゃんを抱きビールを飲みながら一日の愚痴を聞いてもらうのが日課となってしまい、愚痴を聞かされる菊ちゃんもたまったものではない。端から見るとすんげー爺に見えることだろう。 先日、日本から友人が来て話しが弾み、レストラン兼バーで遅くまで飲んでいた。 そこで、白人の酔っ払いにからまれ、えらい目にあってしまった、ちょっと前まであれば「なめられて、たまるか!」の勢いで確実に乱闘になったろうが人間が丸くなったというか、気力が落ちたというか、何とか相手を下手なポル語で説き伏せその場をしのいだ。そのうえ、夜の世界にもとんとご無沙汰している。 体力が衰え始め、これではいかんと思いジョギングを始めてみた。最近、ジョギング人口がマプートでもすごく増え、近所のジョギングコースを朝の五時頃から人々が走り始める。以前であれば朝早くから街中を走っているのは盗人と決っていたのだが、最近は変わった。走っているのはほとんどが肥満体の人で、中には「そりゃー無理だ、膝が壊れてしまう」と思われるほどの人や「小錦に勝てる」ような人もいる。 特に南アの白人は体格がいいのを通り越して「どうしてそんなに太れるのだ」という人や「完全に病院行き」というような肥満が多い。 ということで始めたが百メートルも走ったら息が上がり心臓がバタバタし、そのまま家に戻った。その挙げ句「ジョギングは身体によくない」と自分勝手に言訳をして止めてしまった。 そのくせ、息子には「家でゴロゴロしていないで、何か運動を始めな。バカが運動もできないと、よけいにバカになるよ」とか偉そうなことを言う。 今年の夏に入院して以来、健康に心がけているのだが、やることなすことすべて健康によくないことばかりである。医者に絶対禁煙と言われたが、元に戻り一日40本は吸っている。 一方、酒の量は増えず、以前より減った。元来、酒は飲めず、30歳を過ぎる頃から仕事のストレスを紛らわすために飲み始めたにすぎない。土曜や日曜はほとんど一人で家にいて何も考えず、ぼやーとしていることが多い。そんな時はタバコの数も激減し日に10本くらいですむ。それくらい仕事中はイライラしたり、怒ったりの連続でストレスが溜まっている。 それにしても今年は忍の一字で乗り越えたと思う。運のせいにはしたくないのだが、どうしてこんなに次々とトラブルが押し寄せて来るのだろう。もし神様がいるなら丁重にお尋ねしたいものだ。どんな理不尽なことも自分のせいだと言い聞かせ、何が起きても落ち着くようにしているが、落ち着いていられないことが多い。 先日も例によって電気の集金人が電気を止めると息巻いているので、大家に「もう、知らん。電気を止めてもらう」と言い、集金人に向かって「いつも、いつも金をたかりにきやがって、小遣いをやるから一発殴らせろ」と怒鳴りまくったら、集金人は慌てて電気も止めずに逃げ帰った。 大家が慌てて領収書を持ってきたので見ると料金は支払済みで、次回の支払日は来月の15日とあるではないか。何でもありも、ここまでくると究極といっていいだろう。 我が家の猫の額ほどの庭を囲ってある鉄製の柵が、先日の朝、ぐんにゃりと曲がっていた。盗みに入ろうとして失敗した跡だ。それを見て思わず「効果があったな」と笑っちゃった。 今の家に越して来たときに庭の柵が壊れていて、無用心なので作り直した。だが、施工が適当なので、高さ約2・5mの格子の柵が少しぐらぐらしていた。風でゆれることはないが、大人が乗り越えようとすると倒れるくらいに土台がひどかった。社員たちはやり直させたほうがいいと言ったが、私は「これで調度いい、これを日本では忍者返しと言うのだ」とか言って理由を説明した。「ここを登ろうとしたら、柵が壊れてバッタリと倒れてしまうだろう。泥棒は驚くと同時に痛い目に会う」と言っていた柵である。 ざーまぁー見ろと泥棒に言ってやりたいが、直すのにはまた金がかかる。今度は頑丈に作り柵の内側の地面に板に釘を打ち付けたのを草で隠し置いて置こう、と考えている。柵から飛び降りたら足を貫通するくらいの釘で作らなければ効果はない。いつも盗まれてばかりなので盗む方にも多少のリスクは負ってもらわなければ。 年末になり街にはいつもより警官の数が増え、年末の警戒を強めているが、犯罪はいっこうに減らない。警戒中の警官も、だらーとした格好でAK47の機関銃を持ってはいるが、中には銃を逆さに持って歩いている警官も見かける。犯罪者を捕まえても小遣いをもらって釈放してしまうので何の意味もない。 クリスマスのバカ騒ぎには毎度のことながら本当に驚く。キリスト教徒ならば静かにその日を過ごすのが普通だろうが、24日の夜から25日いっぱいまで街中えらい騒ぎとなる。キリスト様もきっと「静かにしろ!」と怒鳴りたくなるだろう。 と、イライラしどうしの2004年でした、来年こそはきっと良い年であることを何の神様でも良いからお願いすることにしよう。 ******************************2004.12* その22 エイズ問題 12月に入り、急に暑くなり、毎日あじー日が続いている。大統領選挙も終わり、少しは静かになったマプートだが、街中の至る所に貼られたポスターはそのままである。選挙結果はまだ分からないが、与党の勝利に終わることだろう。 というのも選挙終盤の頃、アメリカの元大統領・ジミーカーター氏が当国を訪れ、野党の党首と会談しているのをテレビのニュースで見たからである。「あーこれで与党の勝利が決まった」と思った。大国アメリカの元大統領に、野党党首は軽く頭を撫ぜられ、裏で小遣いをもらって一件落着だろう。騒ぎに騒いだ国民はアホで、野党党首は選挙のたびにお金が入る。以前、日本も同じような与野党の構造があったが、この国もまだそんなスタイルが基本である。 12月の半ばになると、月並みだが、1年が過ぎるのは早く、段々と寿命が短くなりつつあると感じる。なぁーんにもなすべきことが進まずに月日だけが早々と過ぎていく。 今年の10月に、当社の男性社員が病死した。病名はエイズだった。私が気づいた時には、もうなす術がなかった。 モザンビーク周辺の国々、南アフリカ、タンザニア、マラウェイ、ジンバブエ、スワジランド等の国はHIV(エイズ)が蔓延していて、中には人口の25%が感染しているという国もある。当国でも、早めの検査と予防をラジオ、テレビで盛んに宣伝している。 私は、身近にエイズの死者が出たのを悔やんでいる。激痩せしていく彼を見て、何度も病院に行くようにすすめたが、動けなくなってから病院に行き、その半年後に死んでしまった。現代医学では、早めにHIVと分かり、それなりの投薬や治療を受ければ、寿命をまっとう出来るのを知らないのだ。知識不足や病気に対する偏見が死を早める。職を失うのが怖くて私に言えなかったのだろうと思うと、自分自身の無力さに腹が立ってくる。 彼の死亡後、病院の清算、葬儀の費用、残された家族の当面の生活費等を支払ったが、葬儀には行かなかった。行ったら取り乱してしまいそうだった。それくらい動揺していた。 葬儀の翌日、社員全員を集め緊急会議を開き、ポルトガル語の辞書を片手に「全員、血液検査を受けるように」と厳命したが、反応は鈍く反対論も出た。全員が怖いのである。もし感染していたら、どんな差別を受けるかもしれないという不安がある。そこで得意の一発演説をうった。 「もし悲しいことにHIVに感染していたら、私だけに報告すること。私はそれを他人に話たりはしない。ましてや会社を首にすることはない。感染しているのが分かったら会社として出来る限りの援助はする。それとも皆、死にたいか?」 と半分脅しのような命令で、全員が血液検査を受けることになった。結果はまだ一部の人からしか聞いていない。 死亡した社員のことを色々と思い出していくうちに幾つか疑問点が出てきた。二年半ほど前に入社した時には、丸々と太っていて180cmはある背丈で堂々とした体格だった。前の会社は世界的に有名なアメリカの飲料水メーカーで、配達の仕事をしていたという。 思い起こせば、当時アメリカのエイズのボランティア団体が、その飲料水メーカーに、HIV(エイズ)予防対策を率先して行うべきだと働きかけていた。その飲料水メーカーはアフリカ大陸全土に相当数の工場を持っており、雇用人数も他の外国企業よりかなり多いはずで、その記事を読んだ時に、良い事だと思っていたので記憶にあった。 その飲料水メーカからの転職というので、理由を聞いたら、突然3ヵ月分の給料を払われ解雇されたという。この国では給料の3ヵ月分を支払えば解雇は何ら問題ではない。 これは想像だが、その会社でHIVの検査があり、感染が判明したため解雇となったのかもしれない。本人が感染を知っていたのか、私に隠していたのかは分からない。いずれにしても、大企業のイメージダウンを恐れての解雇だったのではないだろうか。 幸いにも我が社は企業イメージもへったくれもないので、社員がエイズであろうと気にすることはない。私は経営者としては最低ランクに入ると、いつも自負しているが、どんなに馬鹿な社員でも、どんなにずるい社員でも病気を理由に解雇はできない。 人の死が、日本より日常的で「あ、あいつ死んだの、へぇー」で済まされるこの国でも、なんらかの縁で私の所へ来た人が不幸な目に遭っているならば、なんとか助けてあげたいと思う。 口の悪い友人達は「そんな甘いこと言っていると足元をすくわれるよ」と言うが、この国に来てから終始一貫してその主義で来た。相手がそれを恩義に感じるかどうかは別として、自分自身からその気持ちを取ってしまうと、この国にいる悪どいインド人やポルトガル人、中国人と同じになってしまう。 どんなにこの国の人に裏切られようとも、嘘をつかれようとも、自分が人を裏切ったり嘘をつくよりは気持ちが楽だ。 「おいら日本人だもん、義理も人情もある人種だぜ」と友人の南ア人やポルトガル人に言うと「こいつは駄目だ」というような顔をされる。 ******************************2004.11* その21 モザンビークの大統領 我が家の裏に設置した幼児室に、最近、犬の菊ちゃんが入り浸りの日が続いている。自分が育てた猫のネコが大きくなり、一人歩きをして、あまり家に居着かなくなったので寂しいのか、母性本能が旺盛なのかは分からないが、幼児室へ行き、なにかとメイド達の赤ん坊の面倒をみている。赤ん坊が泣くと顔をペロペなめてあやし、赤ん坊が寝付くと、その横で添い寝している、まったくなにを考えているのやら。 選挙戦たけなわのマプートである。モザンビーク共和国のジョワキン・シサーノ大統領が任期満了に伴い勇退するので、総選挙が12月1日、2日と全国で行われる。 大統領は指名制で、国会議員は政党別の投票となっている。選挙権は国民の18歳以上に与えられているが、国民登録が済んでいる国民に限る。地方へ行くと国民登録をしていない人が多く、その人達へ登録をするようにとの宣伝も大変な作業である。 シサーノ大統領は、約15年間にわたり大統領職を務めた。個人的には偉大な人と密かに尊敬している。日本にいる時は政治家という人種は、詐欺師と紙一重の人種と信じて疑わなかったが、国が復興していく過程を10年間見て暮していると、違う政治家もいるのだと知らされた。 1992年に内戦が終結してから現在までの間、彼はよくここまでこの国を引っ張って来たと思う。94年に初めてこの国へ来た時には、現在の発展はまったく予想できなかった。恥も外聞もなく世界中の国に援助を求め、もらい上手の大統領と陰口をたたかれながら、先進国を回って色々な分野での援助を得た。大統領が私腹を肥やしていると批判する声もあるが、その分、国に貢献しているわけで、多少の私腹は引退の慰労金としてもいいのではないかと思う。 どうしていいか分からなくなった時や、落込んだ時によく行く場所が、市内にある革命博物館である。当地の博物館は2カ所あり、一つは普通の博物館で、動植物等の展示物があり、中でも最も目を引くのが象の胎児のホルマリン漬けである。象の妊娠期間は24カ月なので、その成長が分かるように24個の胎児が展示してある。これは植民地時代からあるもので、24体の象の胎児を手に入れるのに約1000頭の象を殺したと聞いている。その他に生きた化石と呼ばれるシーラカンスの剥製もある。これは日本の某大手漁業会社のエビ漁船が捕獲した物。マダカスガル島の間のモザンビーク海峡では結構掛かることがあると漁業会社の船長さんに聞いたことがある。 私が行く革命博物館の展示物と言えば、1960年代後半から始まった独立運動の歴史物や銃、機関銃、写真しかない。その写真パネルの中に、独立運動の最高指揮者だったエドワルド・モンドラーネと初代大統領だったサモラ・マシェールの二人が、戦闘の合間に向き合って談笑している写真がある。 初めてこの写真を見た時に、何だか分からないが、鳥肌が立った。特にエドワルド・モンドラーネの遠くを見ているような姿は、希望と苦悩が入り交じった目つきに見える。モンドラーネは、まだこの国が植民地だった時代に大変な苦学をしてアメリカへ渡り、アメリカの大学を出て国連本部に勤務していた。しかし、モザンビークで独立運動が起こると、地位も名誉もかなぐり捨てて故国に戻り、指導者となった。だが、悲しいことに独立寸前に爆弾テロによって殺されてしまった。その時代にモンドラーネの秘書役をしていたのが、現大統領のシサーノだったと聞いている。歴史に「もし」はないと言うが、もしエドワルド・モドラーネが死なずにいたならば、この国は社会主義国家にはならず、16年間もの内戦もなく、南部アフリカでは先進国と言われたに違いない、と多くの人が言う。 革命博物館は、訪れる人もなく、いつ行ってもしーんとしていて、考え事をするには絶好の場所である。約500年間の長い長い植民地政策の壁を破ることは、使用人たることに慣れきった人民に独立の意義を説き、銃を持たせ、戦わなければならなかった。その努力たるや想像を絶する。それに比べると自分の努力など、努力のうちに入らない、と常日頃言い聞かせている。 今回の選挙は与野党の激戦と予想され、様々な選挙違反が堂々と起きることだろう。字の書けない人が多いので、投票用紙には大統領候補の写真と政党のマークが印刷されていて、支持する政党と大統領候補の横にある升に印を付けるシステムになっている。 この用紙と同じデザインのTシャツを作り、升に自分たちへ投票を意味する印を付けて大量にばらまいる政党がある。これくらいは序の口で、ひどいのは投票箱ごと夜中に取り替えてしまう。前の選挙の時には、選挙が終わって1カ月くらいしてから、ゴミの中から投票箱が出てきて騒ぎになったことがある。 土日になると、マプートのあちらこちらで、各政党の演説会が開かれ、街中が大騒ぎになっている。演説が終わると必ず輪になって踊り出すので、渋滞が起きて迷惑この上ないが、5年に一度のことなので仕方がない。 我が社でも社員達が支持する政党や大統領のことで盛んに議論している。そんな時には絶対に口を出さない。営業マンだったせいか宗教と政治の話には関わらない癖がついているのだ。ただ、古参社員の叔父が野党頭首の側近を勤めているらしいので、もし野党が政権を担うことになったら、「多少は美味しい話も出てくるかな」とよからぬ事を考えている。 ******************************2004.10* その20 不思議なこと 10月になりやっと街路樹のジャカランタが満開となり、街は紫色の花で飾られている。4日ほど前に異常に気温が上がり、なんと44度まで上昇した。夕方になっても気温は下がらず久しぶりにエアコンのスイッチを入れた。社員達は「明日から鶏の値段が下がるぞ」と話していたが、これは本当で養鶏場の鶏が暑さで大量に死ぬ、それが市場に出回るのである。 最近、中古車屋が雨後のタケノコのように増えて悪戦苦闘を強いられている。しかし以前も何度か中古車屋が増えたことがあるので、そのうちまた倒産や夜逃げで残るのは限られるだろうとのんびり構えている。 私自身も経営センスはあまりいい方ではないが、中国の人の経営感覚は見当もつかない。中国人が経営する中古車屋は市内に3軒もでき、お互いの食い合いをしている。それぞれの展示場には平均40台の車を展示してある。一口に40台というが、在庫金額で約3千万円にもなり、展示場の地代や事務所の維持費等を考えると、とても私にはできない。まあー、やらずぶったくり商法で金を集めるだけ集めると、支払いもしないで、ある日突然居なくなるのが今までのパターンである。 という訳で暇である。暇になると社員達とくだらない世間話をして時間を潰す。会話を沢山すると語学が上達するものだが、これが全然と言っていいほど進歩しない。 以前、ポルトガル語の日本人通訳が「言葉は武器です」と言うのを聞いたことがあるが、これを自分に当てはめると、私の武器はせいぜい火縄銃で当地の人達は誘導ミサイルを持っていることになる。火縄銃とミサイルでは勝負にならないだろうが、今までに何度も火縄銃でミサイルを落としているのだから不思議である。 不思議なことは、他にも沢山ある。当地では携帯電話が凄まじい勢いで普及している。世界最貧国ランキングの下から第4位に堂々と位置する国で、これほど携帯が普及するとは想像できなかった。色々と考えて、なんとなく普及率が高い原因が少しは分かった。 つまり携帯の普及率と泥棒の人口とは比例するのである。簡単に言うと、携帯が発売された当初の購入層は、外国人か政府の役人くらいなもので一般庶民にはとても手が出ない。仮に最初の3カ月で1万台が売れたとすると、その後の2カ月で、30%の3千台は確実に、落としたり、ひったくられたり、盗まれたりする。 なくした人は必需品なので新しいのを買う。盗んだり、拾った携帯は泥棒が売りに出す。コストが掛かっていないので売り値も安い。したがって庶民にも手が出ると言う訳で、これの繰り返しで携帯はたちまち庶民に広まった。今では小学生位の子供も持っているのを見かける。日本なら普通だろうが、これだけ生活レベルに差がある国で子供が携帯を持つことは不思議な国と言わざるを得ない。 当社でも社員に携帯を持たせているが、これがよく盗まれる。私も現在の携帯で4台目なのであまり怒れない。 次に不思議なのは高級車の普及である。日本円で500万円くらいする高級車も珍しくない。若いお姉ちゃんがメルセデスで携帯を掛けながら乗り回している姿をしょっちゅう見かけるようになった。 当社は大衆車が主で高級車は扱わない。理由は社長の私が貧乏人ということと関税がべらぼうに高いからである。たとえばトヨタのランドクルーザーを新車で購入すると日本円で1千万円を越えてしまう。これは2000ccを越えると輸入関税が120%に跳ね上がるからである。日本での価格が500万円の車は、関税が625万円にもなり合計で1,125万円になってしまう。 平均所得が月額約2万円の国で、1千万円を越える価格の車がどんどん増えてきている。その持ち主はほとんどインド系か政府の高官である。政府の高官がどうやって高額な車を購入できるのかといえば、それは業者との癒着しかない。 以前、当社に持ち込まれた話だが、大型トラックを購入するので見積りを提出するように某省から依頼があり、適正価格で見積もりを出した。 数日後、某省からお呼びがあり、内心「価格を下げなければならないか」と思い出掛けたが、話を聞いてびっくり。 逆に価格を3千ドル高くして欲しいとのこと。この上乗せ分は後で省の担当者及びそれに関わっている役人で山分けとなる。各省とも自国の税金収入で成り立っているわけではなく、ほとんど外国からの援助で成り立っている。援助国はたまったものではない。結局、この見積り話は、インド系の自動車屋が上乗せ価格にさらに別途賄賂を渡し落札してしまった。 他方、インド系の人々が高額車輌を購入できる仕組みは単純で、税関職員を買収していて関税の3分1しか払わないからである。 自動車は専門なので不思議な現象のからくりはすぐに理解できたが、理解するまでに結構な時間が掛かったのは、銀行の自動支払機前の行列である。 マプート市内には銀行が数多くあり、それらの支店が各所に点在している。ところが、銀行の自動支払い機の前には、いつも長い行列ができて、待ち時間が2時間にもなる時があるという。そのうちに支払い機の現金が足りなくなり、職員が現金を入れるという作業が繰返される。 日本の銀行のように素早く客に応対してくれない当地の銀行には、いつも腹を立てていたが、自分が行列に並ぶ訳でもないので「随分と辛抱強いものだ」と感心していた。そして、銀行の店内はあまり混雑していないのだから、店内で手続きをすればいいのにと思っていた。 ここが物事を深く考えない私の愚かなところである。店内で預金をおろすには所定の用紙に記入しなければならない。文盲率が日本とは比べ物にならないほど高く、現在でも識字率が人口全体の60%の国である。これも教育の普及によって識字率が上がっている現在の数値である。 銀行を利用する年代は、識字率はもっともっと下がる。銀行へ口座を開設する時には、字が書ける知人か親族に代筆してもらい、キャシュカードを使う時には自分の名前のメモを見ながらキーボードのアルファベットを押し、暗証番号を押すのである。どんなに混雑しようとも、自動支払機しか利用出来ない人が多いので、行列ができるのは当たり前である。 ********************************** 「バックナンバー3」へ コラムのTOP PAGEへ戻る |