「オーマの宝石箱」  比企寿美子 Sumiko Hiki


 筆やペンを構えて本を作るという時代が消えつつあり、読み手が激減したいま、キラキラしない地味な本作りはもっと難しいと言われる。
 これでは年々ボケていくと出窓社の某氏にグチったら「じゃあ、ブログをお書きになりませんか」と場所を開いてくださった。
 成人した孫たちの祖母「オーマ(独語)」のわたしは、終活の一歩として古びた宝石箱の蓋を開いたら、値打ちのないガラクタだけでなく、無形の思い出という宝がポロポロとあふれ出てきた。いま、それらの記憶を繰りよせる。




CONTENTS

第1回 わたしの宝石箱
第2回 プラトニックラブは永遠に
第3回 むかしの色は恋模様
第4回 留学昔ばなし① 祖父たちの時代
第5回 留学昔ばなし② 父たちの時代
第6回 わたしと食  NEW !

第1回 わたしの宝石箱


 マンションの4階から窓のカーテンを閉めようと、夕暮れの風景に目をやる。凸、凹と続く雑多なビルに電気が灯り始めた。一番奥にそびえるキュービックな超高層ビルは、外壁全体が窓ガラスでデザインされていて、遥かに見ると一面に透明な色ガラスのタイルを張り付けたようだ。どこか外国の王家の宝物館で観た大きな宝石箱に似ている。

 第二次大戦後、進駐軍のキャンプへ父が往診を頼まれて行った時、御礼にと箱入りのチョコレートを頂いて帰宅した。A4の紙を二つ折りにしたくらいの大きさの箱は、淡い黄色で、オシャレな花の刺繍模様が一面を飾る。蓋を開けるとナッツやマシュマロ、ドライフルーツが可愛く入ったチョコレートが、フリルの付いた茶色い敷紙に一個ずつ、宝石のように載っていた。両親が「さ、お上がり」と勧めてくれたが、口に入れるのがもったいなくて、中身がなくなるのにしばらくの時を経た。
 実は中味のなくなったこの箱こそ、わたしには大切で、蓋を開けるとたちまちチョコレートの甘い香りが飛び出してきた。
 幼い小学生のわたしはその中に何を入れていただろう。いつか行った川岸や浜辺で拾った、桜貝やたぶんラムネの瓶が欠けて小さく丸くなった緑色のガラス片、使いこんでこれ以上削れないほど短くなったピンク色の鉛筆、スイス人の伯母から従姉のお下がりでもらったジャケットの金属ボタン、ていねいに畳んだアメリカのチューインガムの包み紙など、お宝を思い出す。何枚かの犬の鑑札はそれぞれのワンコの思い出と共に収まっている。
 戦後はじめて仕事で米国旅行をした父は、1ドル=360円であった時代で高いものは買えなかったと言い訳しながら、西部劇映画にハマっていたわたしに、先住民の手作りの7センチほどの木っ端の頭の天辺にショボショボとした動物の毛を貼り付けビーズの目玉が付いている人形を渡しながら、これは幸運を呼ぶお守りだと言った。そう言われると確かに霊験あらたかで、学校の入試もお見合いも、お陰をこおむり、長じても大切な機会にバッグに忍ばせた。
 20歳を迎えた時、両親からルビーの小さな指輪をもらい、チョコレートの空箱を卒業してこれを納めるに相応しい皮張りの宝石箱もゲットした。嫁入り前にチェックすると相変わらず宝石箱は閑散としていたが、一番下に敷いてある紙切れは、生まれて初めて観た大相撲桝席の券だ。
 最近、終活で身辺整理をしなければと思いながら、古めいて剥げかけた宝石箱を開けたものの、形見として子孫に残すような有形物はない。だが、生涯で起こった出来事と思い出の欠片は、無形ではあるが数々と残っている。それがわたしの宝石だ。
 (令和6年2月3日) TOPへ

第2回 プラトニックラブは永遠に


 毎年、定位置に掛けるワンワン写真集のカレンダーが、今年はない。この送り主をはじめ次々とくる親しい友人たちの訃報は、元日早々の能登半島地震や航空機事故で縮んだ心を、更にむち打つ。

 クリスマスには、家族ぐるみで親しい海外の友人たちに電話で生存確認をし合うのが恒例であった。生前に夫が学術交流で尽くしたドイツ外科学会の機関誌に書いてくれた追悼文の礼を言わなければと思いつつ、ミュンヘンのエルの電話番号をプッシュした。いきなり電話口に出たジィ夫人が「彼が、もうダメなの。肺の病気で大変なの。これから病院に行くから、あなたの電話のこと、伝えるね。年が明けて、退院できたら必ず一緒に電話を返すから、祈って待っててね」。いつものおっとりした艶っぽい声が、涙でとぎれ慌ただしい。
 そして年明け早々、エルが病院の一室でジィに見送られ召天したとの知らせが届いた。
 エルは渋い知的イケメンで、連れ添うジィは輝く金髪としなやかなボディの美人さんだ。エルは前妻と別れた後にジィと出遭い、チャーミングな目元に浮かぶ甘ったるい微笑みに陥落した。見た目の華やかさだけでなく、障害を持つ先妻との子供たちの世話を心をこめてするし、エルの仕事先の人たちの評判も悪くない。間もなく二人は正式に再婚した。
 欧米社会の集会には、誰かを伴って出席するのが一般的で、医学会では会員と同じく同伴者たちも専門職を持つ大学卒のインテリが多い。学校を出ると直ぐファッション関係の仕事に就いたジィが、その輪の中で孤立している様子が、同席している無職でただの主婦のわたしには、痛いほど分かった。
 わたしには祖父の代から家族ぐるみで仲良しのドイツ人外科医夫妻がいて、彼らは4人の娘を育てながら医療に携わっている。多忙な中でも夫妻は様々な文化人を家庭に招き、大きな社交の輪を作っていた。そしてわたしたちがベルリンを訪問すると必ずその輪の中に招き入れ、様々なドイツ知識人の話を直で聴き文化を学ぶ機会を用意してくれる。異文化の中でポツンと孤立する人間を放っておけない夫妻なのだ。
 日本で開かれたある国際会議の女子会で、その外科医夫人の隣に、わたしはジィの手を引っ張って座らせた。好奇心の固まりともいえる夫人は、以前わたしにもしたように、微笑みながらも遠慮なくジィに次々と質問を投げかける。ジィはゆったりとしたオーストリア訛りでひとつひとつ誠実に答え、自分の育った環境と現在の状況差をありのまま物語った。以来、夫人は愛らしいジィをそっくりそのまま受け入れ、自分たちの娘のように包み込み、味方となった。

 「新進外科医エルの業績に日本で最初に目を付けたのは僕だ」とご自慢の、日本外科のレジェント先生にもエルの訃報を伝えた。90歳半ばの先生は「エルはまだ84歳だったのか、若死にだな。ジィは可哀そうに」
 先生は半世紀前に愛妻に先立たれて以来の独身で、学生時代にボート漕手だった容姿と学者としてのキャリアが紡ぐ知的雰囲気に、幾つかの再婚話が噂になっては消えた。
 ジィがエルと結婚して間もなく、二人は日本である招宴に出席した。ジィは若い頃のモデル時代のことを、まだ知り合って間もなかったわたしに写真を見せながら物語る。向かいに座る例の先生の視線が妖精の魅力から離れないので、数枚の写真を渡してあげた。中に一枚ビキニ姿で浜辺に微笑むショットが、先生の手許に渡ったとたん、持っていたワイングラスを取り落とし、真っ白な食卓に赤い波が押し寄せた。
 エルが会長を務めた国際会議のもてなしは、ドイツアルプスの山小屋風ホテルでの会食だった。そこへ向かうため山麓の湖に沿って登るバスの窓から厳しい冷風が吹き込む。中ほどに座るあの日本代表の先生は、自分のコートを脱ぎ前列のジィの肩に着せ掛けながら、わたしを振向いて囁く。「ジィは嬉しそうに笑っているから、僕のことキライではないよね」と確かめた。続けて「君ね、あのコートはね、味噌煮というのではないんだ。イタリア製のミッソーニという、とても高価なものだよ」
 エルが亡くなったと知った先生は「ジィも独りぼっちか。会いたいな。でも僕は目が悪くて、今どこにも行けない。たとえ誰かにドイツへ連れて行ってもらったとしても、ジィのこと、見えないんだよな」
 昭和生まれの少年は、プラトニックラブを貫く。
 (令和6年2月16日) TOPへ

第3回 むかしの色は恋模様


 「春はあけぼの」。いにしえのさきがけエッセイストは、どんな色を想い浮かべてこの名文を書き始めたのだろう。千年あまりを経てケシ粒のような物書きの頭には、一面ソメイヨシノの桜色が広がる。
 第二次世界大戦をまたいで幼少期を過ごしたわたしの周りは、今テレビ画面に広がるウクライナやガザの戦場と同じく、どんよりと灰色が立ち込めるモノクロームの世界であった。
 終戦翌年に疎開先で小学校に入学し、その後、祖父の家の伯父一家が住む洋館の隣に住み、一学年上の従兄と同じ小学校に通うことになった。蒼い目を持ち栗色のしなやかな髪の彼は、スイス人の母親そっくりだ。伯父は工学を学びにドイツへ留学した時、休暇に訪れたスイスのスキー場で伯母と出会って恋に落ち結ばれた。日本に戻ると子供にも恵まれ、国際結婚ゆえに苦労があった戦争を乗り越えたが、混血児の従兄は、学校で、敵であった英米と中立国スイスとの区別ができない学友たちの冷たい目にさらされ、「あいの子」とささやく声で差別を受けた。転校して直ぐ気がついたわたしは、背を丸めるように歩く一つ年長の彼の、SPになったつもりで、あたりをイタチの目でにらみながらついて歩く。
 友達と遊べない時間をピアノの練習に替えた彼は、ついに新聞社主催の音楽コンクールで輝く優勝を勝ちとり一躍学校のスターとなった。わたしの暗闇にも初めてぽっと明かりが灯り、SPの任務も終了した。

 時は今から一世紀半もさかのぼる。日本の文化は鎖国の長い眠りから目覚めたが、一般人は西欧に接する機会がなく違和感を覚えていた時代だ。
 徳川末期にオランダ人医師としてシーボルトは、長崎の出島でお滝を見染め、やがて幕府に許され医療と医学教育の施設を鳴滝村に作り、二人は一緒に暮らした。お滝の美しさを日本アジサイに見たシーボルトは、紫陽花の学名を「ハイドランゲア・オタクサ」とし学会に届けている。国外追放で日本を去ったシーボルトの一人娘は、楠本イネと母方の姓を名乗り父親の門下生から医学を学んで、日本の女性医師第1号として活躍した。ほかにも出島に勤務したオランダ人たちと日本女性の間にも、幾つかの恋が生まれ、子供も産まれたと聞く。
 明治時代が明け外交が復活し、ハンガリー・オーストリアのクーデンホーフ伯爵は公務で来日して、頭脳明晰で優しい光子に出遭う。やがて日本の国際結婚第1号の正式な妻として、ヨーロッパに連れ帰った。社交界での彼女は、東洋について知識のない西欧の人々にとって、エキゾティックな美が注目の的になる。市井の娘で特別な学歴もない一女性が、完璧なドイツ語を操り、美しい文を書いた。羽ペンで書かれた流麗な筆跡が残るが、ここまでの努力は並大抵ではなく、ひたすらに夫に対する愛でしかなかった。西欧の社交界でも立派なレディとして名高く、フランスの香水メーカーのギャランは、彼女のイメージから “ミツコ”と言う名の香水を売り出した。その甘く神秘的な香りは未だ愛好家が多い。

 明治の西欧文化が花開くと、様々な分野の若い科学者たちが本場の学問を目指しヨーロッパに留学した。彼ら若者は異国の女性と付き合ったものの、結婚にまで至ったのは数少ない。その数少ない国際結婚のカップルは、花嫁を伴って帰国したが、日本の実家では事の成り行きにさぞ驚いたにちがいない。だが西欧で最先端の学問を学び、多くは大学に就職する息子たちを誇りに思う家族は、新しい文化もまるごと理解することができる、いわゆるインテリで、二人の住む家具調度を西欧様式で用意して、新婚夫婦を受け入れた家が多い。
 わたしの遠縁のひとりが、ヨーロッパ留学から帰国した直後に、碧眼金髪の女性が彼を追い、50日以上かかる船旅でやってきた。留学前すでに結婚して子供もいた彼は、あちらでの恋の結末に焦りまくり、彼女と再会しないまま、ゴッドマザーの母親に泣きついた。瞬く間に現状を理解した母親は、彼女を家に迎え冷静に応対する。日本語しかできないものの、手を駆使してお腹が膨むジェスチュアをまじえ「ムスコは、子ある。アナタ、子ない」と表現した。そして涙の止まらない彼女の肩をさすりながらヨーロッパ往復の船賃を包んで彼女の手に渡し、無事に母国に引き取ってもらったという逸話が残っている。
 わたしの父方、母方の祖父たちも同じ時期にベルリン留学組であった。二人は共に150センチほどの身長でバエもせず、蒼い目の美人さんに追われたという甘辛い話は、残っていない。  (令和6年2月29日) TOPへ

第4回 留学昔ばなし① 祖父たちの時代


 鎖国の蓋がドンと開き、社会の指導的立場にある者はちょんまげを切り、頭の中身を切り替え、刀を置いて和服を洋服に着替えるなどてんやわんやの中で、明治政府は西欧から社会制度、文化・学問のシステム導入を行った。各分野の日本人指導者を教育しようと、たとえば医学部門ではドイツから教師を招聘しドイツ語で教育を行い、学生たちは大学を卒業すると競って本場ヨーロッパへと留学した。北里柴三郎、森鴎外、夏目漱石等々である。
 1800年代後半にわたしの2人の祖父も、ベルリンに留学した。既にそこには医学分野だけで40人ほどの日本人留学生たちがいて、本当に西欧医学を究めたいという確固たる目的を持つ人だけでなく、箔をつけるためか世間体のためか、とりあえず渡欧した御仁も含まれる。父方の祖父三宅はやりは外科学をもっと究めようとしたバリバリの硬派、母方の祖父の佐多愛彦はいちおう病理学研修をしたものの夢はもっと大きく、自分の在籍する大阪医学校を欧州並みの大学医学部にしたい、その実現のため優秀なスタッフを集めたいという野心満々で、ここで出会った本気で勉強する勤勉な留学生仲間にツバをつけるのに忙しい。
 たとえば、留学生たちがベルリン滞在記念に納まった集合写真の中で、佐多は学業一筋の三宅の肩に手をかけしっかりキープし、帰国後に大阪医学校にスカウトしている。この時の祖父たち二人は独身で、ずっと後にそれぞれの子供として生まれる父も母も、まだ影も形もなく、いくら先読みの上手い佐多であっても、将来二人の子供を一緒にしようなどは論外であった。
 三宅はドイツで評判の新進外科教授ミクリッチに教えを受けたいと、ひとり汽車に乗りドイツ領だったブレスラウ(現在ポーランド・ブロツワフ)へ向かう。ガイドブックも情報もない当時、ようやくたどり着いた大学の玄関は、想像以上に高く大きく、目の前を遮っているようだった。
 それから一世紀後、その同じ扉の前に、夫とわたしは立った。三宅が150センチほどの背丈をそっくり返るように伸ばして、西洋の生活になじむのはどんなにか大変だったろうと街の広い石畳の道を歩きながら、わたしは母親のように心配する。たとえば高い座面のトイレは床に足が届かず落ち着かなかったろうし、高い所にある鏡は髭そりのたびに椅子を踏み台にしたに違いない。苦手なトマト料理は食べられたかしら。祖父の日記に、「トマトウなるもの」を初めて口にしたのは大学時代で、外務省高官の息子宅で西洋料理を出されたが、初体験のトマトの青臭さに全身が震え、思わず窓に駆け寄って吐き出したという前科が正直に書き残されている。
 「大学病院で初めて外科手術を手伝ったお祖父さんに、教授が『君は左手を右手と同じように使えるね』と言われたと日記にあるじゃないか。外科医として、それって最高の誉め言葉だよ。普段の生活の苦労がいっぺんに吹っ飛んだんじゃないかなあ」同じようにドイツ留学の経験を持つ夫が、確信をもって断言する。
 激しい第二次大戦の銃や砲弾の痕が無数に残る街中に、教会の鐘が平和になったよとあちこちから鳴り響く。わたしたちはブレスラウからベルリンまで祖父と同じ列車の旅をしてみようと決めた。ポーランドの友人が「列車は時間がかかるよ、息子が車でベルリンまで送ると言っているのに」と言うのを辞退する。
 2000年が明けたばかりの当時、駅舎はまだ旧態然とした佇まいで、プラットホームでは、新鮮な芳香を放つマッシュルームを駅のゴミ箱より大きな籠一杯に入れた農家の人、アタッシュケースを提げたビジネスマンなど様々な人々が静かに列車を待つ。座席まで2個の大きなスーツケースを運んでくれ見送る友人が「本当に大丈夫? 車だと1時間半でアチラに着けるよ。列車では4時間もかかる。君たち遠慮しているでしょう」とフッとため息をつく。
 軋みを上げて列車が走り出した。幾つかの中小の街を過ぎ、草原や林を抜け、小さな村を通り越す。祖父はどんな気持ちで車窓を眺めたのだろう。切符には「特急」と記載があるが一旦停車すると列車は腰を据えたまま動かない。セッカチな江戸っ子の夫は「なにやってんだ、ぐずぐずしてんなア」とデッキまでたびたび覗きにいった。日本の几帳面な列車のタイムテーブルとは大違いで、この調子では到着は明日になるかもと不安がよぎる。やがて諦めた夫は居眠りを始めた。
 のんびり列車が大きな駅に停車した。車内アナウンスが、突然ポーランド語からドイツ語になり、どうやら列車は終着のベルリン駅ではなく迂回して郊外の駅に着くと言っているのが解った。焦りまくるわたしは夫を揺り起こして、駅頭に出迎えに来ているドイツの親友にどう連絡しようかと訴える。これを見た同席の紳士が、微笑みながら英語で話しかけてきた。「この次の駅でベルリン駅直行便に乗換えられます。私もそうするから一緒に行きましょう」と案内を買って出てくれる。祖父も同じようにいろんな人の助けを借りて、目的地までたどり着いたのだろうか。
 ドイツは春になったばかりで、車窓の外には所々に桜やリンゴの花がやっとほころびかけている。今回わたしたちは、祖父の恩師の墓参りもできた数日間の滞在だったが「外科の大先輩は苦労をしながら4年も留学したんだね。そのルートを辿れて、僕的にはよかったよ」と、夫が微笑んで、総括してくれた。
 (令和6年3月18日) TOPへ

第5回 留学昔ばなし② 父たちの時代


 祖父の留学から四半世紀を経て、父の博もドイツへ留学をした。行き先は北のキールという軍港のあった街の大学である。自分の養子にならないかとまで、祖父を愛した恩師ミクリッチの高弟アンシュツに外科を学ぶのがよいと、祖父の意見に従った。
 欧州まで50日あまりの船旅は博にとっても不安だが、幸いベルリン大学に留学する同級生が同行するとのことで心強い。先に乗船した博は、少し遅れてきた友人の荷物の多さに「何じゃ、それ!」と驚いた。元・黒田藩家老の由緒正しい家柄の友人に、お母上が特大トランクを差し出しながら「武士たる者、自ら下帯を洗うなど許されぬ。留学中の下帯はすべてここに収めた」という。トランクにはぎっしり越中ふんどし2年分が詰まっていた。

 船が出てインド洋に差しかかった時、早くもホームシック気味の二人は夕陽を見ようとデッキに並んでぼんやり海を眺める。ふと船腹をのぞくと、白い布切れがぴたっと船腹に張り付き波にそよいでいる。「アレ、俺のフンドシ。毎日使い捨てにしていたら、船に張り付いてしもうて」。恥ずかしげに彼が弁明する。ちょうど偏西風が吹くこの海域では、海に投げ捨てた丁字体の毎日の分が張り付き、何日も船腹から離れず付いてくる。船がスエズ運河に舵を切ると風向きが変わり、ようやく遺失物も海中に消え去って二人はほっとした。

 船はフランスのマルセーユ港に入り、そこから列車に乗り換えて、二人はやっと医学のメッカと言われたベルリンに到着した。特大のトランクも二人で協力して運び、彼の下宿に無事に収めると、昼間二人は北里柴三郎や当時の日本の医学先達者たちが学んだベルリン大学の構内を、口を半開きにして見物して歩いた。何日かの後、心細がる友人一人を残して、博はさらに北の街キールへ向かう列車に乗り込む。目的の駅に降り立つと、大学病院に行く前に、この街に慣れておこうと考えて、港のそばであまりいい環境とは言えない駅前旅館に宿をとった。食事に行ったらレストランのメニューはチンプンカンプンで、仕方なく指さした料理は、固そうな肉の固まりとジャガイモがごろりと皿に転がっており、やたらに料金が高いうえ、給仕のオバサンは不愛想でコワい。
 次の日は、外に出てカモメを追いかけるように歩いて行くと、岸壁近くの港湾労働者たちの利用する屋台が、旨そうな臭いをあたりに振りまいている。北ドイツ独特のがっしりとした体格のオッサンたちが、アツアツの太いソーセージと丸いパンを食べ、ビールをグイっと飲んでいた。「たいへん恐れいりますが、私にもそちらの紳士方が召し上がっているものと同じメニューを頂けますか?」博の文法通りの正しいドイツ語に、オッサンたちは危うくビールを吹き出しそうになり、ソーセージが喉に詰まりそうになる。おそらく彼らから見ると、眼鏡をかけた行儀の良い東洋人のガキと思ったらしく、注文の仕方を教えてくれた。「熱々ソーセージイッチョウ辛子載せ、それと丸パン一個にビール!」。
 ドイツに来て以来、こんなうまいものは食ったことがないと博は感動し、その夜から毎晩ここでディナーをすることにした。オッサンたちから「そんな丁寧な言葉で話さなくていい、俺とオマエは友達だから。ビールはナ、まだ子供なんだから止めとけ」と言う。まさか背広にネクタイの眼鏡の小男が、妻子を持つドクターとは知るよしもない。

 ようやく一週間ほど滞在した駅前旅館を後にして、留学先の大学外科教室に入る。石造りの建物の中はひんやり冷たく、周りの壁に架かった沢山の額ぶちの中から、医学のレジェントたちが立派なヒゲも厳めしく見下ろす視線に背中が氷つく。ベンチにうつむいて座る博をチラ見しながら通る白衣の人々は皆、背が高く脚が長い。突然、目の前のドアが開き名を呼ばれた。ひときわ立派な体格の女性に導かれ入った部屋は教授秘書室で、さらに奥のもっと立派なドアを女性がハンマーで叩くようにノックする。
 扉の中に押し込まれて入った直立不動の博を、大きな机から立派な人が突然立ち上がり、子供のように抱き上げながら大声をあげた。
 「オー、よく来たなあ、オヤジさんそっくりだ。父上はお元気か?」ハグされながら、繰り返し練習してきた挨拶の言葉や父からの伝言「アンシュツ教授閣下、昔ご一緒に恩師の下で研究した日々が忘れられません」等という長ったらしい言葉がすっ飛ぶ。同時に船から降りて以来の不安も心細さも飛んでいき、目から熱いものが溢れた。教授はテキパキと秘書に、これから2年間を過ごす研究室の上司と同僚たちへの紹介と下宿の手配まで、指示を出して万全を期してくれる。
 少しずつ研究室に慣れてくると、看護師や研究助手の女性たちが「ドクトルヘン(ドクターちゃん)」とニックネームをつけ、まるでペットのように面倒をみてくれるようになった。歓迎パーティーをすると言われ、行ってみるとアルコール度の高い地ビールや地方名産のジャガイモ焼酎シュナップス、そしてダンスが待っていて、いずれも博の苦手なものだ。手を引っ張られ女性と組むと、博の頭は彼女らの巨大なバストの下にあり、ポルカにのって引っ張りまわされ窒息しそうだ。以降ダンスと聞くと机の下や書庫の陰に隠れ、逃げ回った。

 「やっと下宿に落ち着いた」と、ベルリンの友人に手紙を書くと、待っていたかのように返事がきた。
 「あの後、オレも無事に過ごしている。ひとつ教えてくれたまえ。実は先日、下宿で夕食を取ったら、レストランのように皿の上に真っ白いナプキンがきちんと畳んで載っている。広げるとヒモまでついていて絶句した。それはまさに昨夜取り換えて、ゴミ箱に捨てたオレの越中フンドシではないか。下宿のオバサンはそれを拾いあげ、洗濯して、ぴんぴんに糊付けし、アイロンまでかけてくれたのだ。オレはオバサンに言うべきか、今後どうすればよいか、君ならきっと教えてくれるだろうな」
 ドイツへ来て以来、はじめて腹を抱えて声を出して笑った博が、どう返事をしたか聞きそびれた。
 (令和6年3月29日) TOPへ

第6回 わたしと食


 テレビは食の話ばかり、「人はパンのみにて生きるにあらず」など、どこ吹く風で、もしかして味オンチかも知れないユーメー人が口に入れた途端に発する食レポは信じ難い。半世紀前に遡ると、食を含めた人間の本能を人前にさらすことは恥とされていた。今日では全てオープンになりつつあるのを悪い傾向とは思わない。ただ災害地の避難所でレトルトパックを押し頂く高齢者や、遠いガザで大きな濡れた瞳に思いを込めて枯れ木のような手で鍋やボウルを差し出す沢山の子供たちの映像をみるのは、食物が溢れるわれわれには落差が大き過ぎ、とても辛い。平和な日本ゲンジンは「腹減った」という感覚はあっても「ひもじい」という切実さを持ち合わせていまい。半世紀以上前の戦争で日本中がグシャグシャになった時、一部の特権階級は例外で、全員がひもじく飢餓の状態にあった。戦後になると、昨日まで敵のアメリカ兵に、ガザの子供と同じ目をして手を突き出し「ギブミーチョコ」とねだったことも忘れている。
 空襲で家も家族も失ったわが家は、地方の造り酒屋さんの離れを借り終戦を迎えた。耕す田を持たない町場の人間は、わずかに手元に残ったものを物々交換して日々の食物を手に入れたが、日本中の大人も子供も腹っぺらしであった。ある日わたしはひとりで酒屋の広大な屋敷を冒険していると、酒蔵の裏にゴミの混じった酒粕の山に行き当り、そこから漂う甘い匂いが腹ペコに沁みいった。指先を突っ込んで舐めるとほんのり甘くなかなかイケそうで後を引く。たちまち体中は火事が起こったようで、流石にヤバいと思って家に戻り、茹でたトマト状態のまま、団扇を手に「アッチイ、アッチイ」と、廊下で伸びた。心配そうにのぞき込む母に「お山のように積んであったの。オイシかったけど食べたのは本当にちょっとだけだからネ」と告白する小さなヨッパライに、母は恐い顔で「拾い食いはダメと言ったでしょ。あ~情けない」と泣いた。
 隣の農家のオバチャンが、内職で藁草履や真綿で編んだチョッキを作り近隣を売って周っていた。が、ふと閃いて、可哀想な疎開っ子をセールスに連れて歩くと売り上げが伸びると思いつき、就学前のヒマしてるわたしを借り出して行商に連れ出した。「アンタ何も話さんでいいからね」と念を押して、大きな農家の門をくぐる。縁側でセールスするかたわら、空襲で祖父母が焼け死に全てを失った一家の面倒をみていると物語るが、一軒訪ねるたびに「ウソ! そんな事なかったよ」と、当のわたしが驚くほど、お涙頂戴の作り話が加わる。どこの家でも売り上げが伸び、口演料として時分時には食事を、そのうえ当時貴重品の甘い物まで持たせてくれたものの、大きな葉っぱに載ったドングリ団子は甘くなくジャリジャリして不味かった。でも、ギュッと握って手形が付いたスイトンはコシが強くて美味しかった。帰宅後、分け前を差し出しながらオバチャンの話をレポートすると、母は「あ~情けない」と、またまた泣く。
 終戦の前年に重症の腎盂腎炎になって以来、母はすっかり体が弱くなり疎開先での農作業の手伝いも、ドラム缶の風呂を沸かす焚き付けを採りに行くにも、物々交換で買い出しに行くことも出来ないと、弱い自分をメソメソと責め続ける。そもそもは隣組から行かされた田植えで、生まれて初めて田んぼに素足を長時間入れると冷えきってしまい、トイレに行きたくても皆がするように畔の隅でモンペを下ろしお尻を突き出して用を足す勇気が出ず、我慢し続けたのが病因といわれた。疎開してから出来ることは家族の食事作りだけと、懸命に、分けてもらった芋蔓や野草の雑炊、太陽熱で発酵させて焼く酒粕パン、大家さんが獲ってきてくれたタヌキの、強烈な臭いも我慢して狸汁を作ったが、わたし的には一見高級割烹感覚で綺麗に丸めた柔らかなスイトンより、行商先で食べた手形付きのスイトンが、数段美味しいかった。
 疎開生活を切り上げ街に戻ったのは小学2年生で、学校給食が始まった。戦勝国アメリカから哀れな敗戦国の児童に救済のララ物資として贈られた脱脂粉乳も、蛋白源のクジラやトドの肉もタヌキと同じ臭いで、苦手だった。給食で美味しいと思ったことがなく、給食のない日に自宅から持って行くわたしの弁当箱はアルミニュウムの両側にパチンと留め金の付いたおかず入れ一個で足り、要するに食が極端に細い。その訳は既に発症していたらしい肺結核のせいで、中学入学と同時に発見され即一年間の療養を申しつけられた。当時の一般的な病院食は、そこに勤務する父が憂うるほど栄養価に欠け、あばら骨丸見えのギスギスに痩せた栄養失調児の娘を入院加療させるより、自宅で母の手料理で治そうと、父母は決意する。二人の脳裏には、わずか17歳で亡くなった、同じ病気のたった一人の弟の顔が浮かんでは消えた。
 駅頭でオジサンが瓶の牛乳を飲む姿さながら、母は毎食ガス台の前で、肘を張って片手を腰におき長い菜箸を操って、栄養価の高い物を腕によりをかけて造り、わたしが食べないと目を三角にした。そもそも母は、美食家と言われた祖父から受け継がれた舌と、嫁して姑から教えられた料理の腕で、食材を厳選し魚は活きているもの、肉は最上の物を求めたのでわが家のエンゲル指数は異常に高かった。後年、江の島水族館での母は「あら、この魚、大きさも色も美味しそう」という視点で鑑賞したが、牧場では「あら、美味しそうな牛」とは流石に言わなかった。
 父は実家で長男として超スパルタ教育を施され、弁当のおかずはきんぴらごぼうだけで育ち「結婚するまでロクな物食べてなかった」が、母と一緒になるとあっという間に「美味い、不味い」が分かるようになったそうだ。ただ父の実家の晴れの日はいつも祖母のコース料理で、代々受け継がれている。前菜に鶏のレバーと卵のカナッペ、メインに鶏や七面鳥の詰め物をした丸焼き、圧巻はアイスクリームのデザートで、母が料理中、兄とわたしが懸命に塩と氷の入ったボウルの中の卵や生クリームを入れた海苔の缶をグルグル回して固まるのを楽しんだ。
 アレルギーのあるわたしに、タンパク質を摂らせようと母はがんばる。青背のサバやアジは鬼門で、たちまち背中や足が蕁麻疹でプクプクに腫れ、かゆみ止めの薬剤が発展の時代、母はミントの結晶をアルコールの沁みた脱脂綿に付け、痒い所に塗って痒みを止めてくれた。
 母が73歳の秋、日本列島に大型台風の接近をテレビが伝えていた。前日、O型の血液型占いそのままの父は「大丈夫だよ。ジェット機は風がないと飛ばない」と言いながら同窓会出席のためルンルンで九州に出発する。西宮の留守宅で母は、大好きなキンモクセイの花が揺れる中、独り、彼岸へ向かって旅立った。
 九州からの便は飛行機も列車もストップし博多に足止めされた父は、翌日に鈍行でようやく母の許に戻って、東京からわたし達一家も駆け付けた。棺に収まった母を囲んで、家族は初めて空腹に気がつく。冷蔵庫を開けると、みんなが大好きな母オリジナルの俵型コロッケが整然と20個が作ってあり、揚げられるのを待っていた。母の好きな酒の燗をしながら兄がつぶやく。「通夜のご飯、用意して死んじゃう人も珍しいね」。
 今年も、もうすぐ母の日がくる。
 (令和6年4月16日) TOPへ

第7回