「オペラマニアのひとりごと」

平尾行藏 Kozo Hirao


 ミーシャ・アスターさんの『ベルリン国立歌劇場と激動の20世紀』を訳し終えてホッとしています。
 この本は、シュターツオーパー(通称ベルリン国立歌劇場)と政治の関わりを描き、政治思想の歴史書としても読める真面目な本ですが、何年も付き合っていると、面白かったことや驚いたことがいくつかあって、それらを紹介したいと思います。






CONTENTS

第1回 シュターツオーパーと幻の5階席
第2回 あまたの歌い手のなかで
第3回 オペラとワイン 
第4回 シュターツオーパーと新旧の音楽総監督 NEW !


第1回 シュターツオーパーと幻の5階席


 第1回は、建物としてのシュターツオーパーを取り上げます。シュターツオーパーの内部で大きな部分を占める観客席の5階についてです。
 プロイセン共和国の時代からナチ時代の1941年12月12日の爆撃による破壊まで、シュターツオーパーには5階がありました。5階には座席と立見席があったのです。その時代の観客席の写真です。

             ©︎Preussische Messbildanstalt(Unter den Linden : historische Fotografien. Berlin : Nicolai,©2011)

 あらゆるものが破壊された跡を受け、再建のほかに用途があったにもかかわらずドイツ民主共和国は1952年からシュターツオーパーの再建工事に着手しました。その工事にオーストリア人エーリヒ・クライバーの果たした役割は大きく、彼が「1742年に建築家クノーベルスドルフによって建てられ、『老フリッツ』がドイツ国民に贈ったのとまったく同じように」と言い、それを言質に彼をシュターツオーパーの音楽総監督にすると東ドイツ政府が決めたのでした。
 彼はその設計時に「ものわかりのいい人の牙城」である5階席をなくして「建物をまたしても低くするのは、私は残酷だと思います」と言っています(1951年9月18日付。註144)。1953年6月13日に全土のストライキがありましたが、工事は影響を受けませんでした。そして着手から3年以上かけ、延期に延期を重ねた挙句の果てにシュターツオーパーは再開場されました。しかしその時に5階席はありませんでした。それが下の左半分の写真です。

左写真 ©Marion Schiele / 右写真 ©hg merz

 2010年10月からドイツ連邦共和国は、バレンボイムなどの要請を受け、建物として時代に取り残されたシュターツオーパーの改築工事を行いました。この工事も延期を重ね、内容も追加されて大きくなり、完成まで足掛け8年を要しました。
 2017年10月3日に『ゲーテのファウストからの情景』(ユルゲン・フリム演出、ダニエル・バレンボイム指揮、ロマン・トレーケル、エルザ・ドライシヒ、ルネ・パーぺ、カタリーナ・カンマーローアー他座付の歌手たち、そして役者)で再開した際にも、5階はありませんでした。音響のための客席のスピーカー(隠されていて観客の目には触れない)を取り払い、残響が長くなるよう天井を高くして改善しましたが5階はないままでした。上の右半分の写真が現在の内部です。
 5階にはそういう紆余曲折があります。劇場の構造にも歴史があったのです。  (2023年10月12日)
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第2回 あまたの歌い手の中で


 アスター氏は、本書の中で、たったいま思いついたように、しかしドンピシャのタイミングで歌い手の名前を挙げて話を盛り上げます。それらの歌い手を知っていて録音を聴いたことがある、あるいは実演に接して声を聴いたことのある人には堪らない登場の仕方です。

 本書には人名索引がありますので歌手の名前で簡単に検索できます。多くの歌手の名前が挙がっていて、述べなければならない人もいるのですが、私に親近感のある歌手を取り上げることにいたします。

  1.ビルギット・ニルソン       (ソプラノ)
  2.ハンス・ホッター         (バス)
  3.エリザベート・シュヴァルツコップフ(ソプラノ)
  4.ペーター・シュライヤー      (テノール)
  5.テオ・アダム           (バス・バリトン)
  6.ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
  7.アンナ・トモーヴァ=シントウ   (ソプラノ)
  8.シルヴィア・ゲスツィ       (ソプラノ)

 これらの歌い手は誰もが座付の歌手から経歴を始めました。指揮者と同じく歌い手も、どこかの歌劇場に専属で雇われます。声の絶頂期を迎え、歌手として脂の乗り切った時期も代表的歌劇場の座付でした。1950年代から1960年にかけてはそうでした。
 その後1960年代が進むにつれてジェット機が発達し、優れた歌手たちは歌劇場を離れて世界中を飛び回るようになりました。座付の概念が変わってきたのです。それから70年ほど経った現在では座付は一般的に駆け出しの歌手にしか該当せず、声の絶頂期を迎えた優れた歌手が座付のままでいるのは珍しくなりました。シュターツオーパー ・ウンター・デン・リンデンは、バレンボイムが音楽総監督を務めていたお陰で、少なくとも2020年代の初めまではその珍しい例の一つでした。女声ではカタリーナ・カンマーローアー、アンナ・サムイル、マリーナ・プルーデンスカヤ、男声ではルネ・パーぺ、ロマン・トレーケル、アルフレッド・ダーツァ、アンドレアス・シャーガーほかの歌い手が座付でいたのです。

 それでは8人の歌手の話をしましょう。

1.ビルギット・ニルソン(1918-2005)が指揮者レオ・ブレッヒ(1871-1958)の秘蔵っ子だったということは知りませんでした。ユダヤ人の彼は、「極端に国粋的なバイロイトでは決して指揮しなかった。… にもかかわらず、生まれながらの音楽家だったブレッヒは、抗しきれず1948年にワーグナー家に書簡を送った。」彼は、「スウェーデンで若きソプラノ歌手を発見し、彼女が神からの使命を授かり、偉大になると見て、… 彼女がドイツ文化の中心地のバイロイトへ行くことを望んだ。彼女はブレッヒのお気に入りであり、彼からワーグナー家への贈り物だった。彼女は、名をビルギット・ニルソンといった。」
 戦後バイロイト音楽祭のヴィーラント・ワーグナー演出で彼女がイゾルデを歌い、指揮者カール・ベーム(1894-1981)の下でトリスタンを歌い演じるヴォルフガング・ヴィントガッセン(1914-1974)と繰り広げた名演奏は20世紀の金字塔でした。

2.ハンス・ホッター(1909-2003)は、オペラ歌手として一斉を風靡しました。ホッターはシュターツオーパーのナチ党員一覧表に「ドイツで最も優れた独唱者数人」が含まれその中の一人でした。「かつてシュターツオーパーで活躍したマーリア・ミュラー … から、イルムガルト・ゼーフリート … 、若きハンス・ホッターまでが」いて、第二次世界大戦後の非ナチ化裁判を受けなければならなかったと書かれています。
 非ナチ化の後ホッターは、1950年代、60年代のバイロイト音楽祭の『ニーベルングの指輪』でヴォータンを歌い演じて抜きん出た存在でした。晩年はオペラからリートに移って活躍し、オペラの世界とリートの小宇宙はホッターの代表的舞台でした。シューベルト作曲の連作歌曲『冬の旅』を歌う彼を、私は1960年代に神戸の国際会館で聴きました。

3.エリザベート・シュヴァルツコップフ(1915-2006)はオペラで大活躍をしました。彼女も、第二次世界大戦後に「罪有リ」のベルリン市立歌劇場アンサンブルの中に「エリザベート・シュヴァルツコップフという名の若きリリック・ソプラノ歌手がいた」とされています。彼女の録画で知られているのが、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)が指揮するリヒャルト・シュトラウス作曲『薔薇の騎士』の伯爵夫人を歌い演じていましたが、二人共にナチ党員だったという過去があります。
 彼女は、EMIの敏腕ディレクターだったウォルター・レッグ(1906-1979)の夫人として、戦後オペラとリートで大活躍したのですが、第二次世界大戦時の黒い噂がつきまとっていました。1970年代に私は大阪のザ・シンフォニーホールで彼女のリートの夕べを聴き感動しました。

4.時代は下がり、現代の一つ前の世代で、ペーター・シュライヤー(1935-2019)とテオ・アダム(1926-2019)がルース・ベルクハウス(1927-1996)批判の急先鋒だったという話には驚きました。
 シュライヤーはドレスデンで経歴を始め、東ベルリンのオペラ界で大活躍したテノール歌手で、モーツァルト、ロッシーニなどを歌って他の追随を許さない傑出した歌い手でした。オペラだけでなく、リートの世界そして受難曲の福音歌手として並ぶ者がいないほどの評価を受けました。シュライヤーは、指揮にも取り組み相応の評価を得ました。
 訳者あとがきでも触れたように私は、モーツァルト作曲『イドメネオ』をベルクハウスが演出し彼が振るのを1981年6月6日に観ました。それはつい1ヶ月前の5月2日にプレミエを出したのと同じ指揮者と歌手での演奏でした。
 シュライヤーにはそのオペラを振る選択の余地がなかったのかもしれず、またベルクハウスの演出もシュターツオーパーで最初期の41歳だった『セヴィリアの理髪師』から13年を経て同じ演出だったとは考えられません。変容していた演出とはいえ、シュライヤーがどのように考えて彼女の演出する『イドメネオ』を振ったのか天国の彼に訊いてみたいところです。
 ちなみにベルクハウス演出のなかで初期の『セヴィリアの理髪師』(1968年)と最後の『ペレアスとメリザンド』(1991年)はいまもシュターツオーパーのレパートリーにあります。その2作品を遺し、ベルクハウスがいかに優れた演出家だったかを、公演を通じて示そうというシュターツオーパーの強い意志を感じます。彼女については本書で詳述されています。

5.テオ・アダムがプッチーニ作曲『トスカ』の悪役スカルピア男爵を演じたのを、1981年に私はミュンヘンで観ました。スカルピアの悪さはこのように演じなければならないというような、素晴らしい演技と歌唱に感動しました。その彼が、シュライヤーとともに東ドイツでは重鎮としてベルクハウスを批判していたのは、当然といえば当然かもしれません。彼らはナチ党員であったことはなく東ドイツでは一点の曇りなく罪ナシだったので、戦後東と西を行き来して、亡命することなく大活躍しました。ドレスデンで1985年のゼンパーオーパー再建記念公演の際には、シュライヤーとともに彼は東ドイツの国家主席エーリヒ・ホーネッカーに挨拶していました。

6.ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925-2012)を見出したのはベルリン市立歌劇場の支配人ハインツ・ティーティエン(1881-1967)だったというのは知りませんでした。フィッシャー=ディースカウは第二次世界大戦で捕虜となって苦労し、その後バリトン歌手としてデビューしたことは知っていましたが、ティーティエンが引き立てたからだという理由を本書によって知りました。
 西劇場で上演された1949年の『ドン・カルロス』は、フェレンツ・フリッチャイ(1914-1963)が指揮し、ボリス・グレーヴェルス(1902-1964?)が主人公を歌って、フィッシャー=ディースカウがポーサとしてデビューを飾り、彼は瞬く間にスターダムにのし上がりました。
 バリトン歌手の彼が50歳頃にピアニストのバレンボイムと出会い、双方の演奏理念を認め合ったのか、リートの仕事がはじまって次々と録音がなされました。フィッシャー=ディースカウは、それまでにもリートの伴奏者として高名なジェラルド・ムーア(1899-1987)、指揮だけでなくピアニストとしても秀でていたヴォルフガング・サヴァリッシュ(1923-2013)などと組んで演奏していましたが、1960年代末から1970年代にかけてバレンボイムと組み、シューベルト、ブラームス、ヴォルフなどの録音を遺しています。
 私は、リヒャルト・シュトラウス作曲『影のない女』の、男性歌手の主役バラクを演じるフィッシャー=ディースカウを1981年にミュンヘンで観ました。その存在感に圧倒され「後光が射していた」と感じたのは私だけではありませんでした。公演後に立見席の日本人と「フィッシャー=ディースカウには後光が射していた」と言い合って確認したのを鮮明に思い出します。人の存在に後光を見たのは二人目でした(一人目は山田無文)

7.アンナ・トモーヴァ=シントウ(1941- )が1980年代に東欧圏のブルガリアから社会主義圏では豊かな東ベルリンへやってきたのは、シュターツオーパー支配人のハンス・ピシュナー(1914-2016)が呼んだからだというのも新しい情報でした。当たるを幸いに彼女はソプラノ歌手の役どころを歌って一世を風靡しました。私が知っている彼女は、昔からシュターツオーパーにいるかのような大御所女性歌手として振舞っていて、バレンボイムとも仲が良いのでした。

8.シルヴィア・ゲスツィ(1934-2018)もトモーヴァ=シントウと同じで、ピシュナーに呼ばれて1980年代に東欧圏のハンガリーからシュターツオーパーにやってきました。ハンガリーにいるよりも東ベルリンを選んだのです。彼女のことを覚えているのは、彼女のピアニストが日本人で、その彼と私はドイツで知り合ったという理由によります。

 というわけで、挙げていけばきりがないほどアスター氏はオペラに詳しい人でした。それも若かりし時に彼ら歌手がナチ党員であったかそうでなかったかという観点が大きな指標となっています。しかしあらゆる人がナチスと何らかの関係があり、十把一絡げにいかない複雑な事情があって、極東の私たちには測り知れないものがあるようです。また第二次世界大戦後の東ドイツにも壁の建設などの難しい時期があり、20年以上後に活躍していた歌手も、時代の波から何も影響を受けなかったとはいえませんでした。アスター氏はそれに対し、自分の思いはできる限り控え、資料が語るのに任せています。
 彼が実際に聴いた、実際には聴いたことがなくて録音資料で聴いた、文字資料でしか知らない等々の事情は様々だと思われますが、アスター氏の血肉となっているのが素晴らしいところです。本書には、オペラとともに縦横無尽に政治と歴史を駆け巡る面白さがありました。 (2023年10月20日)
 
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第3回 オペラとワイン


 オペラを観るためシュターツオーパー・ウンター・デン・リンデンをしばしば訪ねていたのと同じように、シュターツオーパーから歩いて5分くらいの所にあり、コンツェルトハウス(旧シャウシュピールハウス)の真向かいのドイツ料理店ルッター&ヴェーグナーにも、昼ご飯、晩ご飯、観劇の後の一杯のためによく通いました。

 ルッター&ヴェーグナーが入っているこのビルは、フリードリヒ通りの一本東のシャルロッテン通りとタウべン通りの角にあり、第二次世界大戦で廃墟になった後に再建されました。そして東ドイツ時代を経てドイツ連邦共和国時代にもう一度修復された建物です。右下に2014/10/11と撮影の日付が入っていますが、日本時間ですので8時間遡るとドイツ時間になります。撮影したのは10月11日のお昼でした。

 エルンスト・テーオドール・アマデウス・ホフマン(1776-1822)は100年前の1814年に法律の専門家として3回目となるベルリンへ移り、この建物に1815年からその死を迎える年まで住んでいました。多才なホフマンはオペラも作曲し、『ウンディーネ』は当時王立歌劇場と言っていたシュターツオーパーで成功し、評判が良かったということです。
 E・T・A・ホフマンとルートヴィヒ・デフリーント(ドヴリアンとも表記)(1784-1832)は、同じ建物の、1811年にできたルッター&ヴェーグナーの常連で、しばしばそこで酒を酌み交わしました。オッフェンバック・アム・ライン生まれのジャック・オッフェンバック(1819-1880)はE・T・A・ホフマンの3つの短編、『大晦日の夜の冒険』、『砂男』、『クレスペル議員』に基づいて最後のオペラ『ホフマン物語』(1880)を作曲しました。それをギローが補作し、遠く離れたパリで1891年に初演されました云々。

 ホフマンの伝記には翻訳があります。リューディガー・ザフランスキー著『E.T.A. ホフマン』(識名章喜訳、法政大学出版会、1994)(叢書ウニベルジタス 439)。その付録に、ホフマンが、ルッター&ヴェーグナーのこのビルの自分の住居から見える人たちと動物を、想像を交えて描いたペン画と(1815年7月18日手紙に同封)、解説があります。またルッター&ヴェーグナーの創業200年を記念した書籍もあります。Zimmermann, Matthias, Lutter & Wegner Gendarmenmarkt, 200 Jahre Berliner Geschichte und Geschichten. Berlin 2011.

 ルッター&ヴェーグナーは所有者の変遷もありましたが、今日ではレストラン、いわゆるビストロ、飲み屋、バーを兼ねる複合施設として隆盛を誇っています。目的別のお店を備えた由緒ある本店のほかに支店もあります。一つは、現在のフィルハーモニーそばでポツダム駅近くのソニーセンターが入った複合施設の一角の新しい瀟洒なレストラン、もう一つは、それと少し離れた古ポツダム通りの、戦災にもめげなかったビルの一角の、古風だけれど粋なレストランです。私はベルリンへ行くたびにルッター&ヴェーグナーを訪れ、結局すべての店でワインを愉しみドイツ料理に舌鼓を打ちました。
 ルッター&ヴェーグナーはワイナリーも持っているので訊いてみました。「グラウブルグンダー(ピノ・グリ)やリースリンクからのワインはあるのですが、他の品種では造らないのですか」と。その返事は「神をも恐れない所業の交配で生まれた品種からではなく、純粋種からしかワインは造りません」というものでした。製法から提供までお店がそういう確固たる方針で運営されていることを知って、納得しました。

 2016年にもベルリンへ行きました。ルッター&ヴェーグナー本店の外に出ている気軽なテラス席に、リハーサルを終えたらしいバレンボイムがやってきて、1時間後にはシュターツカペレの演奏会があるというのに赤ワイン片手にゆったりしていました。そこへ第1ヴァイオリン奏者が現れてなにやら話が始まりました。話の内容は分かりませんが、シュターツオーパー音楽総監督として四半世紀を経て、信頼し合う仲間とのいつもの会話のように見えました。

 その晩5月10日のフランス物の演奏曲目には、ドビュッシーとシュターツカペレのチェロ奏者を独奏者とするデュティユーの協奏曲そしてラヴェルがあり、またも完璧な演奏でした。ジャンダルマン広場にあるシンケル設計のシャウシュピールハウス(現コンツェルトハウス)は19世紀の理想形を思わせる、時代の雰囲気を持った音響の良いホールで、その日の演奏を盛り立てていました。

 バレンボイムは、フィルハーモニーと翌晩のコンツェルトハウスで行われるシュターツカペレの演奏会も振りますが、なんといっても本領はシュターツオーパーのオペラで発揮されます。彼の棒でいくつかのオペラを観ましたが、それらのどれもが感動的で裏切られることはありませんでした。レパートリー公演では『ヴォツェック』2回と『トリスタンとイゾルデ』2回、新制作の公演では『皇帝の花嫁』と『トスカ』そして『パルジファル』、『シモン・ボッカネグラ』でした。彼以外の指揮者も多彩な顔触れが選ばれていて、いまが旬の指揮者たちですが、『魔笛』と『愛の妙薬』そして『仮面舞踏会』、『魔弾の射手』を観ました。

 彼は音楽総監督です。しかしシュターツオーパーの歴史を紐解くと、支配人が別にいて采配を振るっていた時代もあり、ティーティエンは1925年から20年間、ピシュナーは1963年から21年間務め、その間は音楽総監督よりも支配人の力が大きく、シュターツオーパーは支配人でもっていたといえます。バレンボイム時代の支配人は6年から11年と彼より短命で、実質的にシュターツオーパーの責任者だったのはバレンボイムではないでしょうか。彼が音楽総監督(と藝術監督)になってから2023年で31年になります。  (2023年11月3日)
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第4回 シュターツオーパーと新旧の音楽総監督


 ダニエル・バレンボイム(1942- )は、日本ではどういう訳かあまり評価されていません。それには彼がピアニストであったにもかかわらず指揮者にもなったことに対する批判が大きく影を落としているように思います。
 しかしピアニストであると同時に指揮者であるという二刀流の方が、海外では評価されています。彼はオペラとコンサートを指揮し、ピアノ独奏者としてシュターツカペレと和気藹々で演奏する、そして室内楽曲で演奏者たちと組んでピアノを弾いています。コンサートを成功に導くのはそう簡単なことではありません。
 コンサートに輪をかけてオペラは更に困難を極めます。楽曲を暗譜するほど理解し、歌手と演出家そして技術部長や各工房の責任者、書割の技術者たちといった諸々の人との関係があり、オペラにはコンサート以上の大きなエネルギーが必要です。

 一方セルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)のようにオペラは振らず、コンサートだけに専念する指揮者もいます。コンサートとオペラには違いがあることを認識していて、彼の場合はオペラには手を出さないといった方が適切かもしれません。

 バレンボイムはオペラとコンサートの両方を演奏します。彼が両方を指揮できることを喜ぶ人たちがシュターツオーパーとシュターツカペレの中にいます。日本ではオペラとコンサートの両方を指揮する人が少なく、日常的にオペラが公演されているわけではないので、オーケストラとオペラの両方を振るという意味がよくわからないところがあります。日常的にオペラを上演している常打ち小屋は東京にある新国立劇場だけです。1つだけでも常打ち小屋があることを感謝しなければいけませんが、ドイツの街には歌劇場と演奏会場があり、日本とは反対にオペラで成功を収めてからコンサートに乗り出すというのが指揮者の経歴として普通のプロセスです。

 オペラとコンサートの両方で大きな成果をあげている指揮者に相応しい例がクレンペラーです。
 オットー・クレンペラー(1885-1973)はマックス・シリングス(1868-1933)に対し1923年に次のような要求を出しました。

 支配人の交代あるいは「現国家体制の変更」があっても解約できない10年契約、音楽総監督という地位にともなうあらゆる権限、公演予定表から「彼が指揮したいと希望する仕事を選ぶ」権利、公演予定表・契約・解雇等における「共同決定権」、1楽季に2回は特定の作品を自ら演出する権利あるいはその作品の演出・舞台装置チームを選ぶ権利、オーケストラのリハーサルが3回ないし4回以下ではオペラの指揮はしない。…
 … 十分な回数の稽古に参加しない、いわゆる「賓客」(たとえばミヒャエル・ボーネン)が出るオペラを指揮する義務は音楽総監督にはない。様式と解釈の面で彼と意見の一致する客演者だけが出演するかどうかの考慮に値する。
 オーケストラの規律と編成は音楽総監督の管轄下に属する。1つの同じ作品のリハーサルと本番で違う人がいてはならない。…
 … きわめて保守的な演奏会聴衆の更新にあたっては、予約の解約ないし非更新で対応することが可能である。従来の定期会員は、現代の音楽的問いが抱える問題に理解を示して立ち向かう音楽総監督にあまり相応しくない。(p. 114)

 シリングスはこの時点ではこれらの条件を検討する資格がなかったと言っていて、クレンペラーをシュターツオーパーに呼ぶ試みは実現しませんでした。実現したのはティーティエン(1881-1967)が彼をクロルオーパーに呼んだ4年後でした。

 40年以上前クロルオーパーの責任者に就くまでにはクレンペラーにはそういうやり取りがありました。クレンペラーの晩年にバレンボイムは第二次世界大戦後のイギリスでクレンペラーに呼ばれ、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲の録音に参加したことがありました(1967-1968年)。オーケストラはクレンペラーの手兵であるフィルハーモニア管弦楽団でした。
 その時バレンボイムは、クレンペラーがシュターツオーパーの支所運営としてのクロルオーパーで1927年から責任者だったこと、またその4年前にはオペラのため良かれと考えた多くの要求を出していたことを知っていました。

 バレンボイムがクレンペラーのその要求を思い出したのは、パリでの計画が政治問題となって頓挫した後、陰に隠れていた支配人ギュンター・リムクスの代理ヨアヒム・ロベルト・ラング(1940-2014)相手にシュターツオーパーで交渉をしていた時ではなかったでしょうか。
 クレンペラーが出した条件と似て、時を経て中身は変わっていましたが、彼はシュターツオーパーに対し趣旨としてはほぼ同じような要求を出して交渉し、最終的に大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(1920-2015)をはじめとするベルリンの関係者たちから支援を受けて、シュターツオーパーの藝術監督兼音楽総監督に就任しました。

 藝術監督(彼はその地位を長くは務めませんでした。シュターツオーパーを立て直すまでだったと思います)と音楽総監督は公演予定表に責任を持つのが大きな仕事です。
 新制作のプレミエを出すのはどのオペラか、誰に演出してもらうか、それを何年後に舞台に乗せるか、歌手のそれぞれに連絡して彼らと契約する等のことをしなければなりません。またレパートリーのどのオペラを取り上げて演目にするか、客演指揮者を呼ぶか、自分のところの楽長に振らせるか、自分の助手の副指揮者にあのオペラで一晩任せてみようか、どのオペラにどの歌手がよくて彼あるいは彼女と指揮者や演出家と相性がいいのだろうかなど、1年間をどのように組み立てていくかの公演予定表を決めなければなりません。
 新制作をはじめとしてレパートリーのオペラも自分一人では決められず、支配人や演劇制作部主任(ドラマトゥルギー部々長)、主席演出家などと合議制で決めていきます。
 長く音楽総監督を続けるためには、行なっていることが評価され、周りから賛同を得なければなりません。なにより音楽総監督として自分自身が振るオペラに評価が得られなければ続けることはできず、オペラに関わる人たちをまとめ上げる力がなければ新制作のプレミエを迎えることはできません。

 コンサートの指揮者は音楽家の普通の在り方ですから評価を加え批判することができますが、オペラとコンサートの指揮者・ピアニスト・歌手の伴奏ピアニスト・室内楽奏者そして歌劇場の管理者としてのバレンボイムを評価することは私たちには難しいのかもしれません。

 私はシュターツオーパーでオペラを観るだけでなく、そのショップにも度々寄りました。日本では買えないものをそこで買うことができました。
 2017年2月下旬、突然病に襲われました。脳梗塞は比較的軽度で3ヶ月で退院できましたが、長時間飛行機に乗り、時差のあるベルリンへは行けなくなりました。シュターツオーパーのショップを楽しんでいたのですが、悲しいかなその楽しみは奪われてしまいました。

 しかしいまは現地に出かけなくても情報を得る手段(インターネット検索)があります。2017年の秋頃からはシュターツオーパーのホームページでショップを見るようになりました。何度もショップをチェックしては電源を切ることを繰り返していました。
 2018年の11月のある日のことショップを検索していてアスターさんの本と出会いました。すぐに購入しました。アスターさんの本を通読し、翻訳して出版物にしようという考えが固まってきたのは、読みはじめて3年くらい経った2021年の暮れ頃ではないでしょうか。

 この本の序文を書いているのはバレンボイムです。しかし彼も寄る年波には勝てず、2022年にはシュターツオーパーでキャンセルを繰り返していました。その年の夏に彼がウエスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラを指揮したザルツブルクでの公演は日本でも放映され、観られた方も大勢いらっしゃったと思います。その映像を見て胸を衝かれたのは、バレンボイムが老翁になっていたということでした。豈に図らんや、彼は2023年1月6日に、その月一杯でシュターツオーパー音楽総監督を辞すると表明しました。

 残念ながら、昨年来私の健康状態は目に見えて悪くなりました。私は、音楽総監督の権限に求められる仕事をまっとうすることができません。2023年1月31日をもってこの職を辞することにご理解を賜りますようお願いいたします。州政府文化大臣におかれましては、その時点で私たちの契約を解消されますようお願いいたします。
 私は、1992年以来シュターツオーパー・ウンター・デン・リンデン・ベルリンの音楽総監督として活動してまいりました。その年月は、あらゆる点で音楽的にも人間的にも私たちにとって素晴らしい年月でありました。シュターツオーパーとお互いが大いに幸せであったと私は思っています。とくにシュターツカペレが私を終身首席指揮者にされたのは喜ばしくまた誇らしいことでした。私たちは、その年月を越えて音楽上の家族となりまたそうあり続けたいと願っております。私は、この間の退職者たちを含めシュターツカペレのすべての団員を高く評価し、またシュターツオーパーの独唱者と合唱団員そしてすべての職員、とくに私付きの職員アンティ・ヴェルクマイスターに敬意を表します。
 とりわけ私が喜ばしく思うのは、アンジェラ・メルケル連邦首相とヴォルフガング・ショイブレ連邦大統領がこの上なく誠実に対処してくださったことです。私はまた、困難な時期に手を差し伸べてくださったクラウス・レーデラー州政府文化大臣にも感謝申し上げます。いうまでもなく、命ある限り私は音楽と緊密に結びついており、そして指揮者としてシュターツカペレ・ベルリンとまた一緒に働くのはやぶさかではありません。    ダニエル・バレンボイム

 彼とシュターツオーパーとの31年は、シュターツカペレ終身指揮者を除いて、ここに幕を閉じました。
 シュターツオーパーは一人の音楽総監督を失っても存続を続けます。人は誰しも老いを避けることはできません。しかし団体は生き続けます。


  開演を待つシュターツオーパーの観客席 ®Ebener

 2023年9月27日に発表されたシュターツオーパー報道によるとバレンボイムの後任は、2024年9月1日からクリスティアン・ティーレマンです。ベルリン生まれでベルリンに住まいがあり、ドレスデンではゼンパーオーパーの目と鼻の先にある超高級ホテル住まいのティーレマンは、バレンボイムより19歳年下で、一昨年還暦を迎えました。シュターツオーパー・ウンター・デン・リンデン・ベルリンの新しい時代が始まります。  (2023年11月16日)
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