マプート便り
【バックナンバー・1】
******************************2003.6* その7 婚約式と結婚式
六月に入りとても過ごしやすい季節となった。このところ、結婚式を挙げる人々が軒並み増えている。ここマプート市内の結婚登録所は、毎週土、日曜日になると、二十組くらいの新郎新婦がウエディングドレスにタキシードで着飾り、親戚や友人達のお祝いを受けている。以前は月に一組くらいしか見かけなかったものだが、生活が向上している証なのだろうと微笑ましく見ている。 結婚登録所で届け出を済ました新婚カップルは、なけなしの金をはたいて借りた乗用車に乗込み、市内へパレードに出掛ける。後ろには親戚一同を乗せたトラックが従う。トラックの荷台では、親戚や友人達が大声で祝いの歌を歌い、街中に渋滞を引き起こしながら、海岸の景色のいい所で記念写真を取りまくるのがだいたいのパターンである。 一口に結婚式と言ってもどこも同じで、花婿はそれ相当の金額が必要となる。結婚式を挙げられるのはある程度の地位にいる人で、他はたいてい婚約式だけで済ませることが多い。それでも結構な金額がかかるのは変わりない。先進国でも最貧国でも、婚約、結婚となれば男の一生一代の事業となるのは変わりないのである。 婚約式にも結婚式にも出たことがあるが、まぁー時間の長いこと「いいかげんしろよ」と声を上げたいくらいに長い。この手の式はたいがい午後三時ころから始まり、終わるのは翌日の明け方である。婚約式では、日本と同じく結納ような行事があるが、これが結納金が少ないとか、持参の品物が少ないとかいって、延々と五時間も続くのである。文句をつけるのは新婦側で、その文句に対して新郎側が言い訳をするのが慣例である。 気の短い私としては「ない物はないのだ」となぜ言えないのかとイライラしてくる。他人の婚約式に余計な口を出せないので、じっと時間が過ぎるのを耐えたことがあった。それ以来、結婚式、婚約式の類には出席しないことにしている。 わが社の社員の一人が結婚式を挙げると言って来たのは、三年前の四月だった、だが彼はとうに四十は過ぎている。 「何で今頃、式を挙げるのだ?」とたずねたところ、 「婚約式は十五年前に挙げたが結婚式はこれからだ」 となんとも間抜けな答えが帰って来た。 「ところで、いつ式を挙げるのだ」と聞くと十一月に挙げると言うではないか。七ヶ月後なら時間もあることだし「まぁー頑張れ」と言ったのが災いし、その後の七ヶ月の間、何回この社員を首にしようかと悩んだか知れない。 なにをとち狂ったのか私の許可が出たと、式の準備と称して無断欠勤はするし、当然のごとくに給料の三ヶ月分の前借りは言って来る。仕事どころではなく、毎日のように何がしか式の準備をしていた。式の一ヶ月前になると牛肉が安い隣国のスワジランドに行き、牛の頭を三個も買ってきた、しかも角は除いてあるが目がパッチリと開いている頭をである。 「まだ一ヶ月もあるのに腐ってしまうだろうが」とたずねたのが間違いの元で、彼はまたもや当然のごとく「社長の家にある冷凍庫に預かって」と言い出した。 わが家には中古だが、多少大き目な冷凍庫があるにはあるが、まさか牛の頭を入れる羽目になるとは思わなかった。それからの一ヶ月間、冷凍食品を取り出すたびに、三頭の愛らしい目をした牛とにらめっこをしなければならない状態が続き、式が近づくにしたがって前借り金も増え、これ以上貸すと一年間はただ働きなるほどの金額までになった頃、会社に見知らぬ女性が私を訪ねて来た。何だろうと話を聞くと、なんと結婚式を挙げる社員の恋人だと言い、しかも妊娠四ヶ月だと言うではないか。もちろん、彼の結婚相手とは別人である。逆算すると結婚式を挙げると宣言した後の出来事となる。いくら社長の私がチャランポランだと言っても、これはないだろうと怒ったが、柳に風、馬耳東風と言うやつで、逆に堕胎の金を貸してくれと言い出す始末である。彼の結婚式には当然行かなかったので、この顛末は社外や世間に知られずに済んだ。 五年ほど前になるが、某日本企業の男性現地職員が結婚式を挙げると言うので、私の友人の日本人社員が結婚式に出席したところ、花嫁は多少年がいっていたが以前にどこだかの副大臣を勤めたことのある女性だった。 これから先はその友人から聞いた話で実際に見たわけではない。さて、新郎新婦が入場して式場が緊張してきた時に、入口を勢いよく開け入って来た女性があり、背中に赤ん坊、片手に三才くらいの子供を連れていて、そして大声で「私はどうするの!」と叫んだそうだ。式場はパニック状態で、花嫁はその場に座り込んでしまうし、式場は一瞬にして修羅場と化し、私の友人はさっさと逃げ帰って来たと言っていた。 その後の話では、花婿は式こそ挙げていなかったものの事実上結婚していて、別れ話もしていなかったそうだ。ところがこの事件を当地のゴシップ記事専門の新聞が大見出しで記事にしてしまい、某日本企業の名前も出てしまった。ところが当の本人は「ノープロブレム」を連発するだけで、悪びれた様子は少しもないそうだ。 こういう話は日常茶飯事で何処にでも転がっているのがアフリカだと考えることにしている。花婿に他に女性がいたのとは逆に、花嫁が婚約式の夜に恋人と二人で結納の品物を持って逃げてしまった話も聞いたことがある。他人事なので笑っていられるが、本人にすれば泣くに泣けない状態だろう。 ここモザンビークはポルトガルの植民地だったので、南米のブラジルと習慣や文化が良く似ていて、アフリカ大陸の中でもラテン的で情熱的な雰囲気がある。そのせいでもないだろうが、男女間の交際は驚くほどオープンである。一人の男性に恋人が二人や三人いてもなんでもない。その逆もありで、女性に多数の恋人がいても何の問題も起きない。儒教の世界で長く生活していた私としては「そんなのありかー」と驚くことも未だにある。 そんな中で相手を一人に絞り婚約、結婚となると重大決心が必要だろうと思いがちだが、そうでもなさそうに見えるのは私だけだろうか。息子も今年十一歳になり、もう後五、六年たつと女の子に興味を持つ年頃となる、それを考えると今から気が重くなる。
******************************2003.5* その6 国際援助
四月も二十日が過ぎると、朝夕の気温が心地よいほど下がる。日中は三十度まで上がるが、夜クーラーをかけずに寝れるのが嬉しい。やっと、マプートにも、過ごしやすい秋の季節が来た。秋と言っても日本の秋とは全然違うが、何とか四季らしきものを捜して自己満足しているのである。 三月後半から、ここモザンビーク在の企業や大使館は人事の入替えで、多くの日本人が帰国してしまった。現在、首都マプートに暮している日本人は二十七、八名くらいまで減少している。モザンビーク全体でも日本人は、家族もいれてだいたい八十二、三名くらいと記憶している。これは私が来た九五年当時と変わらない数字で、いつまでたっても日本人の数は増えない。逆に当時ほとんど見られなかった中国人の数が爆発的に増えている。 市内は今建築ラッシュで一種のバブル状態である。十階以上の高いビルがざっと数えてみても五軒が建築中で、そのほとんどが商業ビルとなっている。その中の三軒のビルは中国の民間企業が建てている。はたして採算があうのか首を傾げてしまう。その中の一つは中国独特建築方式で、ビルの屋上というか屋根の部分が神社のような形をしていて、ビルの入口の両脇には驚くほど大きな狛犬が二匹、鎮座している。よその国の首都にこんな建物を建てて良いのだろうかと思うほどである。 モザンビーク外務省のビルも中国の国際援助で建築中だが、とても大きなビルで、多くの中国人が働いている。どうしてわざわざ中国から労働者を連れて来るのか分らなかったが、最近分った。彼らは中国の奥地からの出稼ぎで、賃金がモザンビーク人とたいして変わらないそうだ。 日本の国際援助で、昨年二月から市内に八校の小中学校が建てられていたが、今年三月に無事完成した。同時に八校もの学校を建てる日本の企業の方々の苦労は、並大抵ではなかったことだろう。この日本の建築会社の責任者の考え方は、今まで当地に来ていた日本企業の責任者とは全く違っていた。 「日本の援助で学校を建てるのだから、この建築に伴なうお金も地元に落とさなければならない」との考えで、外国企業は一切使わず、下請け建築会社は全部モザンビークの建築会社を使って工事を始め、労働者も全員モザンビーク人とした。 今までの日本の国際援助では、土木、建築の工事はほとんど隣国の南アフリカの企業を下請けとしていた。南アフリカの土木、建築は、先進国と遜色ない技術、設備が整っているので、南アフリカの建築会社を下請けとして使った方が仕事がしやすいはずである。しかし、そうすると、地元には、わずかの金しか落ちない。 今回は、建築費用、建築工法も援助の一部との考え方から、全下請け、現場労働者をモザンビークの企業およびモザンビーク人を使った。国際援助と言っても民間の建築会社なので、当然、利益を出さなければならないし、工事期間も決められている。この制限の中での仕事は大変な努力と忍耐が要求されるが、あえて、それに挑戦し完成まで漕ぎつけた。 日本企業の技術者の方々は、工事期間中、朝七時から現場に行き下請けの技術者の指導や労務管理、夜は事務所でデスクワークなど深夜まで働き、工事後半はほとんど休みなしでの一年間だった。その努力の甲斐があり、現在、マプート市内で、全部とはまだ言えないが、多くの子供が学校へ通えることになった。この学校完成に伴ない、日本から海外青年協力隊の派遣も決まり、日本人の教師が、この七月から派遣されモザンビークの子供達に勉強を教えることになる。こういう国際援助は日本ではあまり知られていないが、意義のある援助と思う。 もう一つ日本の国際援助の話を紹介すると井戸の開発援助がある。現在、首都マプートから北へ約千八百キロ地点のザンベジ州で日本企業が井戸を掘っている。これも悲惨な状況下での作業である。道なき道を何時間も車に揺られて入った奥地で、水も無ければ、電気もない。過酷な環境下の作業で、三ヶ月の間に日本人技術者のうち四人がマラリアに罹かってしまった。このプロジェクトは後一年間続くが、全部出来上がったら、この地域の人達はポリバケツ一杯の水を汲むのに二時間も山道を歩かなくとも済むことになる。 この二つの例だけではなく、もっと沢山あるのだが、最近印象に残った例を書いてみた。 日本の国際援助プロジェクトでの共通の悩みは、仕事の資材が盗まれることである。それも並外れて大量に盗まれる。先の学校建築に携った日本人責任者は最初「資材が盗まれるのも援助の一部」と呑気に構えていたが、工事の中盤から後半にかけて、盗まれる量、質とも高額になってくると「こんなに盗みが横行する国は初めてだ」と嘆いていた。 特に建築資材は家の資材と共用できるので現場のモザンビーク労働者は、あの手この手で資材を盗んで自宅の修復や新築にあてる。 百人近くの現地労働者を使い、八ヶ所の現場を管理するのは大変なことで、これを読んでいる方々はガードマンを雇い見張りさせればいいではないかと思われるだろうが、この国ではガードマンが一番危ないのである。以前、某商社の事務所から日本円にすると七百万円の現金が入った金庫が土日の間に消えてしまった事件があった。事務所はマンションの二階、入口は一つ、金庫の重さ約二百キロ、これが消えたのである。入口には二十四時間ガードマンが張り付いている。となれば犯人はガードマン以外考えられない。直ぐに犯人が捕まり、事なきを得たが万事がこれである。
******************************2003.3* その5 病院と祈祷師
話は昨年の七月末に戻るが、突然の高熱、下痢、悪寒が三拍子揃ってやってきた。マラリアが大安売りのモザンビークで、まだマラリアに罹かったことがないというのが自慢だったが、もろくも崩れてしまう。 ちょっとした病気なら行きつけの闇医者ですますのだが、マラリアとなればやはり専門の病院に行かざるを得ない。マプートに二軒ある外人専門の病院へ行った。 一度目の検査結果はマラリアではなかった。念のため、その日の夕方二度目の検査をしてもらったが、やはりマラリアではないと言う。 では何なのかと医者に聞いても首を傾げるだけで答えは出ない。症状はマラリアとまったく同じで、強烈な高熱が続き、それに伴ない激しい下痢、寒気。夜になると体温が上がり、四十度を越えた。 「これは駄目だ、このままでは真性の馬鹿になってしまう」 もう一軒の外人専門の病院へと向かった。受付で症状を話しマラリアの検査結果の書類を見せたら、受付の職員が、やおら「金はいくら持っている?」と聞く。とりあえず家にあるお金を持ってきたので「三百ドル持っている」と答えると「先に前金として三百ドルを払え」 何と失礼なやつだと思いながらも、言われる通りに金を支払い診察室に通された。そこには頼りなさそうな医者が寝ぼけ眼で座っており、ごく普通の診察をして「今日は入院していきなさい」と一言。注射一本打つわけでもなく、大量の薬をくれただけだ。昨日から何も食べていない胃袋に大量の薬を飲み込み、待合室の隅っこの簡易ベットに寝かされた。薬が効いたのかどうかは分らないが、朝になると少し熱が下がり身体が楽になったので、一旦、自宅へ戻ろうとして受付に行き、精算をしてもらった。精算書を見てびっくり、きっちりと三百ドルではないか、半泊で三百ドル。思わず「ここは一流ホテルか」と聞き直してしまった。 家に戻りベットで横になり病院からもらってきた大量の薬を見ながら、自分なりに何が原因なのか考えたが思い当たらない。その夜また熱が上がり始め四十度を越えたが、病院には行かなかった。水を飲むと十分しないうちに下痢が始まり、飲まずにいると脱水症状になってしまう。ベットで横になっている暇がない。頭から毛布をかぶり、ペットボトルの水を持ち、トイレの便座に座ったまま寝ていた。明け方、息子がトイレに入ってきて親父の異様な姿に驚き、思わず「あーあー」と叫んだ記憶が今でもある。 そんな日が三日も続いたので体力も落ち、おまけに喉まで脹れてきた。こうなると嫌が応うでも病院に行かざるを得ない、社員の運転する車で、料金だけは一流ホテル並みの病院へ行った。受付でまた「いくら金を持っている?」と聞かれ、今度は、二百ドルと答えたら「千ドルを前金として払え」と所持金の5倍の金額をふっかける。予め打ちあわせしていたので、秘書がやんわりと「今は緊急なので手持ちがない、でも後で会社から支払います」と上品に答えた。社長の私はひどく下品だが、秘書の女性はどんな時でも冷静に対処する。 今度は二人部屋の病室に寝かされ、点滴を打ちながら、またもや馬に食わせるほどの大量の薬を飲まされる。医者の診察はなく、ただひたすら点滴と大量の薬漬けの日が三日も続いた。病状は一向に良くならないばかりか、大量の薬のせいで胃袋が参ってしまい、胃痛が激しくなってきた。喉が痛くて食べ物が通らない悪循環が続いた。 入院四日目の朝、トイレの鏡でおのが姿を見て唖然とした。鏡の中の姿はやせ衰え顔や胸に青い斑点が幾つも出来ている。我ながらぞっとして「これは死んでしまう」と本気で思った。この国では病院で治療を受けていても、ポックリ死んでしまう人がたくさんいる。 「こんな所にいたら死ぬかもしれない」 腕から点滴の針を抜き、着替えて、受付で「精算だ!」と叫ぶと、看護婦が「先生の許可なしでは退院できません」と騒いだが、「うるせー、俺を殺す気か」と日本語で怒鳴り、精算書を見てまたもやびっくり、きっちり二百ドルとなっていた。あの千ドルは何だったのだろう。 「ふざけた病院だ」と悪態を吐き、迎えの車で自宅へ戻った。戻ってはみたが、なんら対処の方法が分らない。 「南アフリカの病院行くしかないか。でも自分の体だし、やれることはやってみよう」と決めた。まずは熱を下げるため日本製の解熱剤の座薬を打ち、次に大量の薬で傷んだ胃を治すために、とにかく食物を食べようとした。しかし、喉の脹れがひどく水しか入らない。そこで日本から持参したうがい薬で二時間おきにうがいを続け、これも飲み過ぎに効く日本製の市販の胃薬を二時間おきに飲んだ。 そのうちに、死にぞこないの父親を見るに見かねて、息子が実家から息子のお婆さんを呼んできた。このお婆さんは祈祷師を生業としている。 「こうなれば豚の頭でも、山羊の頭でも拝んで直るならなんでもいい、もうすぐ自分の書いた本が日本で出版されるのに、それを見ずに死んでたまるか」と半分開き直って、息子の好意を素直に受けることにした。 祈祷師の婆様は、ベットの横で何やらヒョウの毛皮や太鼓を用意し、私の腕を掴み延々二時間も唸り続け、こっちが疲れてしまう頃に持参したペットボトルの水を飲むように言った。その水の塩辛いこと、高血圧の病状が悪化すのではと心配するほどだ。その後、婆様が小さい鉄製のお盆を出し、その中の炭火の上に何やら鉋屑のようなものを置くとモクモクと煙が出始めた。毛布をかぶりその煙を吸えと言う。「ここまで来たら何でも言うこと聞きます」の精神でむせながら煙を吸った。息子はと言えば、婆様の手伝いで太鼓をドンドコ叩いていやがる。 こんな涙が出るほどの努力と根性の賜物かどうかは分らないが、原因不明の病気も日が経つにつれ良くなり、何とか死なずに自分の書いた本も手にする事が出来た。 あれから半年、本当に病気の原因は何だったのだろう。一つだけ思い当たる事があるが、他の日本人に言っても馬鹿にされるだけなのでここには書かない。ウィルス性の病気ではないと確信している。
******************************2003.5.2* その4 マプートのペット
今年に入ってから何かにつけて良い事が起きない。まぁー何でもありの国に住んでいると良い事なぞ起きるわけもない。ただ今夏の盛りで毎日、気温三十五、六度と暑い日が続いて、それでなくとも思考力が鈍ってくる。週末の土、日曜の海岸は大勢の人達で賑やかになっていてビキニスタイルと言うよりも、ティーバックの水着を着けた若い娘が、ここぞとばかりにたくさん闊歩している。今でこそ若い娘のティーバックの水着姿を見てもあまりドキとしないが、当地へ来たばかりの頃はドキドキしたものである。とにかくこの国の女性はスタイルだけは抜群で、隣国のジンバブエ、南アフリカ等の女性と比べるとサラブレットと農耕馬くらいの差がある。そんな海岸へ毎度、濃い目のサングラスをかけて出かけるのにも飽きてきて、週末は家で冷房をガンガン効かせゴロ寝することにしている。そんなある日曜日に息子がスイミングスクールの帰りに一匹の子猫を拾ってきた。 息子は生き物が大好きで以前に「ひよこ」を、どこからか拾ってきたことがあった。 当国では、鶏は大事な食料で、捨てひよこなんぞいるわけがないのに、 「家で飼ってもいい? そして大きくなったら食べようよ」などと、およそ日本の子供だったら想像もつかないことを言い出す。 「馬鹿、拾った所へ戻してこい、飼い主がいる筈だ」と嫌がる息子を叱り、元へ戻させたことがある。 「今度は猫か…」とうんざりしながら、まだ目も開かない子猫を見るとなかなか可愛い顔している。その子猫を床に置いた瞬間、我が家で飼っている、マルチーズ犬の菊が、さっと子猫をくわえて自分の寝床に持っていってしまった。 「こらー菊、食い物じゃねーよ」と怒鳴りながら菊の寝床に近づくと、子猫を抱きかかえて「うーうー」と威嚇するのである。 我が家の家族構成は、マルチーズ犬の二郎と菊の夫婦、それに私とモザンビーク人の養子の男の子であった。ところが、約二ヶ月前に犬の二郎が家出してしまった。近所の雌犬が放つ臭いに誘惑され、庭の堅牢な柵をしゃにむり乗り越えて行ってしまった。それ以来消息不明のままである。 残された雌の菊は元気がなかったが、子猫を見てがぜん張り切り、母親になってしまった。子犬がいないので出るはずがない母乳が出て、子猫は犬の母乳で育っている。不思議なものだと感心してしまうが、猫の爪は鋭いので菊は乳房から血を流しながら授乳している。そんな菊の姿を見ていると犬は飼い主に似ると言うが、本当だとつくづく思い知らされる。二郎は雌犬の色香に惑わされ行方不明になるし、菊は自分の子でもない子猫に血だらけになりながら一生懸命にオッパイを飲ませ育てている。二匹の行動を見ていると、おのれを見ているようで嫌になる。 ペットと言えば、この国へ来たばかりの頃は、犬を飼っている家は外国人の家だけだった。一般のモザンビーク人の家庭では飼い犬は見たことがなかった。仕事でこの国に来ている外国人が大型犬を番犬として飼っていたが、ペット用の小型犬はほとんどといっていいほどいなかった。したがって野良犬も皆無だった。まぁー野良犬がうろうろしているとすぐに捕まって食べられてしまっただろうが。猫に関しては全く見たことがなかった。ペットを飼う余裕なんぞ一般家庭ではあるわけがない。 現在は、多くの外国人が残して行った犬や猫が少し余裕のある一般家庭でも飼われている。ただ、ごくまれに野良猫を家の近所で見かけるが、家庭で飼われているのは見たことがない。国連関係の仕事で当地にいたデンマークの女性が仕事を終えて帰国する時に、飼っていた犬を獣医さんに頼み、薬殺していったことがある。立派な大型犬だった。きっと適当な引きとり手が見つからなかったのと、当地の人に託すのは忍びなかったのだろうと考えることにしている。愛情をかけて育てたペットの飼い主が変わり、より良い環境で暮せるならばそれが一番いいことなのだが、この国の人に託すとそれは望めない、なんとなく悲しい話だ。 我が家の付近にも野良猫がいるのだが滅多に見かけない。この野良猫が今我が家にいる子猫の親だろうと想像はつく。この野良猫が意外なことを教えてくれた。我が家の裏口に洗濯場と使用人用の部屋があり、小さいが庭のようになっている。そこに自家製の干物を干す場所を作ってある。何年アフリカに住んでいても食べ物だけは日本食に近い物が食べたい、ということで冷凍のアジを買って来ては自家製の干物を作っているのだ。 そのスペースの端にゴミ箱を置いてあるのだが、朝になるとそのゴミ箱がひっくり返されゴミが散乱していることがある。最初はネズミの仕業かと思っていたが、野ネズミは見たことがない。思いつくのは、たまに見かける野良猫くらいだが、ゴミ箱へ近づくにはアジを干してある網箱の側を通らなければならない。しかし、アジは無事だ。大好物の魚には見向きもしないでゴミ箱をあさる猫なんているだろうか、と悪い頭でしばらく考えた結果、結論が出た。 街中にいる野良猫の食料は人間が出す残飯、野ネズミに限られている。当地の人は肉食で魚は滅多に食べない。したがって猫も魚には興味がないのかもしれない。どうやら人間の食生活に応じて猫の食べ物も変わるらしい。日本人の先入観で、猫の好物は魚だと思い込んでいたが、食べたことのない物には何の反応も示さないのは当たり前である、これで一つ利口になれた。 ちなみに、我が家の新しい家族、雌子猫の名前は「ネコリーナ」と命名した。
******************************2003.1* その3 マプートの年末
十二月も十日も過ぎると、とりあえず少しは慌ただしい感じが、この何に対してものんびり過ぎる国でもしてくる。クリスマスが年末の最大イベントで、それを迎えるために慌ただしくなるのだが、食料品の便乗値上げにはたまらない。それに、陸路の南アフリカとの国境が驚くほど混み出す。十二月十日を過ぎると国境を越えるのに四時間は軽く掛かる。これは南アフリカに出稼ぎに行っているモザンビーク人が、クリスマス休暇でいっせいに故郷へ戻るからである。大型バスに満杯に乗り、バスの屋根にはベットのマットレスを始め、ありとあらゆる故郷へのお土産を積んで戻って来る。一年に一度の故郷への里帰りなので、家族へのお土産と、自分達の故郷ではなかなか手に入らない品物を持てるだけ持っての里帰りとなる。ただ悲しいことにこの時期にバスの交通事故が多発し、一度の事故で死者数十人も出ることがある。ほとんどと言っていいほど保証はされない、また予防策もなんら取られていないのが残念なことだ。 例年、年末になると犯罪が、ここマプート市内でも多発し街中物騒になる。泥棒が活躍する時期で、引ったくり、空き巣狙い、抱き着き強盗、拳銃強盗等、犯罪の見本市状況となる。それに加え警官がしょっちゅう酔っ払って持っている銃をぶっ放すので危険極まりない。でも、今年は警察署自体が改革を実施中で気合の入ったことを始めた。年末警戒を始めていて、街中、至る所に警官が二人一組になってパトロールしている。こんなことは、はじめて出くわす光景で「少しはこの国も進んできたなー」と感じる。 クリスマスが近づくと街のメーインストリートにはネオンサインが飾られ、クリスマスの雰囲気を盛り上げている。この時期、どこのディスコも連日満員となる、季節は夏真っ盛り、肌もあらわにした若い女性が気でも狂ったかのように踊りまくる。不良親父としては、最も好きな時期でディスコの薄暗い隅に陣取り、難聴になるのではないかと思うほどのやかましい音楽にもめげずに、鼻の下を伸ばしてビールを飲みまくるのである。やがて朝日がディスコの壁から射し込む頃、馬鹿でかい音楽から開放され、酔いと難聴でふらふらしながら家路につく。クリスマスシーズン中この繰り返しの日々が続く。当然、当社の社員達も同じで十二月二十日を過ぎると全くと言っていいほど仕事にならん。 十二月三十一日にはマプート市内で、市民マラソン大会が開かれることになっていて、優勝者、二位、三位までに普通のモザンビーク人の年収と同額くらいの賞金が出ることになっている。 その賞金額やマラソン大会のコマーシャルを連日テレビで放映しているので、皆が賞金目指してトレーニングを始めている。普段、街中を走っている人は、物を盗んで逃げる泥棒と見られるのだが、色々な人が走り始める。日中は気温が高く暑いので夕方薄暗くなり気温も下がった頃に走りまわる。それもトレーニング姿ではなく、普段着で走りまわるので一瞬「泥棒が逃げている」と勘違いし、身構えるたびに思わず苦笑してしまう。 そして、三十一日午後四時、マラソン大会は予定どうり始まった。 別にマラソンを見に行った訳ではないが、車で買い物を行った帰りに、このマラソン大会に出くわしてしまった。全市のほとんどの道が封鎖され、好むと好まざるにかかわらず見物するはめになってしまい、延々二時間半、暑い中走る選手達を見ていた。主力選手達の先頭集団が勢い良く走り去り、後続には一般市民が楽しみながら走っている。沿道でそれを見守る市民も、その走る姿に声援を送る。 息子と二人でその光景を見ていて、なにかしら胸が熱くなってきた。内戦終結の復興が始まってから約十年、まだ地方へ行くと地雷が埋まっている地域もあるが、同じアフリカ大陸諸国の中には未だ内戦、和平の繰り返しが続いている国もあり、それに伴ない飢餓、病気、難民等の多くの問題を抱えている。この国は世界最貧国グループからは未だ脱出できてはいないが、最貧国でも平和であればそれで十分ではないか。資源が豊富にあったりすると先進国の利権争いに巻き込まれ、いやがおうでも争いが起こる。幸か不幸かこの国にはたいした資源は無い、あるのは広大な農業に向いた大地、山林、それとインド洋に面した海岸、人が人らしく生きていく上での必要自然は充分にある。楽しそうにマラソンを楽しむ人々を見ながらそんなことを考えていた。 そして他の見物人と同じように、走り去る選手に向かって訳の分らないポルトガル語の声援をおくった。
******************************2002.12* その2 マプートのゴミ騒動
ここモザンビークも十月に入り春の時期となり、街路樹のジャカランタが綺麗な紫色の花を咲かせています。日本の桜と同じ感じがして、この花が散る頃には暑い日が続くようになるのです。気温三十五度以上の日が続き、決まって午後から風が強くなり、街中に砂塵とゴミが舞うようになる。砂塵は仕方ないとしても、このゴミが街中をフアフアと舞うのにはたまらない。買い物に使うビニール袋が、風に飛ばされ電線や看板などに引っ掛かり、街中の美観を損ねてしまう。ゴミの収集は一定期間に行われてはいるのだが、収集場所にあるゴミ箱の容量以上のゴミを、その収集場所に置いて行ってしまう。 出すゴミの仕分けなぞ決まっているわけもなく、生ゴミ、ビン、プラスチックなど何でもいっしょくたんに各家庭から出てくる。収集車は三日に一度くらいのペースで回っているが、その間にホームレスの方々がそのゴミ収集箱の生ゴミを漁ってしまう。これは昼も夜もなく、しょっちゅう漁っていて、最後にはゴミ収集箱をひっくり返してしまう。ゴミは周りの道路に広がり異臭が漂い、風が吹くとビニール袋が舞い上がる。周りに住んでいる住人も諦めているのか、なんの手を打つわけでもない。 これからの季節、このゴミのせいばかりではないが、コレラのシーズンに入る。毎年恒例の季節で、別段驚かなくなってしまった。日本でお住まいの皆様は「コレラ」と聞くとぎょっとされるだろうが、最近は薬や医療の発達で適切な治療を受ければコレラに罹かってもなかなか死なない。ただ、高熱と激しい下痢は付き物だが。 一昨年の夏のシーズンはコレラが大流行して、ここマプート市内にもコレラ患者が溢れかえった。市内の一番大きなマプート中央病院も入院患者を収容しきれず、患者が点滴のビンを持ち、病院の外をうろうろしている光景に出くわした時は、さすがに何でもありの私も焦り、事務所と自宅に漂白剤を大量に持ち込み、社員全員で事務所、自宅の食器や机、テーブル等などを拭き掃除させた。市内のレストランのメニューからサラダの項目がいっせいに外され、家庭でも生野菜は一切口にしないようにして季節を乗り越えた覚えがある。 今年の三月に市内のゴミ収集の作業が一斉に止まってしまい、街中がゴミだらけになり、異臭が漂い、とても不快な時期があった。ゴミ収集の仕事は以前から南アフリカの業者が請け負っていたのだが、この下請け業者に対して市役所側の支払いが六ヶ月も滞納していて、業者側がふてくされてゴミの収集をしなくなってしまったのだ。 これは、マプート市でも結構な問題となり、解決に向かい市役所側も慌てて対策を講じたのだが、なにせ金の支払いが先決となり、ない金をどうやって捻出するかに時間が掛かり、その後、約一ヶ月もゴミの収集が滞り街中ゴミだらけになってしまった。我が家は幸運にもイギリス大使館の向かいにあり、しかも大使館側の道路にゴミの収集場所があったため、あまりの異臭に慌てたイギリス大使館が自前でトラックを雇いゴミを運んでくれた。そのおかげで我家ではたいした異臭もなくすんだ。 一ヶ月後、支払いを受けた業者が、昼夜を問わずにゴミを集め、その十日後に少しは綺麗になった。その後の新聞発表で市役所のゴミ担当の一番偉いのがクビになってしまった。業者に支払うお金を着服して家を建ててしまったそうだ。
******************************2002.11* その1 久しぶりのニッポン
八月の末から九月の初めにかけて一年ぶりに日本へ戻った。養子のモザンビーク人の息子を連れて、またもや珍道中になり、疲れをとりに故郷へ戻ったのが、逆に疲れて帰ってきた。
生涯、本など出版できるなんて夢にも思わなかったことが現実となり、その本の行き先を見たいのと、出来上がったばかりの本を手にとってみたいとの思いもあり、日本への一時帰国となったのである。 吉祥寺の出窓社で、自分の本を受け取った時は本当に感激したが、札幌の実家に戻り、老いた母に、 「どうだ、あんたの息子が書いた本だよ」と得意げに渡したところ、 母曰く「こんな立派な本をお前が書くわけがない」 といきなり言われてしまった。 「いやっ、本のここに遠藤昭夫と書いてあるだろうが」 と必死に説明したが、頑として母は信じてくれないばかりか、 「お前は小さい時から頭が悪かったのに、こんな本なぞ書けるわけがない。誰かに書いてもらった本を自分の名前で出版するなんて、私はお前を詐欺師に育てた覚えはない」 と自分の息子を詐欺師呼ばわりする。 そのうちに、そばにいた姉までが「ほんとにお前が書いたの?」と言い出す始末。 その後の説明で、姉やその他の兄弟は分ってくれたが、老いた母は未だ信じてはいない、情けない話だ。 久しぶりの日本だったが、東京の暑さには私も息子もへたばってしまった。日本での定宿にしているホテルも安ホテルのためか冷房もたいして効かない。これでは、モザンビークのほうがよっぽど過ごしやすい。 さっそくホテルの近くにある本屋に自分の本があるかどうかを見に行った。三、四軒回ってみたが、どこにもなくがっかりした。そのうちにどこかの本屋さんで見ることもあるだろうと気を取り直し、宿を埼玉の姉の家へと移した。 姉には男の子の孫が三人いて、彼らの父親(すなわち私の甥っ子)が、昔から野球狂で、子供達にも強制的に野球をやらせている。 一番下の子とわが馬鹿息子が同い年である。日曜日に少年野球の練習があるというので、息子は喜んでついて行った。大丈夫かなと思ったが、そのうち体のどこかにボールでもぶつけて帰って来るだろうと思い、ほおっておいた。 ちなみに、モザンビークの子供達は野球を知らない。スポーツと言えばサッカーか陸上、空手、柔道、テニスくらいなもので、野球の原形のクリケットはあるにはあるが、実際に競技をしているのは見たことがない。小さなボールを手で投げるという行為が、全くと言っていいほどできないのである。息子も同様でボールを手で投げることはできなかった。 昼近くになっても帰ってこない。少し気になり、姉と二人で近くの小学校のグランドへ出かけてみた。行ってびっくり、なんと息子が他の子供達と一緒になってキャッチボールをしているではないか。その姿が他の子供達と比べてもなんの違和感がない。わずかな時間で慣れてしまっている。 変に感心していると、そのうちにバッティングの練習となり、最後のほうで指導者の方が息子にも打つよう指示した。これは駄目だ、恐がって打てないだろうと見ていたら、ヘルメットをかぶって、それなりの格好をした息子がバッターボックスに立ち、構えた姿もさまになっている。ただバットを持つ手が右左逆になっていた。慌てて、ポルトガル語で手が逆だと大きな声で叫んでしまった。持ち手を正常に持ち替え、飛んでくるボールにも怖がらずにバットを振りだした。最初の二、三球は空振りしたが、後のボールはほとんどジャストミートした。それを見ていて「こいつは野球に向いているのかも」と思ってしまった。 その後、二時間くらいで練習も終わり、あとかたずけの時に息子がいちばんよく働き、見ていても気持ちがよかった。最後に全員が整列した時にも、列の端に並び帽子を取り、指導者に向かい「有り難うございました」と、他の子供と一緒に大きな声を張り上げおじぎをしていた。子供というものは、少しの時間で異国の風習に慣れてしまうものだとつくづく感心した。めったに息子を誉めることのない私だが、この時ばかりは「お前はすごいなー」と誉めてやった。 指導者の方にお礼を言って帰ろうとしたら、その方が「いつまで居るのですか?」と聞いてきた。 「あと、二三日で帰りますが」と答えると、 「本格的に野球をするとこの子はいい所までいきそうですよ。日本の学校へ入れるならこの近所に来て下さい。うちのチームで欲しいですから」と言われてしまい、人間、何か取り得があるものだと息子を見直した。 実は、今回の帰国には、もう一つ目的があったのである。それは、現在10歳になるモザンビーク人の息子に、日本で教育を受けさせたいと思い、その手続きなどを調べたかったのである。 モザンビークへ帰る当日、どうしても自分の本が書店に並べられている所を一目見たく、東京駅八重洲口にある八重洲ブックセンターへ立寄った。中が広いので息子と二人で手分けして捜していたら、「エンドーさん、あったよ! ここにあるよ!」 馬鹿息子が大声で叫び出した。 大勢の他の客は何事が起こったのかと黒人の子供を遠巻きに見ている。 慌てて声のする方へ行き「馬鹿、静かにしろ!」と拳固をくれた。 はたして息子が指差す所を見ると、確かにあった。 「日本でも一番か二番に大きな本屋に置いてある」 と感激したり、少し照れくさかったりした。
久しぶりに日本へ帰ると、モザンビークに帰るのが億劫になる。成田を出る寸前まで日本に未練たっぷりで、香港でもまだ日本行きの飛行機に乗ってしまおうか、なんて考えていた。 それが、マプート空港に着き、出迎えの車に乗って混雑している市内に入ったとたん、「あーあやっぱりいいやー」と安心したのは何ナノだろう。 **********************************
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