いつのころだったか、雑木林のなかに住んでみたいと想うようになった。きっかけのひとつとなったのは、「今朝の秋」というテレビ番組だった。
蓼科を舞台とした物語で、笠智衆と杉村春子のいぶし銀のような淡々とした演技とともに、黄色が主体となった晩秋の風景と、死と向き合う家族の心境が心に沁みた。柄にもなく、わたしもいつか、自然の移ろいのなかに身を置いてみたい。そう思ったのだ。
あれは、磐座を本格的に訪ね始めたころと重なるようにも思える。
八ヶ岳南麓、標高1250メートルの雑木林に出会ったのは、50歳を過ぎたころ、まだ現役の「企業戦士」だった。
境界の西を沢が流れ、ゆるい高低があり、変化に富んだ地形だった。樹木も多彩で、訪ねたその日、迷いなく即断した。ただ、久しく人の手が入っておらず、藪のような状態だった。それがかえってよかった。雑木林を残しながら、「磐座」が点在するような石の庭をつくろうと思ったのだ。まず、家を建てる場所の縄張りをし、敷地を歩きながら散策路を決めた。そうしたデッサンができたうえで、敷地からでてくる石を、自らの想いをぶつけるようにひとつひとつ据えていった。そのなかからふたつ「作品」を紹介したい。
ひとつは、移り住んで初めて試みた石組。苔むした石を、八ヶ岳連峰の権現岳に向けて、それぞれが礼拝しているように据えてみた。八ヶ岳は、磐長姫を神霊とするが、醜女として知られ、山の神のモデルとされる神でもある。『記・紀』では、天孫のみならず、人の寿命をも短命にした霊力の強い神として知られる。が、邇邇芸命に見初められた美貌の妹・木花之佐久夜毘売とくらべ、その影は薄い。
もうひとつは、石を組むという意識を明確にもち、磐座をイメージしながら据えたものだ。どちらも馴染みの庭師さんの手を借りながら、「あーだ、こーだ」といいながら形にした。日本最古の造園書である『作庭記』に、「石の乞はんにしたがふ」という言葉がある。石を据えるには、まず主要な石を立て、次はその石が「望むように」立てていきなさいというのだ。いわば、石の意のままに……ということだが、この「石の意」というのがなんとも難しい。写真にある石組もそのようにしたつもりだが、どう思われるだろうか。だれに見せるわけでもないのだが、晴れた日は、庭作業のかたわら、ひねもす、石を眺め、石を据えている。
(平成30年10月10日) TOPへ
八ヶ岳南麓に家を建てたとき、和室に面した坪庭に、飛石を打った。そのとき、庭の師匠でもある「作庭処かわぐち」の川口さんが、関守石をプレゼントしてくれた。球形に近い座りのよい石で、置いたときから坪庭の景色が引き締まり、辺りの空気が「ぴーん」と張りつめたように感じた。画竜点睛とは、このようなことか、そう思った。
ここから先には行かないでほしい……と、さりげなく訴えている小さな石。茶室という聖域に至る道すがら、飛石などの岐路に、据えられる石のことで、関守石と呼ばれる。内と外、聖と俗とを区切る「結界石」でもあるという。跨ごうと思えば、跨ぐことができるのだが、誰もそれをしない。というより、できないのだ。それをしないことで、無言のまま、本来の正しい道に導いてくれる。阿吽の呼吸、言わずもがなの世界がそこにある。
関所を守る「関守」に由来するというが、留め石、置石、関石とも。この思想は、茶庭の手水鉢にも当てはまるという。手水することによって、心身の穢れをすすぐことを意味し、心のけじめ(結界)をつけ、禊に通じる。始まりは千利休とされているが、利休のころは、このような形ではなく、壺や香炉を「関」の印として茶室の入口に置き、また、単に飛石の上に小石を二個のせただけと伝わる。
神代の昔、亡くなった伊邪那美を黄泉の国に訪ねた伊邪那岐は、穢れたイザナミから逃れるため、黄泉の国との境を、巨大な「千引の石で塞いだ。ここから先に来てはならない、本来居るべきところに留まってほしいと、この世とあの世の結界を巨石に託したのだ。その大きさは比べようもないが、ここに、関守石の原点をみる。そうしたことが、邪神の侵入を防ぐ塞神や集落の境を守る道祖神に通じ、聖と俗とを結界する関守石に繋がっているのだろう。
さて、我が家の関守石。赤子の頭ほどの丸石を、ワラビ縄で四方結びにしたもので、結び手がチョンマゲのようにひょいと立ち上がっている。簡素な作りながら、味わい深く、凛とした気品が漂う。小さいけれど、周りの風景に溶け込み、その存在感を訴えている。だれもがもち運びができる大きさでありながら、それなりの重さがあり、安定感がある。実と美を兼ね備えた優れものだ。あくまでもさりげなく、でもその「心」が理解できなければ意味をなさない。心のけじめを小さな石に託したもの、それが関守石だと理解する。(令和元年6月25日) TOPへ
庭の一角に、頬っぺたをふくらませ、にこにこと笑いながら、首を傾げるようにちょこんと立っている神さんがいる。握り飯のような顔をしているが、タノカンサア(田の神さあ)を模したと思われる石の像だ。後ろにまわると、男のシンボルを想わせる愛嬌者で、思わず手を合わせたくなる。九州の産だというが、それ以上のことはわからない。たまたま縁があって、はるばる八ヶ岳の山中に来てもらったが、環境の変化に驚いていることだろう。名の通り、田んぼのあぜ道などに祀られた石の像で、田んぼを守り、豊作を願う神として信仰されている。
調べてみると、かつての薩摩藩(南九州)を中心とした事例が数多く紹介されており、さらに大護八郎の『石神信仰』に詳しい報告がまとめられている。それによると、比較的新しい神さんで、江戸中期に薩摩藩領で発生したものらしい。大護は「近世に入って諸々の石神が全国的に造立されるようになったにもかかわらず、その姿を本州に見ることはほとんどない」とし、「旧島津藩領に数多くの丸彫りを主とした田の神像があることは、石神信仰の上から極めて注目すべきこと」と記している。さまざまな形があるようで、おおむね僧侶型、神主型、農民型に分けられるという。我が家のタノカンサアは、托鉢をしている僧侶を想わせ、苔むしてはいるが、比較的新しいように思える。小ぶりで、簡素なつくりなので、個人が所有していたものだろうか。
長袴をはき、藁でできた甑簀をかぶり、首に頭陀袋をかけ、右手にシャモジのようなもの、左手に飯椀を持っている。後ろ姿は、なるほど逞しい男のシンボルそのものだ。簡略化されているが、それなりに特徴をとらえている。小野重朗の『田の神サア百体』をみると、その数千五百体以上といい、白く化粧したもの、赤い着物を着たもの、ベンガラで顔を着色したもの、様々な事例が紹介されている。が、石像がつくられる以前は、自然の石や一抱えほどの丸石を置いて祀っていたという。なかには、自然石に顏を描いたものもある。
やはりそうか、と思う。私たちの祖先が、竪穴式住居に石棒(男根)を立てたように、丸石を道祖神にみたてたように、田んぼのあぜ道に自然石を立て、稲の生育を託し、豊作を願ったのだろう。それが僧侶や神主などを模した石像に変わり、やがて農民の姿に変化したと思われる。さらに興味深いことは、タノカンサアは、神ではあるが神ではない、きわめて人間くさい神といわれていることだ。我が家の「タノカンサア」を見てほしい。なんとも穏やかで微笑ましく、思わず頬ずりしたくなるではないか。土の臭いと体臭を感じる庶民の神がここにいる。(令和元年9月10日) TOPへ
敷地内に、宝篋印塔や五輪塔と呼ばれる石塔がいくつか点在する。どれもかなり古いもので、年月相応の寂びた風情が気に入っている。庭づくりの過程で据えたものだが、もうすっかり周りの景色にとけ込んでいる。おそらく、家が無くなり、かつての雑木林に戻ったなら、ここに古い寺があったと思うのではないか、そう想えるほどの存在感だ。こうした石塔は仏教的な石造物で、死者の供養のために造られたものがほとんどだという。もちろん、石神でも石仏でもない。が、祖先供養のため、お盆や命日などにお参りするところをみると、なにか霊的な存在とされていたことは間違いないようだ。
538年(欽明7)、百済から仏教が伝来した。日本人はこれを「異国の神」と理解し、蕃神と呼んだ。これが日本と異国の神との出会いであり、戦いの始まりともなった。物部氏と蘇我氏の覇権争いでもあったが、蘇我氏が勝利を収め、巨大な塔を中心とした飛鳥寺が建立された。『日本書紀』に「刹柱を建つ」と記されているもので、塔ではなく柱と表現しているところが意味深い。柱は神を数えるときの言葉であり、依代とされるものだが、蕃神もまた、神々のうちに加えていたことが窺える。柳田国男が「先祖の話」のなかで、ホトケは木の柱に文字を書いた卒塔婆のことだという屋久島や佐渡の例を挙げ、ホトケを迎える精霊の依座でもあると記しているが、刹柱に通じるようで興味深い。
石塔は石の卒塔婆といわれる。仏を異国の神・蕃神と称したように、塔のことを刹柱と表現するなど、仏教伝来時、すでに神仏習合が始まっているように思える。とすると石塔の基層を流れているものは、日本古来の神と異国の神が融合した造形といえるかもしれない。石仏と道祖神が路傍に同居し、祀られていることと同じ感覚のように思える。仏と神がとくに区別されるわけでもなく、ごく普通に混在し、ともに信仰されてきた歴史をここにみる。日本古来の神は、仏に負けたのではなく、むしろその懐に包み込んだのだと思いたい。
宝篋印塔を眺めていると、写真や映像でよく見るアンコールワットの石塔を想い描く。そびえ立つ巨大な石塔は、男性のシンボル(リンガ)を意味するともいわれるが、相輪と呼ばれる先端部分も、そう見えなくもない。もともと密教系の石塔ながら、子孫繁栄への願いだろうか。自然のリンガとは山頂にそびえ立つ石のことだという。まるで縄文時代の石棒と仏塔が合体したような佇まい。遥か遠いところで、お互いが響き合っているように思えてくる。
(令和2年8月25日) TOPへ
雨あがりの匂いがする石が好きだ。苔むし、寂びてきた石がたまらなく好きだ。水気をたっぷりとふくみ、命がきらきらと輝いているような深い緑、深呼吸したくなるような爽やかさ、そうしたもろもろの風情が好きだ。
久しい間、「磐座」という岩石崇拝を追いかけてきたが、今さらながら石そのものが好きなのだと自覚する。で、石のなにがこうも惹きつけるのか。よく石の永遠性という表現に出あうことがあるが、不変ながらも、時とともに風化していく過程に魅かれるのだと思う。掘り出した石もやがて肌合いが変わり、ところどころ苔むしてくる。数年も経つと全体が苔に覆われる。人の命の有限さを思うにつけ、そうした「時のつみ重なり」がしみじみと心をうつ。時と自然が、ゆっくりと、育むように石の美しさをつくりだしていく。
庭師の話によると、寂びた石のことを「ジャグレ石」というそうだ。水石の鑑賞などにつかわれる用語のようだが、風化などによって生じたざらざらとした凹凸のある石の表面、肌合いなどを表現する言葉として使われている。「仙境の風情」などという表現もみられる。俗にいう「さび」に通じるものだと思うが、枯れるという味わいではなく、深々と心に沁みてくる石の風趣、いぶし銀といった感覚だろうか。時間と自然が奏でる魅力とでもいうのか、そうした石はただそこにあるだけで愛おしい。
八ヶ岳の山中に庭をつくりはじめて20年以上たつ。磐座を訪ねる旅のおり、各地の庭をみてきたが、作庭の拠りどころはやはり自身の「好み」でしかなかった。心がけたことは、起伏に富んだ地形と現存する雑木林を生かした庭……という一点だった。材料はほぼ敷地からでてきたものでまかなうことができた。藪のように荒れていた土地は、大小の石がごろごろところがっていた。どこを掘っても石がでてきた。石好きの身にとっては、願ってもない環境ともいえたが、庭にするには想像以上の労力と時間が必要だった。でてきた石はできるだけその場所に据えることを心がけた。あるがままに、という想いからだが、その過程がまた心地よかった。
自身で動かせる石の重さは100キロほど。それ以上になると庭の師匠でもある「作庭処・川口」の川口さんの力を借りた。が、ひとりで石の向きを決め、動かし、据えているときの快い緊張感は言葉にならない。半ば埋まっている石は可能な限り顔をだしてやる。顔をだした石は、風雨にさらされながら、森の香気を浴び、樹木が育つように肌合いを変え、苔むし寂びてくる。それがまたなんともいえず味わい深い。想えば、そうした日々を過ごしてきた。75歳をむかえる冬、あと何年できるだろうか。そう考えながら、今日も「ヨタヨタ」と石と向きあう。 (令和3年12月10日) TOPへ
磐座と思しきものに出会ったのは小学校の林間学校、ふるさとの「金山出石寺」だった。山門前の広場、弘法大師空海が修行をしたという「護摩岩」が子供心にもつよく印象にのこった。われながら奇妙な子供だと思うが、なぜか気になるのだ。無数の割れ目がはしり、びっしりと樹木が生い茂る巨岩だったが、その割れ目の奥に「なにか」潜んでいるような、得体のしれないその「なにか」がじっとこちらを見ているような気がしてならなかった。怖いもの見たさ……とでもいうのか。あえてその巨岩の近くを通ると、背筋がゾクゾクした。子供ならではの「異界体験」だったのだろう。
筒井筒井筒にかけしまろが丈
もう15年ほど前になるが、庭づくりの「師匠」ともいえる作庭師の川口さんから、思いもかけない「話」が舞いこんできた。同業者である造園業のご主人が亡くなり、後継者もいないため、収集していた庭石を引き取ってもらえないか、というのだ。しかも、敷地の大部分を占めている「大きな石」をお願いしたい……という意向だった。
日が短くなり、影が長くなった。午後3時をまわるとなにかと気ぜわしい。あっという間に陽が落ちる。秋の季語ながら「つるべ落とし」とはよくいったものだ。息苦しくなるような世相のなか、待ち焦がれていた「冬至」がめぐってきた。理屈ではない。「冬来りなば春遠からじ」とわかっていても、なぜかそわそわと心がおちつかない。待ちわびた嬉しさなのか、じわりと喜びに似た温もりが身体の芯から湧きあがってくる。
朝6時半ごろ、板戸の隙間からもれる薄明りや野鳥のさえずりで目が覚める。やおらベッドからぬけだし、ベストを羽織ってからトイレにいく。リビングの灯りをつけ、石油ストーブに点火する。室温をカレンダーに記入し、牛乳とオレンジジュースをコップ一杯ずつ。飲み終えると、薪ストーブの前に座り、煤でくもったガラスを拭き、薪を組み着火する。
八ヶ岳という呼び名からすれば、八つの峰があるように思われるが、どうも、漠然と多くの山が連なることを現したことに由来するらしい。その支峰のひとつ、権現岳(2715メートル)の中腹近くにわが家が建っている。
敷地の一画に「磐座」を模した石組がある。十年ほど前、私なりの想像を膨らませ、想いを巡らせながら組み上げたものだ。もとより「もどき」にすぎないが、その前に不動明王の石像をおいた。小振りでそれなりの「風雪」を経た石づくりの不動明王を探していたが、なかなか見つからない。ただ、こうしたものは手に入れたくてもなかなかできるものではない。たまたまあるオークションで目に留まったものだが、出会いというものを強く感じ、迷いなく購入した。粗いつくりながら、風化した風貌が味わい深く、摩耗したような丸みが経てきた歳月を醸し出している。
日本人にとって富士山ほど憧憬の対象でありつづけてきたものはない。わが家は、山梨県の北端ともいえる八ヶ岳南麓にある。そのため、晴れていれば甲府盆地が一望でき、かなたには秀麗な富士山が横たわっている。写真は、わが家に隣接する道路から撮ったものだが、この地に移って以来、こうした神々しい富士山を望み、拝してきた。
春立つ立春。春は名のみの風の寒さ……とはよくいったもので、春が産声をあげながらも、極寒の日々がつづく。家を建てるとき、もっとも考慮したことは寒さだった。標高1250メートル。半端ではないと聞いていたからだ。憧れていた薪ストーブのある暮らしとともに、冬暖かい家、それが条件だった。OMソーラーという仕組みによって床暖房をおこない、窓はペアガラス。必需品は薪ストーブ。リビングを吹き抜けにしたため、家庭用でもっとも大型なものを用意した。
最近雪が少なくなった。温暖化といわれて久しいが、そのためだろうか。寒さも以前のように氷点下15度という厳しさがなくなった。いちど、氷点下20度という経験をしたことがあるが、以来それもなくなった。それでも、厳寒期には氷点下10度まで下がることが何回かあったが、それもほとんど経験しなくなった。厳しい寒さには変わりがないが、下がってもせいぜい氷点下5~7度くらい。やはり温暖化がすすんでいると思わざるをえない。
八ヶ岳に移り住んで間もないころ、見様見真似でつくった石の「作品」がふたつある。石の炉と石の階段だ。どちらも日々の生活に欠かせないものだが、業者に頼むのではなく、自分でつくってみようと思い立ったのだ。
敷地のなかに石燈籠や石仏など、20数個の石造物が点在している。そのときそのときの想いで求めたものだが、もうすっかり庭の点景としてなじんでいる。こうした石造物との出会いは、小さな手水鉢だった。子どもの成長にあわせ、マンションから一戸建てに移ったとき、「猫の額」のような庭がついていたが、そこに水道の水受けとして手水鉢を置いたことが、石造物と庭づくりの出発点となった。
亡くなった母は「お大師さん」が大好きだった。けっして「空海」などと、呼び捨てにはしなかったし、そう呼んだことを聞いたことがない。おそらくだが、空海とお大師さんは、別の人だと思っていた節がある。よしんば知っていても、「空海さん」などとは口にしなかったと思う。母にとって、「オダイシサン」という響きそのものが、やすらぎであり、懐に包まれるような感覚だったにちがいない。
備前焼の歴史は古い。源流をたどると古墳時代にまでさかのぼり、須恵器という「祭器」にたどりつく。江戸期には岡山藩の保護のもと隆盛をきわめるが、その後衰退するも、戦後、低迷期を脱し、現在にいたっている。
一笑に付されるだろうが、漠然とあこがれている言葉がある。隠遁……だ。「俗世間を離れて、ひっそりと隠れ暮らす」という意だが、遠くから慕うだけの淡い恋心のように、心の奥に抱きつづけてきた。だからというわけではないが、住まう場所だけは、中央線の阿佐ヶ谷から終点の高尾へ移り、さらに小仏峠を越えて山梨県の四方津、そして八ヶ岳の南麓にまで来てしまった。家族の変化や子供の成長などで「たまたま」そうなっただけだが、結果として都内から郊外、山中へと移ってきたという感慨がある。
八ヶ岳の南麓、標高1250メートルの森に移り住んで22年、クマザサが生い茂る雑木林のなかに「磐座」や「石神」が点在する庭をつくりつづけてきた。いわば「私のイワクラ」ともいえるものだが、もとより、自身がそう想っているにすぎない。全国各地の磐座を訪ねるなかで、印象にのこったものを思い浮かべながら、自らの感覚で石を組み、再現しようと試みたものだ。が、いつしかまわりの景色にとけこみ、苔むし、もうすっかり「自然の石」と化している。たで食う虫も好き好きとはいえ、「阿呆の鳥好き貧乏の木好き」のようで、なにやら面はゆい。とはいえ、当人はいたって真面目そのもの。家族からイシアタマと揶揄され、冷ややかな視線を感じながらも、それを本気で懸命にやってきた。自身のことながら、そこがやはりおかしい。
さて、コロナ禍において、いかに人類が自然の前で「無力」なのかということを目の当たりにしてきた。自然災害のひとつと捉えられているほどだが、このウイルスは自然界の安定した生態系のなか、野生動物と共存しながらひっそりと生きてきたという。著名な霊長類学者は、「われわれは自然の一部であり、依存しているにもかかわらず、自然を無視し、ともに共有すべき動物を軽視したことに原因がある」といっている。人間が自然を破壊してきた結果だというのだ。
よく「パワースポット」という言葉を見聞きする。俗にいう「ご利益」と混同されていると思えるほどだが、視点をかえると、自然がもつ根源的な生命力といった景色がみえてくる。元来、年自然神は現世のご利益とは無縁だったし、あるとすれば、自然の精気によって癒されるという施しのようなものだった。昨今、あまりにも人間だけのご利益に振子が振れすぎているように思える。自然に帰れとまではいわないが、これを機に、自然との向き合いかたを見直し、「密」とは対極にあるような自然神の精気にふれてみたらどうだろう。ホッとひと息つけるはずだ。
八ヶ岳と春の雪。八ヶ岳の南麓に居を移し、22年の春秋を重ねてきた。今年もまた冬が過ぎ、春が巡ってきた。
(令和4年3月10日) TOPへ
過ぎにけらしな妹見ざるまに
女、返し、
くらべこし振分髪も肩すぎぬ 君ならずして誰かあぐべき
『伊勢物語』第二十三段にある子どものころの背比べにかけた求愛の歌である。
井筒。馴染みのない言葉だが井戸のことだ。『広辞苑』には、「井戸の地上部分を木・石などで囲んだもの。本来は円形、また広く方形のものを含めていう」とある。『伊勢物語』に歌われた井筒は、子どもが背比べをするほど高いものだったようだが、我が家の井筒は50センチほどの高さだろうか、石でできたものだ。
6月、井筒の蓋を新しくした。井筒蓋とも井戸蓋とも呼ばれる。青竹をシュロ縄で一本一本とっくり結びという技法で締めながら編んだ蓋のことだが、ただそれだけでなんとも清々しい気分になった。
八ヶ岳南麓・当時の大泉村に家を建てるとき、井戸を掘ることに躊躇はなかった。地名の通り、八ヶ岳に降った雪や雨が地中に沁みこみ、濾過され何十年もかけて地表に湧き出てくるところだ。近くには「三分一湧水」や「大滝湧水」など、八ヶ岳湧水群として名水百選に指定された湧水がいくつか存在する。公営水道も「大湧水」と呼ばれるところから引いている。
古来より地表に湧き出てくる湧水は、もっとも神聖なものとして尊ばれ、崇められた。霊泉とか霊水などと呼ばれ、水神さまが宿るところとして大切に祀られてきた。庭の専門書によると、こうした湧水を「山の井」と呼んだ。井戸以前の表現とされ、井とは「集」の意、水の集まってくるところを指すが、これが後世、堀井戸の井に転用されたものだという。
家を建ててくれた「小澤建築工房」の社長に聞いたところ、
「60メートルほどでいい水が出ますよ」
とのこと、結果はほぼ予想通り、約70メートルで地下水につきあたった。鉄分やカルシウムを多く含んだ、まさに甘露ともいえる美味しい水が湧き出てきた。どれほど前に降った雪や雨が地下水となって流れているのかわからないが、気が遠くなるような時間をかけ、濾過されながら水脈にたどりつき、流れているのだろう。
井筒は正四角形をしており、内法が90センチ、外法が123センチ、枠の厚さが16センチあり、どっしりとしている。専門書によると「組み井戸」の一種で四個の石を組み合わせたものと書かれている。 凸字形の石を上下に組み合わせたもので、下向き凸字形を「雄側石」、上向きを「雌側石」と呼ぶという。こうした雄と雌の表現はまさに夫婦の「和合」を表しているようで、なんともおもしろい。
組み立ててくれたのは「作庭処・かわぐち」の川口さん。最初に石を据えるとき、
「雄はどちらに向けますか」
と聞かれ、一瞬なんのことかわからなかった。雄と雌の組み合わせでできているため、正面に雄(雄側石)を据え、組み合わせていくのだという。雄の向きが決まれば他の石を組み合わせていく。つまり、正面からみて、雄が前後に、雌が左右にくることになる。接合剤はつかわない。水平器で上の面を確認しながら、雄と雌の切り込み部分をかっちりと組み合わせる。厚みが16センチもあるため、基礎の部分を固めておけば狂いがこないという。
石の表面は荒ダタキと呼ばれるごつごつとした作りで、粗い感じが野趣に富む。窪みから小さな羊歯が顔をだしていた。石の風化と生命のたくましさが相まった造形だ。井筒はまわりの緑と一体となり、もうすっかり雑木林の風景にとけこんでいる。
(令和5年11月20日) TOPへ
で、川口さんと見にいった。たしかに大きい。いわゆる「巨石」と呼んでいるものだ。しかも同じような大きさの石が、家屋を圧するように二つ並んでいる。聞けば「蓼科石」という価値がある石だという。変化に富み、なにより景色がいいと感じた。
川口さんの話によると、こうした「味」のある石を造園業界では、「曲がある」とか「芸がある」というそうだ。なるほどと思った。石が醸し出す霊性のようなものが伝わってくるようではないか。言い得て妙とはまさにこうした表現をいうのだろう。結果、巨石二つとそれに準じる石を二つ、四つの石を譲ってもらうことにした。
と、なにげなく巨石という言葉をつかっているが、基準というものはない。『広辞苑』をみても、「大きな石」と書かれているだけでそっけない。愛用している国語辞典には載ってもいない。大きな石、巨大な石だから「巨石」。ただそれだけのことで、わざわざ解説する必要がないからなのだろう。比べて「巨樹」という基準ははっきりしている。地上から130センチの高さで、幹回りが3メートル以上のものを巨樹と呼んでいる。ちなみに、日本一の巨樹は鹿児島県姶良市にある「蒲生のクス」で、幹回り24・2メートルだという。
ただ、日本の『記・紀』神話には、巨石の始原と想われるものが登場する。日本最古、磐座の原形と想われるような物語が神話の世界で語られる。チビキノイワ(千引石)と表現されているものだ。文字通り、千人の力でようやく引けるような巨大な石……という意をもつ。
神話では、亡くなった妻・イザナミ(伊邪那美)に会うため、黄泉国を訪ねたイザナギ(伊邪那岐)が醜く変わり果てた妻をみて、恐ろしさのあまり逃げ帰る。追いかけるイザナミ。黄泉平坂まできたとき、千引石で塞ぎ、絶縁を言い渡す……というくだりだ。この石がのちにこの世とあの世との境界を意味することになる。
千人の力でようやく引ける石というものがどれだけのものかわからない。が、神代の世界ながら情景としてはなんとなくわかるような気がする。ようするに「この世とあの世の境界とされる」大きさと想えばいいのだろう。
数日して、巨大なクレーン車2台で巨石が運ばれてきた。クレーン車の荷台からはみ出すような大きさだ。重さを測ると20トンほどあるという。まず、最も大きな石を慎重にクレーン車で吊り上げ、決めておいた場所に据えた。あとはその石の「声」を聴きながら他の石を大きさの順に据えていく。
以前にも書いたが、平安時代に記された日本最古の造園書である『作庭記』に、
石の乞はんにしたがふ
という表現がある。石を据えるときは、まず主要な石を据え、あとはその石の意のままに……ということだが、この「石の意」というのがなんともむつかしい。
一日がかりで四つの石を据え終えた。据えるときは「根入れを深くする」ことが肝要だといわれる。地下に埋もれている部分がどれほど大きいか想像がつかない。その一部が地表に顔を出している……そう想わせるような「沈めかた」とでもいうのだろうか。そうして根入れした石は、どっしりと安定感があり、風格が漂う。ただ、せっかく求めた石は、なるべく大きくみせたいという「スケベ心」がどうしてもあり、その兼ね合いがむつかしい。
15年経ったいま、遠くからやってきた4つの石は、「乞はんに従う」ように、響き合いながら、敷地の一画に鎮まっている。まるで古代から存在する「神域」のように……。
(令和5年12月3日) TOPへ
冬至。一陽来復の日ともいわれる。易の言葉だが「陰のなかに初めて陽が戻ってきた形」が語源とされる。一年中でもっとも太陽が南にかたより、影の長さが一番長くなる。昼間がもっとも短いために、もっとも弱い太陽とされ、いったん死んで、生まれ変わる日と考えられていた。まさに陰が極まる日が「冬に至る」と観念されたのだ。こうして冬至は太陽の「誕生日」として、時を計る基点となった。
太陽の誕生日にともない、冬至を年の初めとする「冬至正月」の暦が、中国・周の時代につくられた。日本でいえば、縄文後期のころだ。大寒とか春分といった二十四節気も冬至から始まる。しかし、漢の武帝のときに立春を年の初めとする「立春正月」に改められた。なんとも寒かったからだ。昼間は長くなるが、寒さは厳しくなる。暖かさがもどるときがいいと考えたのだろう。立春正月は、持統天皇のころ日本にも伝えられた。
とはいえ、なぜこの日に太陽が死んで生まれ変わるのか、古代人は理解できなかったと思われる。しかし、永い間の経験と言い伝えで、毎年この日はかならずやってくるということを知っていた。あの山の頂に太陽が沈むということを……。
近くにある縄文後~晩期に営まれた「金生遺跡」は、祭りの場であることがわかっているが、冬至の日、正面にあたる甲斐駒ヶ岳(2967メートル)の頂に陽が沈む。とともに、長く影をひいていた立石も陽があたらなくなる。おそらくこのとき、長老たちが立ち会うなか、慎重に影の先端を確認し、うやうやしく印をつけたはずだ。この印に影が届き、日没が重なったときに春が来る。余光がのこる薄明りのなか、縄文人たちは、石を敷き並べた「配石祭壇」の周りに集い、新年への祈りを奉げたにちがいない。
陽が落ちると焚き火が盛んに燃やされ、アイヌのイオマンテ(熊の霊送り)のごとく、生贄になった猪の霊を神の国に送り届け、恵みを分かち合い、蓄えていたヤマブドウ酒を飲み交わしたことだろう。祭りの場はそうしたところを選んで営まれ、季節を測っていたというのだ。あの山のてっぺんに陽が沈むと春が来る。影の長さを測りながら、太陽が近づいていくことを指折り数えていた情景が目に浮かぶ。
何度かふれてきたが、わが家は八ヶ岳南麓の山中にある。移り住んで23年、いつのまにか、冬の厳しさに備える心がまえのようなものができてきた。薪ストーブの出番がつづいているが、そこはもうたっぷりと薪が積まれている。冬枯れの景色のなか、枝の先には新しい命が顔をだしている。冬本番を迎えるにもかかわらず、確実に春を迎える気配がただよっている。自然の営みの確かさを実感するころでもある。
今年の冬至は12月22日。この地の予測をみると、日の出は6時52分、日の入りは16時36分と出ていた。家の西側に標高差にして100メートルほどの峰が横たわっているが、陽が沈んだのは16時10分だった。つまり、朝7時ごろから陽が差しはじめ、午後4時には落ちることになる。昼間、約9時間という短さだ。気ぜわしいわけだ。
『歳時記』をみると「小豆粥やカボチャ、コンニャクを食べ、冷酒を飲み、ゆず湯に入る風習がある」とある。カボチャを食べ、ゆず湯に入ることはわが家でもやっていたことだが、冷酒を飲むことが風習のひとつだとは知らなかった。元旦に飲む屠蘇のようなものらしい。寝る前に冷酒を飲むことを常としているので「通年冬至」のようなものかとおかしかった。
冬至の夜、静かに春を迎える「禊」として、久しぶりにゆず湯に入り、衰運から盛運へと向かうことを願った。食卓にはカボチャの煮物がならび、寝る前、いつものように冷酒を飲み、床についた。季節はめぐり、冬をまたひとつ数えることができた。
(令和5年12月23日) TOPへ
燃えはじめた炎がゆらゆらとガラスに映り、パチパチと弾ける音がする。燃え上がる炎と弾ける音が心地いい。いまではなにげない薪ストーブの存在も、ひとつの「あこがれ」でもあった。標高1250メートルという高地のため、夏は涼しくエアコンはいらなかった。逆に寒さが厳しいこともあり、当初から薪ストーブにすることを決めていた。薪割りなどの作業をともなう「薪ストーブのある生活」がしてみたかったのだ。
しばらく炎を眺めてから、窓のブラインドを開ける。近くにある別荘の上に朝日が昇るころだ。やがて朝日が昇ってきた。冬至から十日ほど、心なしか光の強さが増しているように思える。7時13分。初日の出だ。思わず首をたれ、病気の回復を祈願して柏手を打った。石油ストーブに置いてあるヤカンが「しゅうしゅう」という音をたて、お湯が沸いたという合図をしている。この音も耳にやさしく、ほんわりと心地いい。
十年一日の如く……。ひととおりの「動線」をこなすと寝室にもどり、20年来欠かしたことがない自前の「ベッド体操」を十分間ほどおこなう。わずか十分だが、硬くなってきた身体がほぐれていくのがわかる。こうしたことを変わらずつづけてきた。ついこの前のような気もするが、なんとか24回目の元旦を迎えることができた。
元旦は、二十四節気にはふくまれていない。が、古来より年の初めの特別な日、正月と呼んで祝ってきた。『山本健吉 基本季語五〇〇選』に、
信州では初庭と言って、元朝早く産土神に詣でるが、神の祭場を庭と言ったのである。
と出ていた。でも、なぜ「庭」といったのか、信州・諏訪の図書館にも足を運んだが、それ以上のことはわからなかった。ただ、初詣のことを「初庭」といっている地域がまだ存在していることを知ったときは、なにかいい知れぬ感動を覚えた。天孫降臨の場面にでてくる高天原の「斎庭」を彷彿させる伝承が、絶滅危惧種のごとくのこっていることが驚きであり、奇跡のように思える。言葉がもつ霊力「言霊」のように、庭という文字から遥かな神話の世界がよみがえる。
わが家の初庭は、点在している神仏を詣でることからはじまる。長年、磐座を訪ね、相対してきた者として、四か所ほど「磐座」や「石神」を模した場所があり、石仏が座しているところが七か所ほどある。ほかにも山の神を祀った石祠などがあり、近くの神社を詣でるまえにわが家の初庭をおこなうことが常となっている。娘たちが来たときは、孫たちと一緒にお神酒を供えながら、神仏混交さながら、初庭をおこなう。
初庭を終えたあと、車で大滝神社に詣でる。神奈備山の麓に鎮座する地域の産土神だが、近くに教派神道系の広大な神社があり、そのためか、訪れる人はきわめて少ない。本末転倒とも思えるが、古来より信仰されてきた鎮守社より、テレビで初詣の宣伝を流し、多くの屋台と参拝者で賑わう新興宗教のほうが庶民を惹きつける。
大滝という名からわかるように、神奈備山の麓から日量二万二千トンという膨大な水が湧き出ている。『北巨摩郡誌』に「老杉古松天を摩し奇巖屹立 清水其間に湧出し滞りては池を為し 懸りては瀧となる」とあるように、いたるところから水が湧き出し、池をつくり、社殿の裏山には磐座として祀られてきた巨岩が群れるように屹立している。
山と森と岩石と湧きでる水、自然崇拝のすべてがここにある。ヤマト王権が統一国家として歩み始めた崇神天皇の御代にまでさかのぼるという伝承。古来より自然の恵みを祀る由緒ある古社として、厚く信仰されてきた「聖地」のようなところだ。穏やかな元旦の昼下がり。例年なら凍りつき、木樋から流れ落ちる水が、氷瀑のようになっているのだが、とうとうと水しぶきをあげていた。
(令和6年1月1日) TOPへ
敷地を購入したときから気になっていたが、北側にどっしりと、まるで山の形をしたような巨石が横たわっていた。その延長線上に権現岳がそびえている。山頂にはふたつに割れた巨大な「岩塔」があり、古来、八ヶ岳権現と呼ばれている。地元の神社では、「八嶽」という文字をあてているが、信仰の歴史は古く、平安初期の貞観十年(868)に、従五位下を授かったことが『日本三大実録』に載る。主峰の赤岳(2899メートル)が江戸中期に開山されたことを考えると、歴史を刻んできた信仰の重みが伝わってくる。
ところで、八ヶ岳は富士山より高かったという伝説があるのを御存じだろうか。富士山と八ヶ岳が背くらべをしようということになり、阿弥陀如来が、ふたつの山の頂に樋を渡して水を流すと富士山のほうへ流れていった。富士山は悔しさのあまり、八ヶ岳の頭をボコボコに殴ったため八つに割れ、現在の姿と高さになってしまったというのだ。
じつは、八ヶ岳と富士山の神は、山の神・大山津見の娘であり、姉の石長姫が権現岳に、妹の木花之佐久夜姫が富士山に祀られている。つまり、姉妹で高さを競ったということになるが、容姿は正反対。姉は醜い「岩の女神」として、妹は美しい「桜の女神」として語られる。そうした姉妹が甲府盆地をへだてて相対している。神話の世界とはいえ、なんとも皮肉で雄大な話だと思う。
稲作が始まるまで、列島は山のみならず、ほぼすべて森におおわれていた。稲作をもたらした渡来人は、先住民(縄文人)と混血しつつも、二千数百年もの間、森を刈り田畑を広げてきた。列島に土着していた山の神は、異をとなえるわけでもなく、春になると平地に降りてきて「田の神」となり、収穫がおわると山にもどった。ごくさりげなく稲田を見守り、豊穣をもたらしてくれた。「縄文の神」ともいえる山の神の恩恵をうけながら生きてきたのだ。
十年ほど前『古事記と岩石崇拝』を上梓したとき、気になっていたのが山の神とイワナガヒメという「超霊格」だった。天孫降臨の場面、天降りしたニニギノミコトはコノハナサクヤヒメを見染め、求婚する。喜んだ山の神は、姉のイワナガヒメを副えて姉妹を差し出す。ところが醜いという理由で送り返される。彼女は恥じ恨み、泣き叫ぶ。山の神は怒り、姉を副えたのは「岩のように永遠に変わらず」と願ってのこと。返したからには「天皇のみならず、ヒトも花のように散ることになる」と言い放つ。天皇のみならず、ヒトの命まで縮める山の神とイワナガヒメ。神話の世界でこれほど霊力の強い親子神をほかに知らない。ここに岩石崇拝の思想が集約され、この場面こそ、『古事記』の「きも」ではないかと思っている。
1月5日小寒、この日をもって「寒の入り」となる。北陸地方では「寒固め」と呼び、小豆餅などのかたいものを食べるという。一年でもっとも寒くなるという心がまえを思わせる言葉だ。酷寒に備えるピリピリとした空気とともに、キーンという冷えきった金属音が聞こえてくる。冬至から15日目にあたり、節分までが「寒の内」で、もっとも寒さが厳しい時期となる。まさに冬が寒さの頂を登りつめようとしているのだ。とはいえ、光は着実に色濃くなり、日脚が伸びてくる。風さえ吹かなければ陽だまりはぽかぽかと暖かく、「日向ぼっこ」という季語が実感できる。冬本番ながら、春の兆しを感じるころだ。
気になっていた山の形をした巨石。まるで「地霊」のように磐根を張り、のびやかに裾野を広げている。落葉に埋もれながらも、その森厳とした佇まいに、背負ってきた春秋が伝わってくる。近くを歩くたびに、なにかに呼ばれているような気這い。不思議な感覚ながら、心なしか、そのささやくような「声」は時とともに大きくなっていく。
地図をみると、権現岳の所在地はわが家の字と隣接している。そうか、イワナガヒメとは「お隣さん」のようなものかと合点した。というわけでもないが、小振りな石祠を求め、巨石の前に据えた。以来、気のせいか、気這いが消えた……。石祠は風雨にさらされながらも、巨石に寄り添い「岩の女神」の降臨を待っている。
(令和6年1月13日) TOPへ
四半世紀も前のことになるが、勤めていた会社が当時の「大証一部」に上場したとき、記念として木像の不動明王を買ったことがある。本社がある岡山に向かう新幹線だったが、自分の会社が大証一部に上場し、過去最高の初値をつけたことがテロップで流れていたことを思い出す。驚くとともに、心の内から湧いてくる感動で身体が震えた。「うれしい」と心底から思った。上場するまでのさまざまな苦労と経緯を体験してきただけに、「我がこと」のように心に響いた。
そのときの感動をなにかの形で残しておきたいと考えた。思いついたのが、かねてより欲しいと思っていた不動明王だった。
一か月ほどして、カミさんと京都へいき、「新門前通」の古美術商街を歩きながら、思い描いていた不動明王を探し歩いた。街の中ほどにある古美術店で出会ったのが、この不動明王だ。江戸初期のものだと聞いたが、作者はわからない。護摩を焚いていたところにあったのか煤で黒ずんでいる。一部修復した跡もあるが、雲を従え、花が咲き乱れた巌の上にどっしりと座っている。右手に降魔の剣をもち、火炎を背負って正面を見据える怒りの形相はなんともたのもしい。
不動明王は九世紀はじめ、真言密教をもたらした空海によって伝えられた。種々の煩悩・障害を焼き払い、悪魔を降伏させる霊力をもつという。憤怒の内に秘めた優しい「救い」のためか、観音さん・地蔵さんとともに「お不動さん」と呼ばれ親しまれている。それにしても、なぜ恐ろしい顔をして睨んでいるのか。
修験道というわが国独特の宗教があるが、基本、修行する山岳を神々や仏が集うところととらえ、山中に不動明王が住む聖地があり、その霊力を体得しようとすることにある。不動とは動かない山をさし、守護神として信仰された。また同じような存在に、蔵王権現がいる。修験道の開祖とされる役行者が修行をしていたとき、岩(磐座)の中から湧き出てきたという伝説をもつが、この権現も烈火のごとく怒っている。なぜか。
このあたりのことを調べていくと、じつにおもしろい。修験道は自然崇拝という縄文以来の信仰を基底におき、山岳信仰に密教や道教、神仙思想、陰陽道などが混淆したもので、自然に対する憧憬が、それこそ「ごちゃ混ぜ」に詰まっている。つまり、なんでもありという庶民の宗教といえるものだ。だから、貴賤を問わず、現世利益を求める人々の願いをかなえてくれる。そのためには、あらゆる「悪魔」と闘わねばならない。だから、いつも身構え、「恐い」顔をしている。
磐座という自然崇拝を追いかけ、山岳信仰を調べていくうちに、山の守護神とされる不動明王が身近に感じられるようになった。嵯峨天皇から空海に与えられ、真言密教の根本道場となった京都の東寺に、空海がつくらせた日本最古の不動明王があるが、京都にいくたびに足を運んだ。両眼をかっと見開き、勇壮ながらも内に秘めた華やかさ。空海が修行をしているような姿であり、分身のような存在。無性に会いたくなるのだ。やがて手元においてみたいと思うようになった。そのきっかけとなったのが「上場」という人生のエポックだった。
壁に突き当たったときには、不動明王の前に座り、孫が熱性痙攣を起し、救急車で運ばれたときは、思わず飛んでいき無事を祈った。念持仏にするつもりはなかったが、心のよりどころのような存在になっている。このお不動さんに厨子はなかった。が、感謝をこめて、手づくりで厨子をつくった。以来、素朴な「箱」のなかで怒りの顔をして前を見すえている。救急車で運ばれた孫は昨年、成人式をむかえた。
(令和6年2月3日) TOPへ
古くより「甲斐の国」と呼ばれてきた山梨の人たちにとって、当たり前のように、とくに気にすることもなく、富士山を拝し、日々の生活を営んできた。暮らしの一部として、いつも富士山が身近にあった。カミさんはこの道を通るとき、ほぼ例外なく「わあーきれい」と声をあげる。
信仰の歴史も古い。甲斐とは山の狭の意で、四周を二千~三千メートル級の急峻な山々で囲まれた地形に即して命名されたものだとされる。その代表とされたのが駿河との国境にそびえる富士山だった。活動を始めたのは十数万年以上の昔で、噴火を繰り返し、現在の姿になったのは八千年ほど前のことだという。でもなぜ「フジサン」と呼ばれるようになったのか定説はない。が、神仙思想に由来する不老不死に基づく「不死」という説に魅力を感じる。『常陸国風土記』には、年中雪に閉ざされた冷たい女神が住む山とされ、「福慈神」と記されている。
富士山への信仰は、縄文中期にまでさかのぼるというが、その始原は麓から拝するものであり、登ってはならない神の山「霊峰」として崇拝されてきた。日本でもっとも高い山ということもあるが、繰り返す火山の暴威や山容の美しさといったものが大きく影響していた。その神秘的な佇まいのためか、やがて「神仙が遊び、集まるところ」とされ、山上には仙人が住まう宮殿があり、「神仙の世界」とされるにいたる。
甲斐国にとって切っても切れない富士山だが、同じような存在に武田信玄がいる。山梨の歴史上もっとも著名な人物であり、ことあるごとに「信玄公」という尊称でもって語られ、慕われている。観光や土産物に信玄の名が冠されていることも少なくない。ただ、人びとが信玄を語れば語るほど、イメージはふくらみ、巨大化していったようで、いまでは、富士山と並ぶがごとく、その「虚像」が山梨の地に根付いている。
そうした富士山に「登山鉄道」を通すという構想が飛びだした。五合目までの富士スバルライン上へ軌道を整備するという計画だが、県と地元の賛否が分かれている。報道された記事を読むと、県は「鉄道ありき」という想いが強く、地元は長野県の上高地のようにタクシーやバスの交通規制をおこない「電気バス」で十分という姿勢。相容れそうにもない。
でもなぜ、登山鉄道なのか。「信仰の対象と芸術の源泉」が評価されての世界遺産ではなかったのか。いまあるスバルラインですら、十分に霊峰を傷つけてきたと思うのだが、道路を掘り起こして軌道を敷けば、さらに傷がつく。オーバーツーリズム解消のためという名目もあるが、そもそも神の山に「ツーリズム」などありえない。むしろ、信仰登山だけに限定したらどうかと思うくらいだ。昨今のなんでもかんでも、インバウンドという経済効果の発想。違和感をもつのは私だけではないはずだ。一度観光客が増えると、それが前提となり、なにかあると大きなダメージをうける。コロナ禍で痛いほど経験したはずだ。大規模な噴火も懸念されている。ここで信仰という本来の「価値」に立ち戻ることはできないものか。
甲府の武田氏館跡から南西の方向を眺めると、山々を従える富士山が顔をだしている。ここから朝な夕な富士山の頂を眺めていた信玄。ほかの神にはない象徴的ななにかを感じていたと思われる。彼は富士山を特別な存在として信仰し、富士山を祀る浅間神社を厚く崇敬していたという。信仰の足跡は数多く、神領の寄進や社殿の造営などをおこない、各地の神社には奉納した品々祈願文が残されている。
甲府駅前に、高さ3・1メートル、川中島の陣中における姿を模したという巨大な信玄像がどっしりと座り、ぎょろりと甲府市内をにらんでいる。甲府の象徴的な存在だが、都に攻め上る途中に発病し、志なかば、信濃国伊那駒場で没する。享年53。目線の先には彼が愛した富士山が見えるはずだ。別格な存在として篤く信仰していたという信玄。没後、450年、信仰とは無縁とも思われる登山鉄道の「騒ぎ」をどう思っているのだろうか。
(令和6年2月10日 TOPへ
以来、薪ストーブは欠かすことができない。一時的に灯油ストーブを使うこともあるが、唯一の暖房として活躍している。幸い夏が涼しいため、エアコンは必要なかった。床暖房と薪ストーブ、このふたつで厳しい冬を凌ぎ、20数年間暮らしてきた。
ストーブを焚き始めると、リビングはすぐ20度近くになる。そのころには、ストーブ自体が500度近い「火のかたまり」になっている。リビングから離れるほど室温は低くなるが、生活に支障はない。寝る前に薪を一本追加しておくと、余熱がほどよい室温を保ってくれる。なんともありがたい「すぐれもの」だと思う。
薪は基本、自前で用意する。敷地内の倒木や定期的に伐採するモミノキやカラマツ、アカマツなどの針葉樹とともに、地元の業者からクヌギやナラなど、広葉樹の原木を購入する。原木は直径15~20センチほど。軽トラックで、180センチの長さにして運んでくれる。伐採したばかりの原木は水分を含み、ずしりと重い。
まず敷地の一画に積んで1年ほど寝かせ、さらに40センチほどに切り分け、また1年寝かせる。それを薪割り機で割り、薪棚でもう1年ほど乾燥させる。以前はマサカリで割っていたが、寄る年波と「便利さ」には勝てなかった。これで薪のできあがり。こうした作業ひとつひとつで味わう達成感。薪づくりの醍醐味であり余禄といえるものだが、このプロセスがまた楽しい。原木から約3年、ほどよく乾いた薪が今日もストーブのなかで燃えている。
すこし前のこと、敷地を散策していたら、間近で「ぴー」という鹿の声。甲高い抑揚からして、警戒している声だ。みると、7頭の鹿が群れている。私の存在に驚いたのか、いっせいに走り始めた。といっても、数10メートルほど移動するだけ。その場で立ち止まりこちらを見ている。間合いを測っているのだ。少なくとも50メートル以上離れることはない。やがて、ゆっくりと境界線を流れる沢の向こうに去っていった。
立春のころの鹿は、始末が悪い。食べるものがないため、なんでも口にする。まさに手当たりしだい、モミノキやカラマツの樹皮までかじる。空腹を満たすためだ。そうして、寒さの底をやり過ごす。食害という視点からみれば、被害を受ける立場だが、かれらはいわば「先住獣」。文句が言える筋合いではない。自然の厳しさとはいえ、鹿たちも苦労している。
とはいえ、鹿を見るとつい追いかけたくなる。むろん、追いつけるものではない。それでも追わずにはいられない。条件反射のようだと、自分でもおかしい。間合いを測りながら「ここまでおいで」といわんばかりのふてぶてしさで逃げていく。役者が一枚上だ。
冷え込みが一気にきた。立春とはいえ、寒さはことのほか厳しい。敷地を歩くと、分厚な手袋を通して、しびれるような寒さが伝わってくる。「つーん」というような痛みを鼻先に感じる。こうした感覚は、この地に移り住んで初めて体感した。樹々や地面は凍りつき、寒々しい凍てる庭の光景。それでも、春への想いは増していく。
寒の入りから約一か月、トンネルの先に光が見えてきたような気分。太陽の光が確実に強くなった。春を先取りするかのように、ヤマモミジの枝先が赤味をおびている。凍てる大地の下では、樹木の命がもぞもぞと動き始めている。シジュウカラやヤマガラがヤマモミジの樹皮をつつきにくる。メープルシロップにもなるという樹液がでてくるからだ。もうすでに根が目覚め、水分を吸いあげ始めているのだろう。
寒い寒いといいながらも、足元では命が出番をまっている。「春が立つ」という言葉に惑わされながらも、春の気配を敏感に感じているのだろう。こうした予感ともいえる期待が、なんともうれしい。そわそわとしておちつかない。「待ち人」を待っているような気分。自然の営みの素晴らしさ。やはり、春はそこに立っている。
(令和6年2月22日 TOPへ
氷点下20度という体験をしたのは、家ができて間もないころ。そのときは、いくら薪ストーブを焚いても室内が暖まらなかった。普段、どんなに寒い日でも薪ストーブを焚くと20度近くまで暖まり、寝る前に薪を1本足しておくと明け方まで余熱が残っている。余熱のおかげで、翌朝の室温は10度を下回ることはほとんどない。それが、そのときばかりは室温が3度まで下がっていた。そうしたことは、後にも先にもこのときしかない。
その年は雪も多かった。まだ家を建てているときだったが、一晩で積雪70センチというときがあった。振りかえれば、過去の記憶のなかで2番目に多い積雪だった。大工さんが道路から現場にたどりつくまで2時間ほどかかったと話してくれた。いまでは笑い話だが、雪かきをしなければ現場にたどり着けなかったという苦い思い出となっている。
もっとも積雪が多かったのは、いまから10年前(2014)のこと、2月14~15日にかけて降った雪は、甲府で114センチ、河口湖で143センチを記録し、観測史上最多を更新した。テレビのニュースでは、「県境が交通遮断、県全域が陸の孤島となった」という異常事態を繰り返し流していた。面積の八割が山岳部ということもあり、以前からその可能性が指摘されていたが、図らずもその弱点が露呈したということだった。
わが家も110センチを超える積雪。朝、玄関の戸を開けると、目の前に白い雪の壁ができていたことを思い出す。写真は降りやんで4日後、通用口への道を確保するため、カミさんが雪かきをしているところだが、それでもまだ腰のあたりまで残っている。このときは市の除雪が追いつかず、車も使えず1週間ほど「孤立集落」のような状態がつづいた。
さらに、玄関から市道まで80メートルほど、車が通れる幅を確保しなければならない。これが大変だった。朝から夕方まで3日間、夫婦ふたり、雪かき用のスコップでひたすら雪をかき、道付けをした。最後はまさにヘトヘト。腕があがらなくなったが、それでも10年前はまだ体力があった。3日間かかっても、車が通れるだけの道を確保できたのだ。
この豪雪を機に小型の除雪機を買うことを考えた。人力の雪かきに懲りたからだ。いろいろ調べた結果、ホンダの「小型ハイブリッド除雪機」に決めた。説明書によると、一時間の最大除雪量60トン、除雪幅71センチ、最大投雪距離17メートルとある。これだけの機能があれば少々の雪が降っても大丈夫。そう意気込んだものの、皮肉なことに購入してからあまり雪が降らなくなった。
それでも何回か出番があったが、普段は車庫の片隅に黙然と待機している。写真は数少ない「出番」を撮ったものだが、 必死でハンドルをにぎり、前を見すえる表情が涙ぐましい。とはいえ、もう出番はないのでは、という昨今の雪の少なさ。宝の持ち腐れのようだが、年に数回、バッテリーがあがらないようにエンジンをかけ、「いざ」というときに備えている。
ちなみに積雪の記録を調べてみたら、なんと滋賀県の伊吹山が積雪の世界記録をもっていることがわかった。それも桁外れだ。いまから百年近く前、昭和2年(1927)2月14日、伊吹山の山頂は11メートル82センチという積雪を観測した。4階建てのマンションに相当する高さだという。とんでもない大雪だと思うが、世界の観測史上、歴代1位の記録とされ、現在も破られていない。歴代2位が青森県酢ヶ湯(すかゆ)で、5メートル66センチだというから、いかに日本が雪の多い国なのか理解できる。世界でもっとも「雪深い国」とされる由縁だ。
つい先日、久しぶりに30センチほどの積雪があった。想えば、雪国の人たちは、私が経験した程度の雪は、毎年経験をしていることだ。それが普通のこと。楽ではないと思うが、日常の生活に組み込まれている。たかが110センチほどの雪で「ガタガタ」いうなといわれそうだが、それでも、想定外ともいえる経験。豪雪の記憶として鮮明によみがえる。
(令和6年3月3日) TOPへ
敷地の整地や庭作業をするようになると、処分しなければならない枯れ枝や下草が大量にでてくる。少し風が吹くと樹々が枝を落とす。とくにカラマツは大量に枝を落とす。しかも枝そのものが大きく長い。冗談ではなく、長さ4~5メートルもある枝が落ちてくる。想像できるだろうか。風の強い日、ヘルメットでも被らないかぎり、恐くて歩けない。
こうした草木などを燃やすための炉が必要となった。モデルはあった。縄文時代の竪穴住居に残された石の炉だ。炉をつくり始めるまで、田淵義雄の『森からの手紙』などにでてくる縄文人の囲炉裏にまつわるくだりを読みながらイメージを膨らませていった。遺跡が復元されている「井戸尻遺跡」や「尖石遺跡」にも何度か足を運んだ。ただ、竪穴住居に残る炉の跡は、あくまでも暖をとり、煮炊きをするためのものであり、大きさが足りない。
参考になったのは、柳生博の『森と暮らす、森に学ぶ』にでてくる「石で炉を造る」というくだりだった。当時、柳生さんは、ギャラリーなどを併せ持つ「八ヶ岳倶楽部」というレストランを開業し、自身で庭をつくり、独自のフィールドを創っていた。しかも、わが家のすぐ近く。食事がてら何度も炉を見にいった。そうしてできたのが、いまにのこる作品だ。
重機などがないため、私ひとりで動かせる石ででしかできなかったが、結果的にこれがよかった。雑なつくりながら、小さ過ぎず、大き過ぎず、身の丈サイズとでもいうべき石の炉ができあがった。以来、20数回の春秋を数えてきたが、一度も不具合が生じたことはない。いびつな楕円形をしており、炉心の大きさは直径80センチほど、深さは50センチほどだろうか。底をつぼめ、すり鉢状にしたこともあり、実によく燃える。この炉のおかげでどれだけ心豊かな時を過ごすことができたことか。いわば「初めての作品」といえるものだが、移り住んできて味わうことができた「石の恵み」のようなものだ。
もうひとつの石の階段。これはまさに見様見真似そのもの。我ながらよくやったものだと思うが、作庭家の川口さんに、「下から順に積み据える」ことを教えてもらったうえで、「段石」と呼ばれる平らな石を、歩幅にあわせ、一段一段、突き固めながら手作業で積み上げていった。材料はすべて敷地内からでてきた自然石。粗削りながらも素朴で、野趣に富んだ九段に及ぶ石段ができあがった。
これも、多少、手直しはしたものの、長年の風雪や大雨にもめげず、とくに崩れることもなく生活の階段としていまに至っている。こうした自然石による石の積み方を「野面石積み」と呼ぶらしいが、劣化することなく、年月を経るごとに風合いのようなものがでてくることにその味がある。
それにしても野面という言葉の響きがおもしろい。『広辞苑』には、石工用語とあり、「山から切り出したままで加工していない石の自然の肌」とある。野の面と書くように、いわば、化粧をしていない「すっぴん」といえるものだが、そうしたことからか、恥を知らないしゃあしゃあとした顔、あつかましい顔などの例えにもつかわれている。とすると、「説明を差し控える」とか「記憶にない」などとうそぶきながら、過ちを認めない政治家など「野面」の典型といったところか。
いま、20年以上経ったふたつの作品は、多少くたびれてはいるが、いまだ現役としてその役割を果たしつづけている。とくに、石の炉は使用する頻度が多いだけに、その驚異的な耐久性に驚いている。縄文時代にまでさかのぼる生活の知恵ともいえるが、あらためて「石でつくったからだ」と思わずにはいられない。
燃やすときはいつも午後からになる。消火するまで中断することができず、あたりが暗くなってからの炎の美しさがなんともいえないからだ。暗さが深まり、炎の鮮やかさが際立つころ燃やすことをやめる。しばらく、残り火がきらきらと輝いているが、燃えつきたころをみはからって、水を丹念にかけ、消火する。燃やした草木灰は敷地にまき、土に還す。愛おしくなるような「初めての作品」である。
(令和6年3月14日) TOPへ
庭づくりのイロハは、すべて同僚だった浅野茂三さんから教わった。長いつき合いとなった「多摩植木」に連れていってくれたのも浅野さんだった。山梨県の上野原に家を建てたときは、庭の設計図を描いてくれ、庭づくりに汗を流してくれた。庭石を求めて長野県の石切り場に出かけ、庭木を探しに群馬県などを訪ねたことを懐かしく思いだす。浅野さんと共有した時間が、有形無形の財産となっていまの自分に活きている。八ヶ岳の土地を購入したときも遠路見に来てくれ、敷地内を歩いて確認してくれた。ただ感謝しかない。
以来、主な石造物は、多摩植木から求めるようになった。所蔵している石造物の多様さと社長の村越善男さんに惚れ込んだからだ。村越さんは、雑木の庭を現在のように広め、定着させてきた先駆者のひとり。その先達に飯田十基、小形研三がいるが、とくに小形とは師弟の間柄で「小形学校卒業生第一号」と自称していた。小形が最晩年に作庭した代表作・「福武書店迎賓館」は、材料の大半を多摩植木から運んだと聞いている。
数年前、88歳で旅立たれたが、話を聞くときはメモをとることを心掛けた。材料置場を回りながら、石の産地、年代、由来などをひとつひとつ教えてもらった。足が不自由になっていたが、杖をつきながら、私の質問に丁寧に答えてくれた。八ヶ岳のわが家に来てくれたこともあり、最後にお会いしたのは亡くなる2年前だった。自宅で寝込まれていたが、上半身だけ起き上がり、懐かしそうに八ヶ岳に来た時のことを話してくれた。
いろいろな思い出があるが、村越さんが存命のころ、歴史が刻み込まれたような風格が気にいり、欲しいと思っていた石造物があった。茨城県つくば市の小田城下から伝わったとされる宝篋印塔だ。「保有しているもので、もっとも価値のあるもの」といっていたもので、室町初期、650年ほど前のものだという。が、当時の私にとって「高嶺の花」というべきもので手がでなかった。
小田は鎌倉の初めごろから小田氏が居城を築いたところで、南北朝のころ北畠親房が『神皇正統記』を書き表したところとして知られる。とすると、この宝篋印塔はちょうど親房が滞在していたころと重なる。「それがどうした」と笑われるかもしれないが、ひょっとしたら親房が見たかもしれない……と想像するだけで、胸が高鳴ったことを思いだす。
以来、カミさんの実家が、多摩霊園に墓地をもっていたため、墓参りの都度、多摩植木を訪ね、宝篋印塔の存在を確認することが常となった。が、これほど魅せられているものが他に流れたら、後悔するだろうと思った。あるとき、意を決し「少し勉強してくれませんか」と交渉してみた。途端、ニコニコ笑っていた好々爺顔が真顔に還った。しばらく思案していたが、少し割り引いた金額を提示してくれた。それでも高い買い物に変わりはなかったが、手に入れたいという気持ちのほうが強かった。そうしたいきさつをもつ宝篋印塔が、南北朝からタイムスリップしたかのように雑木林のなかに佇んでいる。
現在はわからないが、多摩植木の敷地内に「南山亭」という茶室があった。写真は『庭』という雑誌に載っていたものだが、飯田十基が作庭した「角田邸」にあったもので、それをそっくり移築したものだ。この南山亭の庭と置かれている石造物が気に入り、訪ねる度に案内してもらった。八ヶ岳にある石造物のいくつかは、南山亭の庭に置かれていたものだ。何度か訪ねたあと、「南山亭が気に入った
のであれば無償で譲ってもいいよ」といってくれた。
一瞬絶句したが、答えることはできなかった。というより、当時の私には、茶室をもつだけの器量もゆとりもなかった。「身に余る」という言葉があるが、村越さんの望外ともいえる好意は、私の「器」をはるかに超えていた。分不相応だと思った。その想いはいまも変わっていない。おそらく、移築したとしても持て余していただろう。身の丈にあわないものは、心身ともにくたびれるものだ。主がいなくなった南山亭。いまはどうなっているだろうか。
(令和6年3月25日) TOPへ
小さいころ、風邪で寝込んだときなど、必ずといっていいほど、仏壇から真っ黒にすすけたお大師さんの立像を取り出し、「ぶつぶつ」とつぶやきながら身体をなでてくれた。余裕などなかったはずだが、ときおり女遍路が一夜の宿を乞うことがあり、かいがいしくお接待をしていたことを覚えている。華道の師匠をしているという年配の女性が泊まったときなど、「お礼のしるし」として、花を活けてくれたことが記憶にのこる。門付けにきた遍路さんには、区別することなく、なにがしかのお金を包み、渡していた。
お大師さんを慕って遍路をしている。ただそれだけで、身内のような親近感をもち、世話をやく。不思議だと思う。それが四国に暮らす人たちにとって、当たり前のことだった。いまはもう一部でしかみることができない光景だが、それほどお大師さんの存在は大きかった。
なんども書いたことだが、私と空海との縁は、小学校の林間学校だった。生まれ育った長浜最古の寺・出石山(812メートル)の山頂にある金山出石寺に登り、広い宿坊でお坊さんの講話を聞いたことを思いだす。
こだわるようだが、空海が24歳のときに著した処女作『三教指帰』に、かれの分身と思われる修行僧が登場し、修行した場所を4か所語っている。
阿国大滝嶽にのぼりよじ、土州室戸崎に勤念す。
或るときは金巖に登って雪に遭うて坎壈たり。
或るときは石峯に跨がって粮を絶って轗軻たり。
つまり、阿波の大滝嶽、土佐の室戸崎、金巖、石峯のわずか4か所にすぎない。数多くの山に登り、修行をつんだと思われるが、4か所しか記録にのこっていない。おそらく、この4か所が空海にとって印象深い修行地であったにちがいないが、24歳で『三教指帰』を著したあと約7年間、かれの足跡は消えてしまい、その事績はわかっていない。四国の山野を歩き回っていたと想像できるが、この青春の7年間は、謎というしかない。ところが突如、31歳のときに遣唐使の留学僧として史料上にあらわれる。
わずか4か所にすぎない修行地ながら、いまだ比定地が定まらず、解釈が揺れているところがある。私がいままで何度も触れてきた「金巖」だ。なぜここにいう金巖の解釈が揺れているのか不思議でならない。が、これだけははっきりさせておきたい。大滝嶽は、徳島県阿南市の太龍寺山、室戸崎は高知県室戸市の室戸岬、石峯は愛媛県の石鎚山のこととされ、定説化している。写真は太龍寺山で修行をしている空海像だが、金巖についてだけ、大和の金峰山説と伊予の金山出石寺説に分かれている。なぜ3か所が四国でありながら、金巖だけ大和に飛ぶのか。理解に苦しむ。さらに『三教指帰』で、仮名乞児が「讃岐に仮住まいをしていて、まだこれといった仕事をしないうちに24年が過ぎてしまった」というくだりをどう解釈するのか。四国で暮らし、四国で修行してきたと語っているではないか。
さらにいえば、金山出石寺は「金山」と号し、山門前には空海が修行したという「護摩ヶ岩」と呼ばれる巨岩が存在する。高さ約3メートル、周り七尋とあるので12メートルほどか。永年の風雨のためか、無数の亀裂がはしるさまは凄みさえ感じ、巨岩を覆い隠すように樹木が生い茂っている。寺伝によると、空海がこの地にきたとき「三国無双の金山なり」と讃えたといわれるが、こうした伝承地や言い伝えは大切にしたいと思う。
護摩ヶ岩の傍らには修行僧の姿をした巨大な空海像が立ち、山門と相対する。私と縁が浅からぬ空海の修行地。わが故郷のことでもあり、語らずにはいられなかった。金巖は金山出石寺がある出石山のことだと……。
(令和6年4月12日) TOPへ
備前焼の魅力は、土と炎の融合にある。土そのものの天性が主役であり、作り手の想いと培ってきた手わざによって形を成し、炎によって命がふきこまれる。命が宿る最後の瞬間で「炎の女神」の霊力
を借りることになる。胡麻とか窯変、緋襷などと呼ばれる気まぐれな優美さは、女神のなせることでしか生まれてこない。
陶工たちは、女神の霊力を授かるため、ありとあらゆる工夫と知恵をしぼり、努力をおしまない。ただ、どんなに努力しても、最後は女神の機嫌とさじ加減しだい。女神が微笑んでくれるかどうか、だれにもわからない。そうした、気まぐれの美ともいえるあやふやが、造化の妙であり「味」なのだと理解する。
出会ったのは、もう28年ほど前になるだろうか。備前市の久々井湾に面した自宅を訪ねたときが始まりだった。まるで深山に暮らす仙人のような佇まいとともに、いぶし銀のような風貌が印象的だった。どこか浮世離れしたような、ふわり……と浮遊しているような感があり、茫洋としてとらえどころがなかった。その想いはいまも変わっていない。
勤め先の本社が岡山にあったため、備前焼に親しむ機会が増え、魅了されていった。当初は、作家もわからず、そのときの気分で気に入ったものを求めていたにすぎなかった。あるとき、料理屋の女将から「味のある作家がいる」と聞かされ、作品をみせてもらった。初老と思われるふたりの男が碁を打っている細工物だった。男たちからは、まるで生きているかのように、次の一手に迷い、思案している緊張感が伝わってきた。
こんなものを作る「ひと」がいるのかという驚きとともに、会いたくなった。そう、一目ぼれしたのだ。作り手は、島村光さん。いまは82歳という老境に遊び、岡山県の「重要無形文化財」という重鎮だが、当時は50歳を超えたばかり。「知る人ぞ知る」という中堅作家だった。以来、浮気をせず、ただひたすら島村作品だけを求めてきた。
真骨頂は、細工物と呼ばれる繊細で高度な造形をこなしながら、花器や食器、オブジェなどを手がけていることにある。基本を高度なレベルで押さえたうえで、独創的な作品に臨んでいる。「息を止めての箆による手仕事」と本人はいうが、まるで遊んでいるかのようにみえながら、伝統を踏まえ、品格がくずれない。だからこそ、齢を重ねるごとに、じわりと「味」がでてくる。
島村さんから求めた細工物に「ネズミのカップル」と名付けられた置物があった。あったと書いたのは、3年ほど前に、国立工芸館に嫁入り(寄贈)することができたからだ。展示会のたび、貸し出していたという経緯もあり、「いずれどこかに寄贈したい」という旨を島村さんと話していた作品だった。41歳のときに生みだされた逸品で、代表作品といえるものだが、あまりに繊細で優美な造形ゆえ、個人で所蔵しておくのが畏れ多いというか、怖くなっていたこともあり、話が進んだ。
長年、自宅に置かれていたもので、一目見て気に入り、譲ってほしいと何度も頼んだが、これだけは……と断られていた。「二度とつくれないから」というのがその理由だった。それがあるとき、岡山の天満屋から、たっての依頼があり、展示即売会にだすことになったと連絡をうけた。あわてたが、前日には岡山にはいり、開店まえには入口にならび、開店と同時にエスカレーターで美術フロアに駆け上った。一番乗りだった。作品の前に立ち、おもむろに「これをください」と申し込んだ。手に入れたのだ。
男の健康寿命、72歳を超えたとき、「増やす」ことをやめることにした。干支の区切りがついたときでもあり、身辺の整理へと軸足をかえたいと思ったからだ。その旨を電話で伝え、快く承諾してもらった。今年、77歳。家の中には島村作品があふれている。
さて、ネズミのカップル。造形のバランスもさることながら、恋をしている二匹がじゃれあい、うっとりとした顔の表情や手のやさしさ、しっぽの微妙なたわみ具合はなんともいえない。じっと眺めていると、ネズミが発する色香や恍惚感さえ伝わってくる。気品といい、細工レベルのたしかさといい、これぞ現代細工物の「最高峰」だと思うがどうだろう。
(令和6年4月25日) TOPへ
人はそれぞれ、そのときの想いと選択のなかで生きている。都会には都会の良さがあり、地方には地方の良さがある。その逆もまたしかり。そのときの選択の積み重ねによっていまがある。不思議だと思う。別の選択をしていればいまの自分はない。たまたま、そう、たまたまの自分がこの山中で生きている。そしてもう20数年の歳月を重ねてきた。
山中暦日無し。江戸初期に伝わり、漢詩の入門書として利用された『唐詩選』の太上隠者「人に答うる」という一節からきている。
たまたま松樹の下に来たり 枕を高くして石頭に眠る
山中暦日無し 寒尽くるも年を知らず
たまたま大きな松の下に来て、石を枕にしてぐっすり眠る日々。山中では暦もない。また冬の寒さが過ぎ、春が巡ってきたが、ここにきてもう何年になるだろうか……。自然の懐に抱かれた隠遁生活を現したものだが、もとより現実離れをした架空世界のことで、私たちができることではない。が、なぜか究極の世界にも思えてくる。
初めてこの詩に出会ったときは、まだ現役の「企業戦士」だった。自身のことを表現するのは面映ゆいが、向上心に燃え、文字通り仕事一筋の日々だった。企業の利益を追求することが自らの生活向上に直結している。いまから思えば、なんと明快な世界だったことか。なんの迷いもなかったし、当たり前のことだと信じていた。
ただ、人それぞれながら、いつか仕事という組織から離れるときがくる。仕事以外に人生を託す「なにか」をもちたい。そうしたときに「山中暦日無し」という詩に出会った。片方で生臭い現実を背負いながらも、いつか太上隠者のような生活に入ることを夢想した。ないものねだりのようなものだが、それはいまもつづいている。
久しい以前から、磐座という自然崇拝を基層とした「岩石」に魅せられ、ことあるごとに訪ねてきた。日本人が持ちえたもっとも根源的は信仰だと思っているが、その深遠な佇まいと霊的なささやきに心を奪われつづけている。そうした想いに拍車がかかったのが、この「山中暦日無し」との出会いだった。
なにがきっかけだったのか。あるときから目の前に存在する石や岩が、まるでスポットライトをあびた歌舞伎役者のように見えてきた。ぼんやりとした背景のなかに、ピントがあった被写体のように浮かびあがってくるのだ。かたわらに美しい草花が咲いていても、見えているのは「石」だけということがよくあった。「見ているところがまるでちがう」とカミさんから呆れられ、イシアタマ(石頭)と揶揄されるようにもなった。いつか、時間にとらわれず、向上心を「磐座」という自然崇拝の世界へと置き換えることを願った。
20数年前、仕事を離れ、とうとう八ヶ岳南麓へたどり着いた。太上隠者には及ぶべくもないが、晴れれば庭の作業に汗を流し、雨が降ればパソコンに向かい、磐座の世界に浸るという日々を送っている。よく「晴耕雨読」という表現に出会うことがあるが、庭作業を中心とした生活はどう表現すればいいのか。あえていえば「晴庭雨読」だろうか。
ただ、季節の移ろいについていくのは気ぜわしい。太上隠者のようにゆったりと暮らすさまではない。待ち望んだ春がくると、もう冬の準備に負われ始める。季節の変化に追い立てられるような日々が過ぎていく。その意味では「山中暦日あり」といったほうがいいのかもしれない。しかも、自然はかなり手強い。淡い「あこがれ」などとはほど遠い世界がここにある。それでもなお、ここが住処と決めたのだ。
(令和6年5月29日) TOPへ