「オーマの宝石箱」  比企寿美子 Sumiko Hiki


 筆やペンを構えて本を作るという時代が消えつつあり、読み手が激減したいま、キラキラしない地味な本作りはもっと難しいと言われる。
 これでは年々ボケていくと出窓社の某氏にグチったら「じゃあ、ブログをお書きになりませんか」と場所を開いてくださった。
 成人した孫たちの祖母「オーマ(独語)」のわたしは、終活の一歩として古びた宝石箱の蓋を開いたら、値打ちのないガラクタだけでなく、無形の思い出という宝がポロポロとあふれ出てきた。いま、それらの記憶を繰りよせる。




CONTENTS

第1回 わたしの宝石箱
第2回 プラトニックラブは永遠に
第3回 むかしの色は恋模様  NEW !

第1回 わたしの宝石箱


 マンションの4階から窓のカーテンを閉めようと、夕暮れの風景に目をやる。凸、凹と続く雑多なビルに電気が灯り始めた。一番奥にそびえるキュービックな超高層ビルは、外壁全体が窓ガラスでデザインされていて、遥かに見ると一面に透明な色ガラスのタイルを張り付けたようだ。どこか外国の王家の宝物館で観た大きな宝石箱に似ている。

 第二次大戦後、進駐軍のキャンプへ父が往診を頼まれて行った時、御礼にと箱入りのチョコレートを頂いて帰宅した。A4の紙を二つ折りにしたくらいの大きさの箱は、淡い黄色で、オシャレな花の刺繍模様が一面を飾る。蓋を開けるとナッツやマシュマロ、ドライフルーツが可愛く入ったチョコレートが、フリルの付いた茶色い敷紙に一個ずつ、宝石のように載っていた。両親が「さ、お上がり」と勧めてくれたが、口に入れるのがもったいなくて、中身がなくなるのにしばらくの時を経た。
 実は中味のなくなったこの箱こそ、わたしには大切で、蓋を開けるとたちまちチョコレートの甘い香りが飛び出してきた。
 幼い小学生のわたしはその中に何を入れていただろう。いつか行った川岸や浜辺で拾った、桜貝やたぶんラムネの瓶が欠けて小さく丸くなった緑色のガラス片、使いこんでこれ以上削れないほど短くなったピンク色の鉛筆、スイス人の伯母から従姉のお下がりでもらったジャケットの金属ボタン、ていねいに畳んだアメリカのチューインガムの包み紙など、お宝を思い出す。何枚かの犬の鑑札はそれぞれのワンコの思い出と共に収まっている。
 戦後はじめて仕事で米国旅行をした父は、1ドル=360円であった時代で高いものは買えなかったと言い訳しながら、西部劇映画にハマっていたわたしに、先住民の手作りの7センチほどの木っ端の頭の天辺にショボショボとした動物の毛を貼り付けビーズの目玉が付いている人形を渡しながら、これは幸運を呼ぶお守りだと言った。そう言われると確かに霊験あらたかで、学校の入試もお見合いも、お陰をこおむり、長じても大切な機会にバッグに忍ばせた。
 二十歳を迎えた時、両親からルビーの小さな指輪をもらい、チョコレートの空箱を卒業してこれを納めるに相応しい皮張りの宝石箱もゲットした。嫁入り前にチェックすると相変わらず宝石箱は閑散としていたが、一番下に敷いてある紙切れは、生まれて初めて観た大相撲桝席の券だ。
 最近、終活で身辺整理をしなければと思いながら、古めいて剥げかけた宝石箱を開けたものの、形見として子孫に残すような有形物はない。だが、生涯で起こった出来事と思い出の欠片は、無形ではあるが数々と残っている。それがわたしの宝石だ。
 (令和6年2月3日) TOPへ

第2回 プラトニックラブは永遠に


 毎年、定位置に掛けるワンワン写真集のカレンダーが、今年はない。この送り主をはじめ次々とくる親しい友人たちの訃報は、元日早々の能登半島地震や航空機事故で縮んだ心を、更にむち打つ。

 クリスマスには、家族ぐるみで親しい海外の友人たちに電話で生存確認をし合うのが恒例であった。生前に夫が学術交流で尽くしたドイツ外科学会の機関誌に書いてくれた追悼文の礼を言わなければと思いつつ、ミュンヘンのエルの電話番号をプッシュした。いきなり電話口に出たジィ夫人が「彼が、もうダメなの。肺の病気で大変なの。これから病院に行くから、あなたの電話のこと、伝えるね。年が明けて、退院できたら必ず一緒に電話を返すから、祈って待っててね」。いつものおっとりした艶っぽい声が、涙でとぎれ慌ただしい。
 そして年明け早々、エルが病院の一室でジィに見送られ召天したとの知らせが届いた。
 エルは渋い知的イケメンで、連れ添うジィは輝く金髪としなやかなボディの美人さんだ。エルは前妻と別れた後にジィと出遭い、チャーミングな目元に浮かぶ甘ったるい微笑みに陥落した。見た目の華やかさだけでなく、障害を持つ先妻との子供たちの世話を心をこめてするし、エルの仕事先の人たちの評判も悪くない。間もなく二人は正式に再婚した。
 欧米社会の集会には、誰かを伴って出席するのが一般的で、医学会では会員と同じく同伴者たちも専門職を持つ大学卒のインテリが多い。学校を出ると直ぐファッション関係の仕事に就いたジィが、その輪の中で孤立している様子が、同席している無職でただの主婦のわたしには、痛いほど分かった。
 わたしには祖父の代から家族ぐるみで仲良しのドイツ人外科医夫妻がいて、彼らは4人の娘を育てながら医療に携わっている。多忙な中でも夫妻は様々な文化人を家庭に招き、大きな社交の輪を作っていた。そしてわたしたちがベルリンを訪問すると必ずその輪の中に招き入れ、様々なドイツ知識人の話を直で聴き文化を学ぶ機会を用意してくれる。異文化の中でポツンと孤立する人間を放っておけない夫妻なのだ。
 日本で開かれたある国際会議の女子会で、その外科医夫人の隣に、わたしはジィの手を引っ張って座らせた。好奇心の固まりともいえる夫人は、以前わたしにもしたように、微笑みながらも遠慮なくジィに次々と質問を投げかける。ジィはゆったりとしたオーストリア訛りでひとつひとつ誠実に答え、自分の育った環境と現在の状況差をありのまま物語った。以来、夫人は愛らしいジィをそっくりそのまま受け入れ、自分たちの娘のように包み込み、味方となった。

 「新進外科医エルの業績に日本で最初に目を付けたのは僕だ」とご自慢の、日本外科のレジェント先生にもエルの訃報を伝えた。90歳半ばの先生は「エルはまだ84歳だったのか、若死にだな。ジィは可哀そうに」
 先生は半世紀前に愛妻に先立たれて以来の独身で、学生時代にボート漕手だった容姿と学者としてのキャリアが紡ぐ知的雰囲気に、幾つかの再婚話が噂になっては消えた。
 ジィがエルと結婚して間もなく、二人は日本である招宴に出席した。ジィは若い頃のモデル時代のことを、まだ知り合って間もなかったわたしに写真を見せながら物語る。向かいに座る例の先生の視線が妖精の魅力から離れないので、数枚の写真を渡してあげた。中に一枚ビキニ姿で浜辺に微笑むショットが、先生の手許に渡ったとたん、持っていたワイングラスを取り落とし、真っ白な食卓に赤い波が押し寄せた。
 エルが会長を務めた国際会議のもてなしは、ドイツアルプスの山小屋風ホテルでの会食だった。そこへ向かうため山麓の湖に沿って登るバスの窓から厳しい冷風が吹き込む。中ほどに座るあの日本代表の先生は、自分のコートを脱ぎ前列のジィの肩に着せ掛けながら、わたしを振向いて囁く。「ジィは嬉しそうに笑っているから、僕のことキライではないよね」と確かめた。続けて「君ね、あのコートはね、味噌煮というのではないんだ。イタリア製のミッソーニという、とても高価なものだよ」
 エルが亡くなったと知った先生は「ジィも独りぼっちか。会いたいな。でも僕は目が悪くて、今どこにも行けない。たとえ誰かにドイツへ連れて行ってもらったとしても、ジィのこと、見えないんだよな」
 昭和生まれの少年は、プラトニックラブを貫く。
 (令和6年2月16日) TOPへ

第3回 むかしの色は恋模様


 「春はあけぼの」。いにしえのさきがけエッセイストは、どんな色を想い浮かべてこの名文を書き始めたのだろう。千年あまりを経てケシ粒のような物書きの頭には、一面ソメイヨシノの桜色が広がる。
 第二次世界大戦をまたいで幼少期を過ごしたわたしの周りは、今テレビ画面に広がるウクライナやガザの戦場と同じく、どんよりと灰色が立ち込めるモノクロームの世界であった。
 終戦翌年に疎開先で小学校に入学し、その後、祖父の家の伯父一家が住む洋館の隣に住み、一学年上の従兄と同じ小学校に通うことになった。蒼い目を持ち栗色のしなやかな髪の彼は、スイス人の母親そっくりだ。伯父は工学を学びにドイツへ留学した時、休暇に訪れたスイスのスキー場で伯母と出会って恋に落ち結ばれた。日本に戻ると子供にも恵まれ、国際結婚ゆえに苦労があった戦争を乗り越えたが、混血児の従兄は、学校で、敵であった英米と中立国スイスとの区別ができない学友たちの冷たい目にさらされ、「あいの子」とささやく声で差別を受けた。転校して直ぐ気がついたわたしは、背を丸めるように歩く一つ年長の彼の、SPになったつもりで、あたりをイタチの目でにらみながらついて歩く。
 友達と遊べない時間をピアノの練習に替えた彼は、ついに新聞社主催の音楽コンクールで輝く優勝を勝ちとり一躍学校のスターとなった。わたしの暗闇にも初めてぽっと明かりが灯り、SPの任務も終了した。

 時は今から一世紀半もさかのぼる。日本の文化は鎖国の長い眠りから目覚めたが、一般人は西欧に接する機会がなく違和感を覚えていた時代だ。
 徳川末期にオランダ人医師としてシーボルトは、長崎の出島でお滝を見染め、やがて幕府に許され医療と医学教育の施設を鳴滝村に作り、二人は一緒に暮らした。お滝の美しさを日本アジサイに見たシーボルトは、紫陽花の学名を「ハイドランゲア・オタクサ」とし学会に届けている。国外追放で日本を去ったシーボルトの一人娘は、楠本イネと母方の姓を名乗り父親の門下生から医学を学んで、日本の女性医師第1号として活躍した。ほかにも出島に勤務したオランダ人たちと日本女性の間にも、幾つかの恋が生まれ、子供も産まれたと聞く。
 明治時代が明け外交が復活し、ハンガリー・オーストリアのクーデンホーフ伯爵は公務で来日して、頭脳明晰で優しい光子に出遭う。やがて日本の国際結婚第1号の正式な妻として、ヨーロッパに連れ帰った。社交界での彼女は、東洋について知識のない西欧の人々にとって、エキゾティックな美が注目の的になる。市井の娘で特別な学歴もない一女性が、完璧なドイツ語を操り、美しい文を書いた。羽ペンで書かれた流麗な筆跡が残るが、ここまでの努力は並大抵ではなく、ひたすらに夫に対する愛でしかなかった。西欧の社交界でも立派なレディとして名高く、フランスの香水メーカーのギャランは、彼女のイメージから “ミツコ”と言う名の香水を売り出した。その甘く神秘的な香りは未だ愛好家が多い。

 明治の西欧文化が花開くと、様々な分野の若い科学者たちが本場の学問を目指しヨーロッパに留学した。彼ら若者は異国の女性と付き合ったものの、結婚にまで至ったのは数少ない。その数少ない国際結婚のカップルは、花嫁を伴って帰国したが、日本の実家では事の成り行きにさぞ驚いたにちがいない。だが西欧で最先端の学問を学び、多くは大学に就職する息子たちを誇りに思う家族は、新しい文化もまるごと理解することができる、いわゆるインテリで、二人の住む家具調度を西欧様式で用意して、新婚夫婦を受け入れた家が多い。
 わたしの遠縁のひとりが、ヨーロッパ留学から帰国した直後に、碧眼金髪の女性が彼を追い、五十日以上かかる船旅でやってきた。留学前すでに結婚して子供もいた彼は、あちらでの恋の結末に焦りまくり、彼女と再会しないまま、ゴッドマザーの母親に泣きついた。瞬く間に現状を理解した母親は、彼女を家に迎え冷静に応対する。日本語しかできないものの、手を駆使してお腹が膨むジェスチュアをまじえ「ムスコは、子ある。アナタ、子ない」と表現した。そして涙の止まらない彼女の肩をさすりながらヨーロッパ往復の船賃を包んで彼女の手に渡し、無事に母国に引き取ってもらったという逸話が残っている。
 わたしの父方、母方の祖父たちも同じ時期にベルリン留学組であった。二人は共に150センチほどの身長でバエもせず、蒼い目の美人さんに追われたという甘辛い話は、残っていない。  (令和6年2月29日) TOPへ

第4回