マプート便り

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******************************2004.02*
その13 盗電


 マプートは1月の中頃から雨が多くなってきた。これから雨季に入り3月末まで雨の多い時期となる。しかし日本の梅雨のような情緒はない。日中に雨が降ることはめったになく、たいがい夜間に降り、明け方に上がって、すこぶる快適な朝が来る。
 と言うのも、最近ここマプート市内の大気が以前に比べ急激に汚染されてきているからである。これはほとんど車の排気ガスによるものだろう。他に大気を汚染するような大きな工場などは全くない。
 私が当地に初めて来た1994年頃には、市内を走る車はわずかで主要道路を横断する時もさほど注意を払う必要はなかった。10年経った現在、市内を走る自動車の数は数十倍に膨れ上がった。ほとんどが中古車で、その80%が日本からのものである。
 当社も日本の中古車の販売を生業としているので、販売する時には点検しているが、ここ数年、販売店が急激に増え、また2年前まであった製造年月日から5年過ぎた車の輸入禁止の法律がなくなり、どんなに古くても輸入可能になったことで、ポンコツ車が平気で走るようになった。
 特に市民の足代わりのミニバス(ほとんどが日本のハイエースかキャラバンタイプのワゴン)が、ディーゼルの排気ガスを撒き散らして走っている。当地ではこのミニバスをシャパと呼んでいるが、そのほとんどが整備不良で余分な排気ガスを目いっぱい撒き散らし、それを規制するものはないので大気汚染にますます拍車が掛かってしまう。ちなみに乗車料金は市内であれば日本円で約20円。2年前は約8円だったのがインフレが進み現在の料金となった。
 以前は夜になると本当に綺麗な星空が見えたものだが、市内からは以前のような綺麗な星空もあまり見えなくなった。車の排気ガスのせいだけではないだろうが。
 発展途上国は電気代が高いと聞いているが、モザンビークも例外ではなく、国民所得の割にはべらぼうに電気代が高い。我が家と会社の事務所の電気代を合わせると月に5,200,000mtにもなる。日本円にすると約22,680円である。これは、我が社の中堅社員1カ月分の給料に相当する金額である。
 事務所の電気代は、家賃と一緒に大家に支払っているが、この大家が電気代を滞納してしまうから困る。2カ月も溜まると電気会社の係員が笑顔で現れ「電気代が支払われていないので止めます」と言い出す。私がいれば「今、支払ってくるから、ちょっと待ってくれ」と言って日本円で500円くらいの小遣いを渡してなんとかするのだが、いない時だと電気が止められ、事務所は暗がりになってしまう。
 一度小遣いをやったら味をしめたとみえ、支払い期日が過ぎるのを楽しみにしているかのように電気会社の係員が頻繁に現れるようになった。事務所の電気代がやけに高いので、メーターが故障しているか、盗電されているとしか思えないので、電気会社に掛け合ったが一向に調査する気配はない。
 先日も例のごとく電気会社の係員がニコニコ顔で現れ「止めます」と言い出した。「ちょっと待て!」と言い、大家に「毎月きちっと支払っているんだから、なんとかしろよ!」と大家に文句を言うと大家は見当違いの言い訳を始めた。
「生まれたばかりの双子がいるので少し止めるのを待ってくれ」
 私が交渉の矢面に立たないので係員は小遣いにならないと思ったのか「双子なんか珍しくもない、どこにだっているよ」と言ってしまったから大変、頭に血が昇った大家がいきなり係員を殴ってしまった。
 目の前の出来事だったので、慌てて「今、立て替えて払うから、暴れるな、な、な」となだめ、直ぐ秘書に支払いに行かせた。
 しかし、小遣いをせびりに来て、代わりにパンチをもらってしまった係員はふてくされてしまい、どういう手を使ったのかはしらないが、その後3日も電気を止めてしまった。社員に「電気代は払ったんだから電線をつないでしまえ!」と怒鳴ると、「電気会社に知り合いがいるからそいつにつないでもらおう」ということになった。
 2時間後、電気会社の技術者というのが現れ、支払済みの領収書を確認してから言った。
「電気代が高いだろう。安くなるようにメーターを取り替えてやろうか?」
 え!、と思い、「本当にできるのか?」確認の意味で聞き直した。
「小遣いをくれたらやってあげるよ」と金の交渉をしてきた。そう高くもない金額なので任せることにした。すると大きなバックから別の電気メーターを取り出し、手際よくメーターを取り替えてしまった。
 どうにも信用できないので「前と同じなら電気会社に通報してやるからな」と脅すと、
「よく見ろよ、メーターの回りが前よりゆっくりだろう」
 言われてメーターを見ると、以前はぶんぶん回っていたのがゆっくりとしか回っていない。
 なるほどと納得。後々ばれてしまうと大変なことになるので、その辺を確かめると、メーターの下に封印がしてあるから大丈夫だとのこと。なんでも裏があるものだとつくづく思い知らされた。
 ついでに自宅のメーターも取り替えてくれと頼んだが、すぐにはできないと言う。メーターを自宅に持ち帰り、分解して調整しなければならないので時間が掛かるのだ。結局、我が家のメーターは後回しになった。
 取りあえず、これは盗電には違いないが、何でもありのこの国で正義ぶっていても仕方ない。それに、こういうことは嫌いな方ではない。
 次は、電話代かな、水道代かな。電気代ができるのだから電話代もできるに違いない。以前、電話代の請求明細に通信先がカナダやインドやオーストラリアなど身に覚えのない国際電話代が記載され、6,000ドルも請求されたことがあった。
 当社の国際電話は日本と南アフリカしか用がないので、電話会社に交渉すると簡単に差し引いてくれた。しかし、それから3カ月間、同様の請求が来たのである。どこかの誰かが、何らかの方法で当社の電話番号を利用しているにちがいない。国際電話をチャラにする方法がきっとあるはずだと確信した。
 警官は子飼いがいるし、電気会社も子飼いが確保できた。さて今度は電話会社の技術者を探さねば。




******************************2004.1*
その12 真夏の大晦日


 本日12月31日。快晴、気温35度。このところ毎日30度は軽く越える日が続いており「夏だ、夏だ」の日を過ごしております。
 北国、北海道生まれの私としては、当地のクリスマスも雪が無いのと気温が30度を超える中ではなんのこっちゃとしか思えず、雪のあるクリスマスと正月が恋しく久々にホームシックにかかっている。
 気温が上がってくると、必ずと言っていいほど午後から強風が吹き抜け、街中のゴミや砂を巻き上げて市内の美観を損ねてしまう。単にゴミや砂だけを巻き上げるのなら問題ないが、時には街路樹をなぎ倒してしまうことがあり、先日も我が家の近くにある中央病院の歩道の街路樹が2本同時に倒れてしまった。可哀想なのはその木陰で客待ちをしていた2台のタクシーで、街路樹の下敷きとなりポンコツになってしまった。運転手は二人とも車外で居眠りをしていたので無事だったが。
 マプート市内の地盤はほとんどが砂地で、地下3メートルくらいから粘土質になる。そのうえポルトガルからの独立以来、街路樹の手入れが行き届かず枝が伸び放題になっている街路樹が多い。見た目は緑が多く美しいが、枝切を長年していない樹木、地盤は砂地、強風とくれば危険なのは当然である。
 だいぶ前に海岸通りの椰子の木が倒れ通行中の車を直撃したことがあった。車は大破、運転手は大怪我を負ったそうだ。おまけに当人は保険会社の社長だと言うではないか。「災いはいつやって来るか分らない」。まるでCMのような話である。
 こう言う場合、日本では市役所にでも掛け合えば何とかなるのだろうが、当地で掛け合ったら「それは気の毒に、それで?」と言われて終わりになる。
 今年はこれに似た話が沢山あり過ぎて人事とは思えない。今年の七月には我が息子がひき逃げされて大怪我をした。幸い、命に別状はなかったが、犯人は未だわからない。日本だと警察が出動し捜査が始まるが、当地では全くと言っていいほど警官は何もしない。目撃者は皆バラバラなことを言い収拾がつかないし、警官は「気の毒に」と言うだけである。
 息子の入院費や南アまでの輸送費等々、あまりの高額に「あ」と言ったまま卒倒しそうになった。石川啄木の詩に「働けど、働けど我が暮らし楽にならざる、じっと手を見る」とあるが私はどこを見たらいいか見当もつかない。
 そんな一年を振り返って眠れぬ30日の夜が明け、「さー大晦日だ、買い物に行くぞ」と息子に声をかけ、庭にとめてある車に乗りキーを回したがウンともスンともいわない。何だ?と思い、ボンネットを開けると、なんとバッテリーがなくなっている。柵の内側に止めてあった車からである、後ろの席の小さいガラスを外しドァーを開けて盗んである。息子が思わず「僕はモザンビーク人が大嫌いだ!」と言った。それを聞いて、まずいなと思い「そう言うな、俺はバッテリーを買う金は持っているが、泥棒は正月の金が必要だったのだから」とまるでキリスト様みたいなキザなこと言ってしまった。
 炎天下、徒歩でバッテリーを買いに出掛けると、市内は恒例の大晦日マラソン大会が始まっていて、去年と同じように大勢の市民が参加しては盛り上がっていた。「もしかしたら、この中に昨日の泥棒や息子をひき逃げした犯人がいるかもしれない」と思ったら、去年のように見る気になれなかった。
 ともかく今年の盗まれ納めが終わったと考えることにして、新しいバッテリーを取り付けたポンコツ車でスーパーに出掛けたら、普段の3倍もの人でごったがえしている。混雑と大晦日が重なって興奮したのか訳のわからない物まで買い込んでしまった。夜には親しい日本人を招待して食事をするので、早々と台所で料理の支度をしていると息子が手伝いながら「日本のばぁーちゃん、元気でいるかなー」と日本語で、言い出した。
 今年はまったく良いことがなく、強烈なホームシックにかかり、なにとか自分自身を抑えに抑えてきたのが、息子の一言でもろくも崩れそうになった。返事に詰まって、しばらくしてから「馬鹿野郎、ババァは、なかなか死なないんだよ。心臓にペースメーカーが入っているからロボットと同じだ」と怒鳴り返すと、私の顔を見て「エンドさん、なんで鼻垂らしてるの?」と言い出した。思わず鼻のところへ手をやると不覚にも鼻水がたれていた。「え、泣いてるの?」と息子は馬鹿にしたように言ってきた。うろたえて「ニンジンを切っているから目にしみるんだよ」と答えると「そりゃー玉ねぎだよ」と本気になって笑い始めた。
「親に向かって何てこと言うのだ!」と笑いながら怒ってみた。最近、親をからかうようになってきた息子といるのが結構楽しいのである。
 さてさて、来年はどんな年になるやら、1月20日が来ると当地での生活が丸10年過ぎて11年目に入る。気分を新たにして、ひたすら頑張る以外ないだろう、ゴールはまだまだ見えないのだから。


******************************2003.12*
その11 最近思うこと


 いよいよ暑くなってきたマプートである。
 ここモザンビークに住み始めて以来、ずっと気になっていて、最近特に考えるようになったことがある。それはボランティアのことである。日本では、流行のように猫も杓子もボランティアと言っているような気がするが、本来ボランティアというのは、西洋の貴族が余っている暇と金を恵まれない人に使ったことが元だと聞いたことがある。一番納得できる語源だと今でも思っているのだが、違うだろうか。
 どんな些細なことでも、人に役立つ行為がボランティアだろうが、私が今まで当地で見てきた日本やその他の国のボランティアは、一概に困っている人のためとは思えないものもある。
 見て感じたことを正直に書くには、けっこう勇気が要る。なぜならボランティアという錦の御旗に、もろに反することを書かなければならないからで、大多数の人から反感を買うことになるかもしれない。

 先頃、モザンビークの大統領が日本を訪問し、日本国首相から特別枠の国際援助予算を十億円頂いて話題になった。これが一番いい例で、我々庶民には想像もつかない金額が援助されることになったが、実際には三分の一程度の援助にしかならないのである。三分の二はそれに伴う経費として、どこかへ消える。それもアホみたいに高額な人件費にである。
 これと同様のことが、ボランティア団体にもいえる。断っておくが、ここで話題にしているのは、私が見た発展途上国でのボランティア活動のことである。発展途上国でのボランティアというと、なにか凄いことをやっていると思われがちだが、実は、それに伴う経費が馬鹿にならないし、また経費が掛かるのは当然と思われているふしもある。
 当地のボランティア団体に、日本のボランティア団体から善意のこもった寄付金が届いたので受け取りに行った、という担当者の言葉に唖然としたことがある。
 それは「こんな少ない金額でどうするの?」である。
 たぶん日本で集まった寄付金はもっと多かったのだろうが、色々な経費を差し引いたらわずかな金額しか残らなかったのだろう。金額の多寡は別として、こうした活動でも日本でのインパクトはけっこう大きなものだろう。しかし、それはほとんどの日本の人がモザンビークの内情を知らないので、すごい善意だと思うだけのことである。
 特に当地での日本人ボランティア団体の行為は、私が見ても「よく恥ずかしくないな」とあきれることを堂々と発表している。専門用語で飾られたどんなに立派な報告書でも、私に言わせれば「どうでもいいから、自分の金でここまで来て、自分で稼いだ金で、不幸だと思う人を助けてみれば」である。
 実際、そこまでする必要はないかも知れないが、わずか二・三ヶ月当地へ来て、わけもわからずに地方の人達の生活を見て「悲惨な生活をしている」と思い込んでしまう。  長年最貧国に住み慣れている私から見れば、悲惨でも何でもない生活なのに、日本と比べてしまうから悲惨に見えるだけのこと。現にわが社の社員の何人かの住宅には、電気も水道もない。携帯電話は、会社で(泥棒から買った)携帯を支給しているので持っているが、家には携帯に充電する電気がない。会社で皆が携帯に充電するので「電気泥棒」と冗談を言うが、何も悲惨なことはない。
 田舎に行くと子供達はみな半裸で鼻を垂らしているが肥満児はいない。一日一回は水浴びをして、見た目よりは清潔を保っているのだが、日本から来たボランティアの人にはそうは見えないらしい。
 以下は今まで書こうか書くまいか本当に迷っていたことだが、少し酒が入っているので書くことにする。
 2000年のモザンビーク大洪水の時に、逃げ遅れた妊婦が避難した木の上で出産したことがあった。なにせ50年ぶりの大水害で、各国の報道人が集まっていた最中の出来事だったので、格好の取材対象となった。たちまち世界中に大きく報道された。その結果、いの一番にアメリカのボランティア団体が、木の上で生まれた子供に大学までの奨学金を支給すると約束した。
 「そんな、ばかな!」私は思わず口に出してしまった。この国の人たちは、先進国のようにすぐに病院に行けるような人達ではなく、何事が起きても、自然の中で逞しく生きている人達である。たとえ産気づいても、付近に手伝う人がいなければ自力で出産する体力や知恵のある人達である。そんなことも知らず「木の上で生まれた子供に大学までの奨学金を出すことにしました」と声高らかに宣言してしまうのだから、笑ってしまった。
 追随するかのように日本のボランティア団体も、この木の上で生まれた子供の名前で基金を募った。ことの背景を知らない先進国(特に日本)で寄付をした人達は「なんと言う悲惨な所で出産したのだろう、生まれた子供の将来はどうなるのだろう」と、純粋にそう思ったに違いない。それは「何とかしてあげたい」という善意からだろうが、問題はそれを扱う方である。それを看板に「私達はこのような立派な活動をしています」と叫んでいるような気がしてならないのは私一人だけだろうか。
 要は「ボランティアを志したら、それによって収入を得ようとするな。人間誰しも自分の生活が第一だが、ボランティアで飯を食おうと思うな。そしてそれを、みだりに売名行為に使うな」である。
 九年前、モザンビークで私は日本のボランティア団体に所属していた、ある女性と知り合ったが、今でも彼女こそが真のボランティア精神を持った人だと思っている。わずかな報酬、過酷な条件の中の仕事、若い女性なのに化粧気などまるでなく、裸足にサンダルの跡がくっきりつくほど日焼けしていた。彼女が当地で仕事している最中に、ルワンダで悲惨な内戦が起こり、難民キャンプでは沢山の病人が出た。彼女は何事もないように「ちょっとルワンダに行って来るから」とバックパック一つで出かけて行った。
 後日、日本に帰った時、たまたま見たルワンダからのテレビ・ニュースに彼女が出ていた。インビューに答える彼女は恥ずかしそうにはにかみながら、「好きでやっていることですから」と話していた、けっして奢らず、言葉すくなに。彼女も、もう一児の母になっているはずである。


******************************2003.11*
その10 北へ1,700キロ


 先日、マプート市から北方1,700キロにあるザンベジ州のキリマネという街まで行った。販売した車の納車が目的で、めったに売れることがない四輪駆動の新車だったので、私が届けることにしたのだ。一口に1,700キロというが、東京から鹿児島の先までの距離に相当する。しかもここはモザンビークである。
 帰路は飛行機なので、けちな私としては航空運賃を考えて一人で行くと宣言したら、社員全員が「それは無謀だ。二人は連れて行ったほうがいい」と言って私一人で行くことに反対した。
 内心、「一人くらいは連れて行ったほうがいいかな」とは思ったが、「俺だったら二人でも行かない」とか「行くなら特別手当が欲しい」とか生意気なことを言い出した。
 意地になって、「絶対、俺一人で行く」と社員に宣言して「日本人はお前らと違うんだよ」と軽く牽制してやった。
 納車期限まで4日あるので、途中何事もなければ余裕を持って走れるが、夜は危険なので走れない。ましてや車は四輪駆動のピッカピッカの新車である。車泥棒がよだれを垂らして欲しがる車なので、昼間と言えども油断はできない。
 拳銃は持っていないので、せめての護身用にと刃渡り20センチのナイフを運転席の下へしまい、手製の木刀をドアの内側へ取り付け、朝6時にマプートを出発した。
 30分も走ると郊外に出てしまい一本道が続く。以前、約1,100キロ北のベイラというモザンビーク第二の都市まで車で行ったことがあるが、その先は今回が初めてである。以前と比べると道路が驚くほど整備され、新車ということもあって時速140キロで飛ばす。一度走り始めたら止めるのがおっくうになり、昼前には一気に600キロ地点のインニャーバーァーニァーと言う町に着いてしまった。この町は、以前、エビの買い付けの仕事で滞在したことがある。早めの昼食をとろうと久々に町の中をうろついたが、町の中は7年前とそう変わらず懐かしさがこみ上げてくる。(この町での悲惨な体験は、拙著『モザンビークの青い空』をお読みください)
 以前よく通ったレストランともバーともいえる店は閉鎖していたので、目についた小屋のような食堂で昼食を済ませ、再び走り出した。マプート市を出てから通り過ぎた町は以前とほとんど変わっていない。それに比べマプート市だけは異常なほどの変りようで、経済成長が一極集中しているのがハッキリと分る。それも各国の援助のお陰である。マプート近郊住む人たちの所得と地方に住む人たちの所得は相当な開きがある。
 そんなことを考えながら、ひたすら変化のない道を走る。スピードメーターはともかく燃料計に絶えず気を配らなければならない。燃料計のメーターが半分近くになるとガソリンスタンドで満タンにする。スタンドがある所で入れておかないと後々燃料切れになる。ただ、給油する時も油断は禁物だ。燃料タンクのフタを盗まれないように気をつけなければならない。うっかり怠ると、車のボディーのフタだけが閉められ、中のフタはスタンド従業員の小遣いに変わってしまう。
 その日は約900キロ走った地点のビランクールという町に一泊することにして、翌早朝、また北へ向かって出発した。北へ北へと走るので気温もだんだんと上がってくる。すれ違う車はほとんどなく道路脇の原野で野焼きの煙が上がっている。
 140キロという猛スピードで走るので、何かが飛び出して来ると一発で事故になる。野焼きの火が道路脇まで来ている地点に、おびただしい数の小鳥がいるので、思わずブレーキを踏む。スズメのような小さい鳥でもそれ相当のスピードでぶつかると、フロントガラスなど一発でコナゴナになってしまう。どうして火のそばに小鳥が集まるのだろうと不思議だったが、燃え広がる雑草から飛び出してくる昆虫を、道路脇で待ちかまえて食べているのだと分かった。
 道路脇にいるのは鳥だけではなく、人間もたまに見かける。人は遠くからでも判別できるのでそう危なくはないが、ほとんどが下半身丸出しで用を足しているので参ってしまう。大人も子供も男も女もである。おまけに愛想がよく、ほとんだ全員がしゃがんでケツ丸出しのまま手を振るので、応対に困ってしまう。後で聞いた話だと、ブッシュの中で用をたすと見通しがきかず危険なので、見通しのいい道路脇で用をたすのだそうだ。
 その日の夕方にモザンビークを二分する大河ザンベジ河の渡船場に着いた。時計を見ると午後5時ジャストだったが、河を渡るハシケは出たばかりだった。今日はもう渡れないのではとがっかりしていたら子供達が寄ってきて「大丈夫だよ、日が明るい内はハシケが動いているから」と教えてくれた。
 朝から一度も止まらず何も食べずトイレにも行かず走りぱなしだったので、車を近くの小屋のような食堂につけ、この日初めての食事とトイレを済ませた。ザンベジ河はモザンビークの人達の誇りであり国歌の歌詞にも登場する。源流はジンバブエの奥地で、ジンバブエとモザンビークと二つの国を横断しインド洋に流れ込んでいる。この渡船場での川幅は約1キロ、これから下流に行くと川幅が2キロの地点もあるそうだ。1時間もしたらハシケが戻ってきて車ごと乗船したのだが、なんとも心もとないオンボロで対岸に着くまで不安だった。河を渡ってしまったら残り250キロで目的地に着く。あたりはすっかり暗く、この先、目的地までは町らしいものはない。道路だけは、日本の国際援助で整備されているのが救いだ。闇夜で強盗に出遭うのが怖い、とにかく猛スピードで走る以外ない。
 午後9時半、遠くに目的地キリマネの町明かりが見えてきてほっとした。前もって連絡を入れてあったので、町はずれまで迎えの人が来てくれ、車を引き渡しひと仕事が終わった。正確に言うと2日間で1、740キロを走破したことになる。しかも交代ドライバーなしで。「俺もまだまだいけるな」と自分で自分を誉めたくなった。

******************************2003.10*
その9 日本の若者たち


 約二ヶ月間コラムが滞ってしまい、ご心配をおかけ致しました。
 愛用のパソコンがついに壊れ、FAXと電話機は事務所に入ったコソ泥に盗まれ、最悪の日々が続いていた。もともと血圧が高いので脳卒中でも起こしそうなくらい頭に血が昇ったが、泥棒が入った時に私が事務所に居なかったことを幸いと考えてなんとか気持ちを静めている。もし私が居たら、間違いなく乱闘になっただろう。泥棒が拳銃でも持っていたら確実にその日が私の命日になっていたはずだ。こんなふうに無理矢理自分を納得をさせなければならない国なのである。
 仕方ないので、パソコンは知り合いの泥棒から入手することにした。これも当地ではごく自然のことである。泥棒に依頼して入手するまで一ヶ月、彼はどこで調達するのか毎日のようにいろんなタイプのパソコを持ってきて、大変な騒ぎだった。
 彼の持ってくる膨大な数のパソコンの中に、タイプは古いがキーボートにひらがなが書いてあるのが一台だけあり、それを購入した。「どこで手に入れた?」と訊くと生意気にも「企業秘密だ」と言う。これがほんとの「泥棒にも三分の理」と言うやつかな。以前の持ち主の方ごめんなさい。
 八月の初め頃から、マプートに日本の若者の姿が目立つようになった。ほとんどが大学生で、夏休みを利用して国際ボランティアに参加する人やバックパッカーの旅行者だった。どういう訳か、この手の若者は女性が多く、男性はほとんどいない、今年は一人だけ男が来た。彼は国際ボランティアに短期参加のために来たのだが、無情にも空港に誰も迎えがいず、半分迷子状態で、まわりまわって私の所へ連絡がきた。彼はマプートより北のナンプラ州でボランティアを二週間する予定だったが、会話がおぼつかないし自分でもどう動けばよいのか分らないような状態だった。内心「大丈夫かいな」と思いつつも二日間我が家に居て北へ旅立って行った。
 その他にも将来国際協力の道に進みたいと考える若者がたくさん来るが、一様に現実の厳しさを知らないままやって来る。日本政府が実行している青年海外協力隊は、高学歴、高技術等が必要とされ、これに参加するのは非常に難しいらしい。だから当地へ国際援助もしくはボランティア活動で来る日本の若者は、ほとんど日本以外の国の団体所属でやって来る。彼らを見ていると、茶髪だ、援交だという日本国内での悪評が嘘のように思えてきて「今時の若者はなかなか頑張るな」と感心する。ただ外国の団体所属で来るため自分の考えと相違が出たり、生活環境があまりにも悲惨なために途中で団体から出てしまう人も多くいる。我が家はそういう人達の駆け込み寺状態になっていて、今までに何人かの若者の面倒をみてきた。
 私は、彼らより当然年齢が上で、日本でもまた当地でも人生経験が長いので、いろいろと話すが、皆、何がしかの参考にしようと真剣に聞いてくれる。でも、話の最後に必ず「これはあくまで俺の経験だから。結局、自分でぶつかってみなければ分からない」と付け加えるようにしている。
 彼らと話していると、日本政府が行っている国際援助システムは時代に合っていないような感じがする。多くの若者が発展途上国でボランティア活動をしたいと思っていても、政府の機関はハードルが高すぎて受からない。
 それでも国際援助機関で勉強したいという志をまっとうする道を探し出し、多くの日本の若者が当地へやって来るのである。もう少し日本政府の国際援助機関が採用の間口を広げれば、彼らの頑張りがもっと役立つはずである。先に紹介した北部のナンプラ州に行っていた若者は、帰国前にマプートに戻り、二日間我が家に居たが、行く前と帰ってきた時とは大違いで、たった二週間でこんなにも変わるものかと思うほど逞しくなっていた。色々な国の若者に揉まれ考えも変わったようだった。
 もし、このコラムを読んで下さっている方の中に国際援助を志望しながら、方向が分らない方がいたら、どうぞ遠慮なくご質問を下さい、分る範囲でお応えします。と言うのも詐欺まがいの外国のボランティア団体もあり、それに引っかかり大変な目に遭ったという話もよく聞くからである。
 当地は、いよいよ夏となり街路樹のジャカランタが綺麗な紫色をした花を咲かせている。間もなく脳味噌が沸騰するほどの猛烈な暑さとなる。不良親父としては週末海岸へ行くのが楽しみな季節でもある。
******************************2003.8*
その8 アフリカ全体会議に思う


 七月になり寒い日が続いている、ここマプートである。
 今年は例年よりも寒くなる時期が早く、六月末から乾季にもかかわらず雨が続き気温も最高二十四度、最底十二度となり、異常に寒い。普通七月中頃から気温が下がり八月中頃までが一番寒くなるのだが、世界的にも異常気象なのでモザンビークも例外ではないのだろう。
 七月四日からアフリカ全体会議が、ここマプートで開催され十二日まで続いた。この会議には、アフリカ諸国の国家元首が多数集まり、エイズ問題や貧困等のアフリカ諸国が抱えている問題について話し合いが持たれた。
 会議開催の前と会議中はマプート市内が一種のパニックとなり、至る所で警官と一般市民の小競り合いが起き、死者まで出てしまった。会議場の立派な建物を新築したり、道路を整備したり、周辺の環境を整えるため莫大な国家予算が費やされたのは間違いなく、よくそんな金が有ったものだと首を傾げてしまう。その前にやる事は沢山あるだろうと考える外国人は私一人だけではないはずだ。
 死者が出るほどの揉め事は、この国が社会主義国だった時代に、国家の債務代わりに旧東ドイツへ労働力として行かされた人々が、労働省に対して未払いの賃金を支払えとデモ行進したことによる。何度交渉しても埒があかないため、アフリカ全体会議を絶好のチャンスと見たデモ隊と警官が衝突し、馬鹿な警官が発砲し死者が出てしまった。
 アフリカ諸国の元首が通行する道は、今までになく綺麗に清掃され、路肩には花壇まで作られて、一時の清潔さを見せていた。その道路の裏側は、季節外れの雨で道は穴だらけで、汚水が溜まり悪臭が漂っている。アフリカ諸国の元首と言っても、アフリカ大陸の中で最も進んでいる国の参加は、エジプトと南アフリカだけで、後の諸国はモザンビークと大差はないと思うのだが。
 期間中一番美味しい思いをしたのは、警官たちだろう。街の至る所に出て、通行人や通行する車を検問し、ここぞとばかりに因縁をつけては金をせびり取っていた。
 私も車で通行中に検問され、ボンネットを開けさせられ、エンジンナンバーが刻印されていないと難癖をつけられたが、頑として「エンジンナンバーは刻印されている」と二時間頑張った。車のエンジンナンバーがどこに刻印されているのか素人には分からない、ましてオイルで汚れているエンジンだとなおさら分かりづらい。私はナンバーの位置はもちろん知っていたが、腹立たしさもあり、警官には教えず「自分で確認すれば」との態度でいた。警官は延々と車の下に潜り捜し回ったが見つからず「罰金を支払え」と言ってきた。
「どうして罰金なのだ? ナンバーが確認できれば問題ないのだな」と前置きしてから警官の襟首を捕まえるようにして、車の下に潜りエンジンナンバーの位置を指差し「ほら、ここに刻印してあるだろ」と教えてやった。さすがの警官も目を吊り上げて怒ったが「じゃーな」とその場を後にした。当地モザンビークでは「人を見たら泥棒と思え」ではなく「警官を見たら泥棒と思え」なのである。
 会議開催の一カ月前から市内をうろつく精神異常者やホームレスを捕まえ、河向こうの地域へ移動させる作業が政府の方針で始まり、これまた大変な騒動だった。マプート市内には精神に障害を持つ人がたくさんいて、朝早くから市内の大通りで頭にいろんな飾りをつけ頼みもしないのに交通整理をする人や、素っ裸で街を徘徊する者もいる。各国の元首の車に向かって裸で手でも振られたら国家の恥と思ったのかしらないが、とにかく歩いて街に戻れない所まで移すことになった。選ばれたのが河向こうのカテンベという地域で、ここはフェリーに乗るか、二百キロほど川沿いにいくしか行けない場所である。選ばれた地域こそ、えらい迷惑である。たいして広くもない地域に、収容施設も作らずに、おかしな移住者があふれ、住民はどうするのだろうと、他人事ながら心配になる。
 会議期間が終わった今、綺麗にされていた道路端の花壇からは、たちまち花が盗まれてなくなり、また以前と同じようにゴミが散らかっている。
 気がどっかにいっていた交通整理のおっさんはいなくなり、交差点では接触事故が多発している。下手な警官より、あのおっさんの方が交通整理はうまく、運転手も警官よりおっさんの指示に従っていたのに、なんとなく淋しく感じてしまう。市内主要道路の十字路で、物乞いをしていたお婆さんたちの姿も見なくなった。今頃、生活費はどうしているのだろう、といつも小銭を上げていた婆さんの身の上も心配になる。会社でその事を皆に話すと、皆が自分と同じ事を考えていたのには驚いた。
 精神障害者も物乞いも、この街の生活の一部となっている。最初は違和感もあったが、皆それぞれが寄り添って生活しているように思える。馬鹿な警官も、賄賂を取る役人も、泥棒連中も、彼らの被害に遭うのは嫌だが、この街の一部にはちがいない。
 先日、日本人同士の集まりで、その事を話題にしたら、皆に「もう、日本人でなくなっている」と言われてしまった。任期が終われば帰れる商社の駐在員でもなく、ましてや日本国から派遣されているわけでもない私だけが、今回のアフリカ全体会議を、底辺のモザンビーク人と同じ目の高さで見たのかもしれない。
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