******************************2004.09* その19 託児所 9月に入っても暑くならず、涼しい日が続いているマプートである。 例年ならば咲くはずの街路樹ジャカランタの花もまだ咲く気配もみせず、異常天候である。先日も晴れていたのに午後から暗雲がかかり雨が降り出し、そのうちにみぞれになり直径2cmほどのヒョウが降り出した。氷の固まりが降り出したので、社員達は初めて見るヒョウを珍しがり表へ出ようと大騒ぎになった。 「馬鹿、表に出るな。頭に当たったら大怪我するぞ」と怒鳴ったが、アホはどこにでもいるもの一人が表に飛び出した。 ギャーと叫び声を上げ事務所に駆け戻ったが、頭にヒョウが直撃したらしく3.4個たんこぶができていた。ヒョウがやんだ後、事務所の周りの道路や近所の家の周りが薄らと白くなり、一瞬だが雪景色を思い出した。 以前、南アフリカへ行く途中に標高約1,800mの地点で雪が降り、あたり一面が雪景色になった。仕事がうまくいかない時期で、思わず雪景色の中に車を止め、故郷を思い出し涙ぐんだことがあった。 南アフリカやモザンビークでは8月が一番寒い季節で、標高が高く南極に近い南アフリカでは南の山岳地方で何年かに一度は気温がマイナス4.5度まで下がり、雪が降り凍死者が出るという。アフリカ大陸の最南端、喜望峰があるケープタウンに行くと湾内にペンギンやアザラシがいる。以前ここの水族館に入り驚いたことがある。水槽の中で真鰯や大きなブリが泳いでいた。南極からの寒流が喜望峰の大西洋側を北上するため、北の海にしかいないと思っていた魚や貝類、それに哺乳動物が生息しているのだ。アフリカというイメージでは、象やライオン、キリンなどを思い浮かべるだろうがペンギンもアザラシもいるのである。 以前の本欄で今年は出産ラッシュと書いたが、女性従業員が無事出産を終えて仕事に戻てきた。家に赤ん坊を置いて仕事に来るのだが、赤ん坊の面倒をみてくれる家族がいる人といない人がいる。家族がいない人は、メイドを雇わなければならない。 自慢ではないが、我が社は社員がメイドを雇うほどの給料は払っていない。出産した女性は4名だが、2人は家族が面倒見てくれているが、後の2人はメイドを雇うか子連れで出社するしかない。メイドを雇うほどたっぷりと給料を払えれば問題ないのだが、自転車操業の零細企業としてはちょっと無理がある。 そこで、我が家の裏口にある使用人用の部屋を託児所替わりにすることした。家とは別棟のこの部屋は植民地時代の名残りで、家の使用人の住居に使っていた所である。8畳と6畳くらいの2部屋とトイレ、シャワーが付いている。今までは1部屋を家のメイドの着替え場所にして、もう1部屋は物置として使っていた。その2部屋を綺麗にかたずけ照明やカーテンも取り替えた。内装を塗り替える時に、従業員が「壁に絵を描いた方がいい」と言い出した。「何の絵を描くんだ?」と聞くとミッキーマウスとかドナルドダックなどと可愛いことを言う。 思わず「駄目、駄目、お前達が描くとミッキーは豚になり、ドナルドはダチョウになる」と却下した。当地の人達は絵や地図を描くのが異常ほど下手で不思議でならない。現在でも公立の学校では図画や音楽の授業はなくその影響かもしれない。 わいわい言いながらも、なんとか託児用の部屋ができ上がった。赤ん坊の面倒は、家のメイドと事務所のメイドが交代でみることになったが、問題は経費である。結構な金額になり、個人負担と覚悟していたので何かを節約して捻出しなければならない。 だが、最近は夜遊びもせず真面目な生活をしている。夜に飲むビールも息子の厳しい監視で3本までと決められいるので節約の余地がない。 仕方がないので我が社の相互援助会から捻出することにした。これは当社の従業員22人全員が加入している独自のシステムである。毎月の給料から各自25万mt(約1,000円)を出し合い、他に会社が2口、合計600万mt(約24,000円)を2グループに分けてお金が必要な従業員に貸すのである。 これは、給料日の5日後になると、ほぼ全社員が前借りに来るので、考えついたシステムである。社員たちにすれば、毎月といっていいほど親戚の結婚式や葬式があり、病気や怪我もあり、その出費も大変なのだろう。 私自身は借りたことはなかったが、皆に苦労しているのだと思わせたくて使うことにした。もちろん借りた金額では全然足りない。 ただ、断っておくが当社の給料は他のインド系やポルトガル系の会社より3割方多い。これはハッキリ言って自慢だ。会社でとる昼食は事務所のメイドが料理し、その費用は会社が8割、社員全員で2割を負担する。理想的な福利厚生と思うが、その分経費も掛る。 それに加え今度は託児所である。これから夏にかけてあの部屋では赤ん坊が暑くてたまらないだろう。クーラーが必要となる。それも今から計画しておかねばならない。 それでも、家に赤ん坊がいるのは何となく気持ちが和らぐもので、仕事の合間に部屋をのぞいてはニコニコしながら見ていた。 一週間ほど地方へ出張して戻り、託児所をのぞくと、4人のはずの赤ん坊が6人いるではないか。 「誰かまた、産んだのか?」と思わず馬鹿なことを聞いてしまった。 近所の家で働くメイドの子供を預かっているという。困っているので一緒に置いて欲しいとのこと。いかに困っているとはいえ、よその子の面倒までみれないと強引に反対し、引き取りに来させた。母親は悲しそうな顔で赤ん坊を抱いて出て行こうとした。 その姿を見ていて思わず「まったく、しょうがねなー、馬鹿野郎が。4人も6人も同じだ置いておけ」のセリフが出てしまった。 こんなことばかりやっているから、いつまでも貧乏から抜け出せないのである。 ******************************2004.08* その18 日本には帰ったけれど… 本日は8月15日、約1カ月の一時帰国からモザンビークへ戻って2日目である。 ルンルン気分で日本へ帰国するはずだったが、帰国3日前から体調に異変が起こった。当地の病院で検査を受けたところ、信用できない医者から赤血球が少なすぎると言われたが、なんの治療もしてくれない。またもや自分で何とかしなければと思い、以前マプートの中央病院でボランティアをされていた大阪在住の高田医師に電話で相談したところ看てもらえることになったので、取り敢えず日本へ向かうことにした。 貧血でふらふらしながらの飛行機の旅、機内での飲酒は酸素が薄くなるため、「飲むんだったら命を賭けて飲むんだな」と大使館の医務官に脅されていたので、好きなビールもタバコもやらず、真面目に忠告を守り日本へ辿り着いた。 半年も前から、「日本に戻ったらガンガン飲んで、好きな物を食べれるだけ食べてやるぞ!」と夢にまで見ていたのが、大阪に着いてすぐに高田医師に「明日、胃の検査をするから、今晩は絶食ね」と言われて、半年間の夢は一瞬にしてしぼんでしまった。 それからの三日間、血液検査を手始めに胃のレントゲン、大腸のレントゲン、リュウマチの検査等々、拷問に近い検査を受けた。結果、貧血の原因は判明せず、高田医師の紹介で実家のある北海道の総合病院へ移ることになった。 所用のため4日間ほど東京で仕事をしたのだが、連日の猛暑で、さすがのモザンビーク人もどきの私でも参ってしまった。貧血気味でふらふらしながら歩く姿は、まったく気がどっかに飛んでいる人と思われても仕方がなかったろう。 札幌の実家に辿り着くと直ぐに病院へ直行した。二、三日の通院でなんとかなるだろうと軽く考えていたのが大間違いで、直ちに口から胃カメラを入れられ、まるで鮎の串焼き状態にされ、検査の結果、入院と宣言された。 翌日から、串焼き状態に続き血液を大量に抜かれたり、禁煙、禁酒、拷問付きの収監生活が十二日間も続いた。なにせ五日以上の入院生活経験は、中学三年の盲腸の手術以来で、年数を数えるのに計算機が必要なほどの昔である。 入院時に病室を個室にして欲しいとお願いした。理由は、寝言といびきがひどいからである。寝言に至っては技を極めたと言っていいほどで、以前日本の観光バス会社の管理職をしていた時に、出張先の宿で運転手五名と一緒の部屋で寝ていて、夜中三時頃「全員、出発!起きろ!」と寝言で怒鳴り、運転手全員に出発準備をさせてしまったことがある。最近はその寝言にポルトガル語が混ざる。相部屋で夜中にポルトガル語で叫んだら、確実に頭の検査が必要ですと言われるのに違いない。そう思い真剣にお願いしたが、「大丈夫ですよ、その程度はざらに居ますから」の一言であえなく却下された。 こうして胃の検査以外にも肺の検査や関節の検査など、思い当たるところ全部を検査してもらった。その結果、胃壁から出血していることが分かり、レーザー光線で出血箇所を焼き付ける治療が始まった。 それにしても日本の看護士さんやお医者さんはどうしてあんなに親切で優しいのだろう。もう少し若かったら、何とか看護士さん一人くらいを口説き落とし、モザンビークへ連れて行きたいと思ってしまう。普段、がさつな態度の人々が大勢居る国で生活していると、ちょっとした優しい言葉を掛けられただけで、大きな声で元気よく「はい!」と答えてしまったりする。 入院後半になると病院での生活にも慣れ、周りを見渡す余裕が出てきた。八階建ての大きな総合病院だが、外来患者や入院患者に若い人は見当たらない。ほとんどが私より年上の人達ばかり。年上というより老人と言った方が的確だ。日本では現在、介護産業が自動車産業と並ぶほどの急成長だと聞いていたが、本当のことだと実感した。老人介護の保険や保障が発達し、お年寄りにとっては暮しやすい世の中になってきたのだろうが、その莫大な費用を少ない人口の若者達が負担するのでは、たまったものではないだろう。 当地モザンビークにも多少ながら社会保障と言うのがあるのだが、日本の失業保険と健康保険をミックスしたような形である。勤め人は給料の3%を負担、雇用主は4%を負担で五年間以上掛けないと受給資格は得られず、しかも医療費用は含まれない。 病気になったら働けなくなるので、給料の80%が保険から支給され、そこから病院費用を支払うと言う訳の分からない社会保障である。したがって誰も保険料など支払わないのが現実である。来年度の法律改正でこの社会保証も改められるそうだが、どうなることやら。 この国の老人達のように、貧しく最悪の環境の中でも、家族に尊重され沢山の孫や子供達の中で一生を終わるか、日本の老人のように、最新設備の整った老人ホームか病院のベットの上で孤独に一生を終わるか、人それぞれなのだろうが考えさせられてしまう。 入院最終日、医師から結果報告があり、胃の中からの出血はレーザー治療で止まっているとのこと。出血が止まったので徐々に貧血もなくなるが、肺の検査の結果、タバコの吸い過ぎが原因と見られる機能不全があるので絶対禁煙と宣告された。それとストレスは溜めないよう心がけること、以上の注意事項を承って無事釈放となった。 やれやれと病院の玄関を出たものの、足は真っ直ぐにタバコの自動販売機に向かい、無意識のまま一服していた。情けないことに、10分前に有り難く拝聴した注意事項は一言も思い出さなかった。 これでやっと念願の食事にありつける。季節は夏、場所は北海道とくれば生ビールに魚貝類のご馳走それにラーメン。しかし、入院中ほとんどが流動食のような食事だったので、正常な食事を胃が受けつけなくなっていた。せっかくの食べ物を横目に見ながらひたすらお粥のみの食事で身体を元に戻し、血行も顔色もよくなって、マプートに戻ったのである。 久しぶりに会った息子は、開口一番 「エンドーさん、ラーメン美味しかった?」 ******************************2004.07* その17 息子との旅 7月の半ばに約2年ぶりに日本へ一時帰国することになり、嬉しい気持ちと留守が心配な複雑な思いである。今回、息子は留守番なので、息子への申し訳ない気持ちと社会見学の意味も込めて北のモクバという町までの出張に同行させた。首都マプートから北へ約2,100kmの地点にあるモクバの町まで車で行き、帰りは飛行機という5日間の予定で出掛けたが、またもや珍道中だった。 普段は私一人か社員一人くらい連れて行くのだが、今回モクバでの仕事が締めくくりとなるので、先に社員5名が行って作業を進めており、その結果を見に行くのである。息子の学校も独立記念日と週末が重なり4連休になるので、1日はサボらせて出掛けた。何度も走っている道なので心配はないが、息子同伴となると夜どおし走ったり、野宿するわけにはいかない。 最初の日は、900kmの地点ビランクールというリゾート地での宿泊になった。ここは有名なリゾート地で外国からの観光客相手のペンションしか宿泊設備がない。 ちなみにわが馬鹿息子の名前は、正確に書くとバシコ・ルィーシュ・ビランクールとなる。お分かりのように息子の先祖がいる町でもある。当国の人の名前は、たいがい先祖か親の出身地の名前を苗字にしている。息子は初めて来たのでピンとこないようだが「この町のどこかにお前の本当の爺さんか婆さんが居るかもしれないぞ」と言うと、なんとなく複雑な顔をしていた。 前に泊ったことのあるペンションに行き、宿泊代を前払していたら、息子が「こんなに高いの?!」と言い出した。 「いいんだよ、ガキのくせに金のこと言うな」と叱りつけたが、内心「高いな―」と唸るくらいの金額だった。1泊で150US$この国の貨幣でいうと360万MT、日本円で15,750円になる。当地ではタバコが約95円、ビールが80円だから、いかに高いかお分かりだろう。 高いだけあって部屋は綺麗で大きい。晩飯を食べようとレストランに行き、テーブルについてメニューを見た瞬間に息子の目が点になった。えらい高いのでびっくりしてしまっている。 「チキンのハーフが35万MTもするわけがない!ボーイに文句言う」と息巻き始めた。 「やめろ、恥ずかしいだろうが」と言うと、 「マプートのレストランでもハーフチキンは8万MTから12万MTだよ。これじゃあケンタッキーのチキン5人分の値段だ」 最近、マプートの街にもケンタッキーフライドチキンの店ができ、週末には息子とよく買いに出掛けているので息子も値段はよく知っている。 なんとか息子をなだめ食事を始めた。観光地の宿泊所ということもあってレストランの雰囲気は上のほうで、夜の海を眺めながら3本目のビールを頼もうとしたら、 「駄目、ここは高いのだから、2本で終わりにしな」と息子に怒られてしまった。 ちきしょうと思いながらも「そうだな、高いな」と素直に言うことをきいてしまった。 翌朝、日が昇ると同時に出発し延々9時間食事もとらず走りに走り、大河ザンベジ河の船着き場に到着した。これでひと安心、河を渡れば、後は400kmで目的地に着く。丁度、筏のような渡船に車が乗込んでいるので続いて乗込もうとしたら、係員に「駄目、次の便に乗りな」と言われ、しょうがなく船着き場の横に車を止めて休むことにした。 まだ午後3時なので、余裕がある。それに風邪が治らないまま出掛けてきたので、昼頃から頭痛がしてかなり気分が悪くなっていた。 車の中で向こう岸から戻ってくる渡船を息子と何気に見ていたら、河の真ん中あたりで渡船のエンジン音がプスンといったきり静かになってしまった。渡船はだんだんと下流へ流されていく、もちろん向こう岸からの乗客や車が乗ったままである。 「あーあーどうなるの?」と息子が訊くが、私にも分からない。周りにいる人達はそんなに騒いでいないので、なんとかなるのだろうと思っていたら、1時間後に渡船は川下から片エンジンで船着き場へ戻ってきた。 ところが、エンジンが片方壊れたので運休となってしまい、いつ直るのかまったく分からなくなってしまった。 ここまで来て、また1,500km走りマプートに戻るか、1,000km遠周りして隣国マラウェイからザンベジ河の向こう側に出るか、ここでエンジンの直るのを待つか、頭痛は激しくなるし、だんだんと日暮れが迫るし、判断ができない。 とにかく、ここでは泊る場所もない。明るいうちに10kmほど戻り、カイアという村に行きホテルを捜すことにした。 1軒だけペンションがあったが、電気は自家発電で、夜4時間だけ照明が点くという。でも料金は驚くなかれ1部屋2名様で30万MT(日本円で1,350円)、昨日の10分の1という息子も納得料金。部屋はWベット1つ置いてあるだけで何もない。 息子に「もう一つ部屋を取るか、お前と一緒じゃ嫌だよ」と言ったら 「電気がないから恐いよ、ここで寝る」 「意気地なし」と笑ってやったが、まだまだ子供だと少し安心した。 日暮れが早く、夕方5時半だというのに外は暗く、部屋の電気もまだ点かないのでベッドで横になると頭痛が少し和らいできた。 このところ、目いっぱい仕事しているので疲れも溜まっているのかなー、とか考えて、ウトウトしているとパッと部屋に明かりが点いた。電気で点く照明1つとっても文明社会の素晴らしさが実感できる瞬間だ。 「さーぁ、晩飯でも食べるか」と息子に言い、レストランらしき庭に出たら、50人くらいの子供達がワイワイガヤガヤと居るではないか。ボーイに訊ねると、毎週土曜日の夜に野外映画ならぬ野外ビデオをするのだと言う。 電気のない、この町で週に一度の子供達の楽しみで1時間半のビデオ、後は大人が楽しむディスコになると言う。ビデオもディスコも入場無料だそうだ。なかなか粋なことをする経営者だと感心してしまう。 その日の食事もチキン、値段は一人前5万MT(220円)。ビデオを見る場所と食事をする場所は柵で仕切られてはいるが、どうにも子供達の視線が気になって仕方ない。頼んだチキンは延々と出て来ない、その分ビールが進む。 「お前、まだチキンができてないか裏に行って見てこい」 戻ってきた息子が 「今、羽根をむしっているよ、まだ、まだだね」 「さっきそこにいた鶏か?」 「たぶんね」 こんな会話を日本語でしていると、子供達が「あの子供は白人か?」「いや、中国人とのハーフだ」とか言っているのが聞こえてくる。 白人だ中国人だと、あまりにうるさいので息子が 「俺は中国人ではない、モザンビーク人で黒人だ!」とポルトガル語で怒鳴ると「嘘だ!」と言われてしまい、なんとも悲しい顔になってしまった。 「ここは田舎で日本人なんか見たことがないのだから、しょうがないだろう」と慰め、さっきまでこの辺をうろうろしていた鶏を美味しくいただき、部屋に戻り寝ることにした。 深夜、息子がトイレに行くと言い出し「恐いからついて来て」言うのでローソクの灯りを頼りに屋外のトイレまでついて行き、先に息子をベッドに寝かし、やれやれ、とベッドにどんと寝ると「メキッ」と音がしてマットレスを支えている木材が折れ、マットレスが床に斜めに落ちてしまった。 疲れていて直すのも面倒なので「このまま寝るぞ」と斜めになったまま寝ていたら「エンドさん、これ疲れるよ」と言い出したので、 「そっち側でドンと跳ねてみろ」と言うと息子が壊れていない端で思いっきり飛び上がった。「バキ」という音がして高い方も壊れて床に落ち、ちょうど具合がよくなり朝までぐっすりと寝た。 翌朝早くにペンションを出発しようとすると「ベッドの修理代払わなくていいの?」と息子が言い出した。 「馬鹿、俺がわざと壊したのではないぞ、自然に壊れたんだ。そんなものに金は払わなくてもいいのが常識、早く行くぞ」 あぜんとしている息子を急かし船着き場へと行くと、運よく昼までには修理が終わるとのことで修理後一番で河を渡れた。 夕方、やっとの思いで2,100kmを走り、目的地のモクバに着き、先に来ていた社員と合流したが、なんとも疲れた旅だった。 しかし、息子にとっては、見るもの聞くものが同じ国内でもこんなに違うことを実感でたにちがいない。 後、一週間で日本だ! ルンルン。 ******************************2004.06* その16 DVDデッキと神聖なる家族会議 6月、マプートは日照時間が、かなり短くなってきた。夜明けが朝の6時くらいで、午後5時には暗くなってしまう。もうすぐ冬至である。と言っても生まれ故郷、北海道の冬を迎える前の暗さも身構えもなく、涼しくて過ごし易い季節である。生まれつきの貧乏性か仕事になるものは何でも取り込んでしまうため、超忙しく地方出張が続き、疲れ果てていつも不機嫌な顔して過ごしている。 今年は女性従業員の出産ブームで3名が出産し、後まだ2名が9月頃の出産予定となっている。「いいかげんにしてくれ」と叫びたいのだが、おめでたいことなのでそーもいかない。既に出産した者も、これから出産する者も全員独身で、しかも初産ではない。当地では独身子供3名なんていうのはざらで、子供の父親なんてどうでもいいのである。もっと言えば、下手に旦那がいると旦那まで養なわなければならない。仕事を持っている女性は独身でいた方がいいことになるが、日本の親父としては、未婚の母には抵抗がある。 毎日仕事に追われ、家に戻ってもただ寝るだけになっているので、自分自身に褒美でもと前から欲しかったDVDデッキを買おうと息子に話したら、「駄目、プレステーションの新しいのが先!」と激しく抵抗してきた。 そこで、我が家恒例の家族会議を開くことにし、数日後の夜、神聖なる会議が開催された。出席者は、私、息子、犬の菊ちゃん、猫のネコ、カメレオンの花ちゃんと我が家のフルメンバーである。DVDとプレステーションをめぐって息子と私の言い争いも結局物別れになり、民主主義の大前提である多数決で決めることになった。 私は菊ちゃんを抱き、息子はネコを抱きかかえ、それぞれ自分の欲しい物に手を上げた。2対2で決まらず、カメレオンの花ちゃんを取り込んだ方が勝ちとなる。 でも、息子は花ちゃんが苦手で触ることもできない。そこでやおら花ちゃんをガラスケースから出し、菊ちゃんと花ちゃんの手を上げた結果、DVDに決定した。 これには息子も怒ったが、たとえ民主主義の世でも理不尽な決定もあるのだと、おまけの教訓をたれてやった。 さてDVDデッキを買ったものの肝心のCDがないので、以前から利用しているレンタルビデオ屋に行き、会員登録をしたのだが、入会金がやたらと高く驚いた。150万MT(約6,750円)と言うではないか。何年か前にビデオ会員になったときは、確か800円くらいだったはずだ。それにレンタルCDは1泊2日で約250円と割高で、そのくせ映画の種類が極端に少ない。ビデオの借り賃は、映画が1泊2日で90円、ブラジルのTV局が放送している連続ドラマシリーズを無断録画したものが30円くらい。ちなみに、映画の場合、言葉が英語やフランス語などであれば、字幕にポルトガル語が出るが、スペイン語だと字幕は出ない。連続ドラマは原作がブラジルなので、言葉になんら問題はない。息子が好きな日本のアニメ「ドラゴンボール」の海賊版は、吹き替えでポルトガル語になっている。ストーリーの間にブラジルのCMが入るところをみるとブラジルから入っているのが分かる。 市内にはレンタルビデオ屋がたくさんあるが、どこもテープの保管が悪いのか、それとも利用客のデッキが悪いのか、すぐにデッキのヘッドが汚れ写りが悪くなってしまう。ビデオテープは、ほとんどがヨーロッパスタイルのパル方式なので、日本製のビデオデッキでは見られない。ビデオデッキがマルチフルでロングタイム式だと日本のテープも当地のも見れ、3倍録画を見ることも可能だ。 一方、TV放送はモザンビークの放送局が2局、ブラジルの放送局が1局あるが、ケーブルTVが凄い勢いでの普及している。最初の設置費が170US$で月々70US$の使用料がかり、当地の人にとってけっこう高額にもかかわらず、ケーブルTVの契約者はどんどん増えている。 我が家もケーブルTVにしているが、チャンネル数が60もあり、世界の国のTVが見られる。アジアでは中国の放送が2チャンネルあり、アメリカはもちろん、ヨーロッパ、中東、スポーツ専用と見ていて飽きない。ただ、日本の放送はない。当地でもNHKの衛星放送は受信できるのだが、直径2メートルもあるアンテナを設置し、15万円もするチューナーを購入しなければならず、約40万円ほどの出費を覚悟しなければならない。モザンビークでこの装置を持っているのは、日本国大使館と大使公邸、それと当国と日本の合弁会社で水産業を営んで会社の日本人宿舎だけである。 当地でビデオデッキやその他の電化製品を購入する時には、2年間使用できれば上出来と思わなければならない。粗悪品が多いのだ。我が家の冷蔵庫は今ので3台目、ビデオデッキにいたっては、何と4台目である。10年前に当地に持ってきた日本製のビデオデッキは未だ健在なのに、新しく買うのはすぐに壊れてしまう。 ケーブルTVだDVDビデオだとか言っていると、モザンビークも豊かになったと思われるかも知れないが、これは首都マプートと地方の大きな都市だけのことである。最近出張で行く地方は、未だ電気も水道もない所が多い。そんな所の生活を見ていると、この先ますます地方と中央の格差が広がっていくように思える。貧富の差は、中央と地方では比べようがないくらいにハッキリとついている。この先、ますます広がるはずである。 なんでも平均主義の日本で生活していた自分としては、割り切れないことが多々ある。息子の躾にも、けっこう気を使っているつもりで、地方の子供達の様子を写して来ては見せている。しかし、破れたシャッを着て棒切れで遊んでいる子供達の写真を見ても「まあーこんなもんでしょ」くらいの反応しか示さない。月々与える小遣いを少しずつ貯めては、街中の道路で売っている古靴や古Tシャツを買って、実家の弟にプレゼントをしている息子も、それなりに考えてはいるのだろうが、地方へ行って息子と同じくらいの年頃の子供を見るたびに、この国の政治はこの先どうなっていくのだろうと深刻に考えさせられる。 ******************************2004.05* その15 再び北へ 日本ではイラクの人質事件で大騒ぎのようだが、NGOもジャーナリストも一発当てなければならない事情はわかるものの、なんとも平和ボケしている日本人もいるものだと大笑いしている。どうして危ないと言われている猛獣の居る場所に入っていこうとするのか、しかも立ち入り禁止の看板まで出ているのに。常に危険と隣り合わせの国に住んでいると、そういうアホな行動はまったく理解できない。まぁーこれはこの辺で。 今回、またもや北へと仕事で出掛けてきた。北部のナカラという港町が最終目的地で、マプートから距離にして片道2,250km、あと800kmでタンザニアの国境に辿り着く地点である。行きはマプートから飛行機で1,700kmのキリマネまで飛んで、そこから4WDの車でナカラまで行き仕事をすませ、3日後再びキリマネに車で戻り、キリマネから大型トラックと4WDの車2台で延々マプートまで戻って来たのである。 我ながらよく走ったものだと感心してしまう。全行程10日間、車輌走行距離3,300km、しかも2,000kmは8トンの大型トラック車で、荷台にクレーンの付いたボンネット型でやたらに大きい。本音は行きたくなかったが、当社の社員には大型免許の所有者がいず、仕方なく行く羽目になってしまった。帰路は車が2台になるので、今回はお供に社員一人を連れて出掛けた。 キリマネからナカラまで片道600kmの道は初めて走る道。ほとんどが未舗装で地形も南部と違って山あり谷ありで景色に飽きることがない。平坦な地形の所に、オーストラリアの有名なエアーズ・ロックと同じような大きな一枚岩の岩山がぼこぼことある。なかにはオーストラリアより大きいのではと思うほどの岩山がそびえている。道の端の民家は南部で見慣れている葦で作った家ではなく、泥壁でできた家で屋根が葦で覆ってある。住民たちはブッシュではなく平気で車道を歩くので危険極まりない。もっとも車道と歩道の区別なんぞあるわけがない。 歩いているのはほとんどが女性である。それも水が入った20リットルのポリカンを頭に乗せて歩いている。なかにはまだ10歳か12〜3歳くらいの女の子もいる。頭にあんな重い物を乗せて、よく首を捻挫しないものだと感心してしまう。 同行の運転手に「女性ばかり見掛けるが男はどうしているのだ?」と聞くと 「さぁー昼寝でもしているのでしょう」 地方へ来ると古い時代の習慣が残っていて、男性はほとんど働かずぶらぶらしている。一夫多妻の習慣も残っていて、そのせいでもないだろうが女性はほとんどが背中に幼児を背負っていて、どう見ても14歳くらいにしか見えない。 「あんなに若い娘が子供を背負っているが、子守りでもしているのか?」と聞くと 「あれは本人の子ですよ、この辺では普通でしょ」 「結婚はしているのか?」 「そんなものしているわけがないですよ」 「14歳で未婚の母か、その子供がまた14歳で子供ができたら、28歳で孫ができるわけだ」と思わず馬鹿なことを考えてしまった。 ナカラという港町のすぐそばには世界遺産にも指定されているモザンビーク島がある。この島の名前が国名の由来である。かの有名なバスコ・ガマがインド航路を発見した時に寄港し、その後ポルトガルがモザンビークを植民地にする拠点となった場所である。 ここまで北へ来ると文化、習慣、言葉がマプートとは異なる。言葉は南部地方マプートから隣国のスワジランド、南アフリカの北部まで通じるシャンガーナーという言葉は通じなく、マクワと言う言葉になり、この言葉は北部隣国のタンザニアでも通じる。それと、この辺の人々はケニアの公用語でもあるスワヒリ語も話すことができる。それを考えるとアフリカ大陸にやって来て、この辺は我が国のものとか、好き勝手に分けてしまった欧州各国は強盗行為で成り立った国家としか思えない。 ナカラの港町で驚いたのは、町全体がとても綺麗でゴミ一つ落ちていないことである。首都のマプートではとっても考えられない。なんでも勝手にゴミを捨てると罰金を厳しく取りたてられるそうだ。 ナカラでの仕事を終え陸路キリマネに戻り、そこからが今回の本番が始まった。大型トラックの運転は慣れてはいるが、大型のボンネット型は初めてである。しかも四輪駆動なのでスピードは出ない。本来の使用目的は悪路及び山道用の車でやたらに大きい。排気量はなんと12,000ccもあり、燃料をやたらと喰うのでタンクに400リットル、荷台に予備のドラム缶を2個(400リットル)を積み、さらに梱包された建設機械を荷台いっぱいに積んで約2000kmを走った。最高速度80kmしか出せないトラックでは、気が遠くなるような距離である。 以前マプートからキリマネまでを快適な新車で走ったことがあるが、今回は辛かった。3泊4日でマプートまで辿り着いたが、3泊とも車中での睡眠、夜明けと共に出発し午後8時には泊らなければならない。夜遅く走ることも可能だが、強盗に出くわすのが恐いし、真っ暗闇をライト一つを頼りに走るのは危険過ぎるのだ。 途中この国を二分する大河ザンベジ河を渡船で渡らなければならない。ようやく川岸に辿り着いたのは夜の9時頃で、先着の大型トレーラーや小型トラック等が約40台ほど渡船の順番待ちをしている。 「こりゃー3日はここで順番待ちになるな」と諦めた。艀は大型トレーラーが2台、乗用車4台それと小型トラックが2台くらいしか乗れない代物で、しかも1隻しか運行していない。これで多少多めの雨でも降ったら、江戸時代の大井川のように河止めとなる。周りには宿泊所などはまったくなく、あるのは小さい小屋のような食堂が何軒か並んでいるだけである。 そこで、小型4WDの車で同行している我が社一要領のいい運転手の出番となる。トラックと4WDを列の最後尾に止め、ひそひそと打合せをした。 「いいか、このためにお前を連れて来たのだから、抜かりなくやれよ」 「分かってますよ、今から交渉してきますから、ここにいて下さい。離れると荷台の荷物がなくなりますから」 と言うわけで渡船場の順番係の所へ行き順番を繰り上げてもらう交渉となる。結果、夜明けの一番でこの大河を渡れることになった。 この国での生活の知恵。その一、何でも交渉してみること。その二、言われた金額を一度に全額払ったら駄目。その三、今回のように仲介者(たとえ、社員でも)がいる場合、言われた金額を信じては駄目。領収書のない金は仲介者が抜いてしまう。特に要領が良い奴ほど危険である。 一気に40台の車を抜いて順番待ちの一番前に2台を駐車し、蝋燭の灯りが灯っている小屋みたいな食堂に二人で入り、その日初めての食事を取った。メニューはガゼールのカレー煮込、これをトウモロコシの粉を蒸したやつに掛けて食べるとうまい。ガゼールは鹿の一種で、ライオンがよく襲って食べる野生の鹿である。こういう地方で食事をする時に、食べ物の中に蟻や羽虫がしょっちゅう入る。以前はいちいち取り出していたのだが、最近はそのまま食べちゃう。蟻を食べても死にはしない。 翌朝、前の方にいたトレーラーの運転手が我々の車を見て騒ぎ始めた。 「3日も順番待ちしているのに、なぜ後から来たのが一番に乗るんだ?」と息巻いている。ここであまり騒がすと面倒なことになるので、係りの人を呼んで来させて周りを落ち着かせると、当社一要領がいい運転手が一発演説をぶった。 「ここに居る人は日本人で、当国の政府より依頼を受けて緊急に荷台に積んである援助物資をマプートまで運んでいる。皆さんのお怒りは分かるが、どうか協力して下さい」 私はこの大嘘に唖然として棒立ちしていた。とにかく一番で大河を渡り、その後の約1,000kmを2日間、車の中で寝泊まりし、食事も小屋のような食堂で山羊かガゼールを食べ、朝の定期便はトイレットペーパーを持ちブッシュの中で済ませ、やっとマプートまで辿り着いた。ハンドルを握っていた手がこわばって開かなくなるくらい疲れた。でもやっぱり俺って凄いと思う。 ******************************2004.03* その14 我が家のメイドさん つい三日前まで異常なほど雨が降り続き、今年の雨季はやけに長いと思ったのだが、やっと雨季の終わりの兆候か晴天が戻ってきたマプートである。 これから日増しに涼しくなっていく。長雨で我が家(築40年)も雨漏りがして寝室の白い壁に世界地図もどきのシミができてしまい、今度の日曜あたりに屋根に登って瓦の取り替えをしなければならない。 マプートの住宅事情は、一、外国人に対しては異常に家賃が高い。二、住宅全部と言っていいほど築40年以上経過している。三、電気配線、水道管、下水等入居と同時に手直しが必要。と、まぁー書けばきりがないほど悲惨である。 ちなみに我が家の間取りは、二階建てで一階に居間、食堂、台所、トイレ。二階が寝室3部屋、バストイレ、書斎と、表はガレージ、椰子の木がある小さな庭。ここに息子と犬の菊ちゃん、猫のネコと最近家族に加わったメスのカメレオンの花ちゃんとで暮らしているわけだが、カメレオンの花ちゃんの餌取りには苦労させられている。生きた虫しか食べないのでハエやゴキブリを生け捕りにしなければならない。殺虫剤を使うわけにもいかず、手袋をはめてゴミ箱をあさったり、浄化槽のふたを開けたりして大き目のゴキブリを探すのが日課になってしまった。 ゴキブリや他の昆虫を採るくらいのことはメイドさんにやってもらえばいいのだが、当地の人はカメレオンを異常に怖がり見ただけで逃げ出す始末。それに我が家のメイドさんはゴキブリを見つけると、どんなに大きくても、足でバンと踏みつけてしまい、センベイのようになったゴキブリでは花ちゃんは食べない。 最近、気がついたことだが、いたずら好きの猫のネコがガラス張りの箱にいる花ちゃんに全然興味を持たない。それに時々、花ちゃんを見失っているようである。これは保護色に変るためだろう。そのうちに、日本からいろんな色の折り紙を買ってきて、ガラス箱を折り紙で囲って何色に花ちゃんが変れるのか試してみようと馬鹿なことを考えている。 さて、我が家のメイドさんは、随分と前から働いてもらっているので特に問題はないのだが、洗濯とアイロン掛けが唯一問題である。少しでも楽をしてもらおうと、彼女のために高い全自動洗濯機を買ったのだが、一度か二度使っただけで「こんなのじゃ汚れが落ちない」と使おうとしない。 「そんなこと言わないで、使うと楽だし便利だよ」 と何度言っても頑固で、高い買い物の洗濯機は現在、物置でホコリをかぶっている。 当地の住宅には必ず洗濯場があり、コンクリート製の水槽が二つとその上に日本で今はなくなってしまった洗濯板と同じ蛇腹の洗い板(コンクリート製)が付いている。そこで私の太股より太い腕、見ただけで絶対に喧嘩などすまいと思わせるほどの腕で、力任せにゴシゴシと洗うので、繊細な日本製の下着はすぐによれよれになってしまう。アイロン掛けがまた凄く、一年でアイロン二個は壊してしまう。洗濯物は天日に干すが、その後、最高に熱くしたアイロンを力任せに掛けるので、アイロンのプラスチック部分が焦げてしまう。 若い頃から下着はBVDの丸首、パンツはトランクスとこだわりがあり、現在も愛用しているが、彼女の熱いアイロン掛けの結果、我がこだわりの丸首はだらーと伸びてしまい、トランクスのゴムは熱で伸びきってしまい、何だか情けないものになってしまう。 何度、注意しても彼女曰く「干している間にハエや他の虫が卵を産み付けることがあるので、熱い熱でアイロンを掛けて殺菌しなければ危ない」と言われてしまう。 彼女の言うことは正しいとは思うが、日本から買ってきて三ヶ月もたたないうちにパンツのゴムは伸びてしまう。もう一年半も日本に帰っていない現在の私の下着がどうなっているか想像がつくでしょう。下着は全部V首に変り、トランクスは熊でもはけるほどゴムが伸びきっている。この次日本に帰るまでの辛抱と悟り、夜な夜な、針と糸を持ちトランクスのゴムの部分を縫い付けサイズを縮め、下着は首の後ろの部分を引っ張り前から見えないように丸首に改良している。 しかし、その応急処置も、洗濯が終わるたびに、メイドさんが丸太棒のような腕で、パーンと水を切るように洗濯物を広げるので、糸が切れてしまい、また縫い直しとなる。「母さんが夜鍋して手袋編んでくれた」という叙情歌ではないが、息子が寝た深夜、ネコや菊を話し相手に一人パンツや下着を縫い直している我が姿は何とも表現ができず、一人で苦笑している。 このメイドさんは、明るく機嫌のいい時には鼻歌を歌いながら家の中を掃除して回り、周りの者まで明るくさせてくれる性格の持ち主で助かる。息子の教育にも関心があり、息子が悪い言葉を使ったり、言うことを聞かなかったりすると、容赦なくひっぱ叩いている。叩くと言っても、こちらの叩き方は、両手を体の前に出させて、手の甲をパチンと叩くのである。これが本当に痛そうな音が出て、けっこう効き目があるようで、息子はいつも目をうるましている。それ以上の悪いことをしたときには、息子を抱え込んで尻を思い切り叩く。どんなに息子が暴れようと、あの太い腕で押さえ込まれたら逃げる術はない。 この私でさえ、彼女との暴力沙汰は絶対に避けようと日頃から思うくらいだから、尻を叩かれる息子は、そうとう痛いらしく、ギャーギャーと声を上げ私に助けを求める。お仕置きが終わったら息子は必ずと言っていいほど私の所へ来て「どうして助けてくれないの?」と怒るが、「だから言ったろう、逆らうな! あれには俺も勝てないんだから」と真面目な顔して教えてやる。 そんなメイドさんに最近新しい恋人ができた。夕方になると、家の前まで迎えに来る。ある日の夕方、何気なく庭を眺めていた息子が、柵越し立っている男を見つけた。 「エンドーさん、あれってメイドの恋人じゃない?」 言われてカーテンの隙間から覗くと、なるほどデカイ男が立っている。 「間違いないな」と思わず納得して息子とうなずき合った。見ていると、ガレージの横から仕事を終えたメイドが、彼の待っている所へ駆け寄っていくと、いきなり抱き合ってキスし始めた。その迫力たるや凄いもので、「すげぇーな!」と息子と同時に声が出てしまった。 「ありゃープロレスだよ」と二人で大笑いした。こんな馬鹿な親子が暮らしていけるのもモザンビークである。 ********************************** 「バックナンバー2」へ 「バックナンバー4」へ戻る |