「オーマの宝石箱」  比企寿美子 Sumiko Hiki


 筆やペンを構えて本を作るという時代が消えつつあり、読み手が激減したいま、キラキラしない地味な本作りはもっと難しいと言われる。
 これでは年々ボケていくと出窓社の某氏にグチったら「じゃあ、ブログをお書きになりませんか」と場所を開いてくださった。
 成人した孫たちの祖母「オーマ(独語)」のわたしは、終活の一歩として古びた宝石箱の蓋を開いたら、値打ちのないガラクタだけでなく、無形の思い出という宝がポロポロとあふれ出てきた。いま、それらの記憶を繰りよせる。




CONTENTS

第1回 わたしの宝石箱
第2回 プラトニックラブは永遠に
第3回 むかしの色は恋模様
第4回 留学昔ばなし① 祖父たちの時代
第5回 留学昔ばなし② 父たちの時代
第6回 わたしと食
第7回 わたしと相撲
第8回 母さん父さん
第9回 紫陽花の咲くころ  NEW !

第1回 わたしの宝石箱


 マンションの4階から窓のカーテンを閉めようと、夕暮れの風景に目をやる。凸、凹と続く雑多なビルに電気が灯り始めた。一番奥にそびえるキュービックな超高層ビルは、外壁全体が窓ガラスでデザインされていて、遥かに見ると一面に透明な色ガラスのタイルを張り付けたようだ。どこか外国の王家の宝物館で観た大きな宝石箱に似ている。

 第二次大戦後、進駐軍のキャンプへ父が往診を頼まれて行った時、御礼にと箱入りのチョコレートを頂いて帰宅した。A4の紙を二つ折りにしたくらいの大きさの箱は、淡い黄色で、オシャレな花の刺繍模様が一面を飾る。蓋を開けるとナッツやマシュマロ、ドライフルーツが可愛く入ったチョコレートが、フリルの付いた茶色い敷紙に一個ずつ、宝石のように載っていた。両親が「さ、お上がり」と勧めてくれたが、口に入れるのがもったいなくて、中身がなくなるのにしばらくの時を経た。
 実は中味のなくなったこの箱こそ、わたしには大切で、蓋を開けるとたちまちチョコレートの甘い香りが飛び出してきた。
 幼い小学生のわたしはその中に何を入れていただろう。いつか行った川岸や浜辺で拾った、桜貝やたぶんラムネの瓶が欠けて小さく丸くなった緑色のガラス片、使いこんでこれ以上削れないほど短くなったピンク色の鉛筆、スイス人の伯母から従姉のお下がりでもらったジャケットの金属ボタン、ていねいに畳んだアメリカのチューインガムの包み紙など、お宝を思い出す。何枚かの犬の鑑札はそれぞれのワンコの思い出と共に収まっている。
 戦後はじめて仕事で米国旅行をした父は、1ドル=360円であった時代で高いものは買えなかったと言い訳しながら、西部劇映画にハマっていたわたしに、先住民の手作りの7センチほどの木っ端の頭の天辺にショボショボとした動物の毛を貼り付けビーズの目玉が付いている人形を渡しながら、これは幸運を呼ぶお守りだと言った。そう言われると確かに霊験あらたかで、学校の入試もお見合いも、お陰をこおむり、長じても大切な機会にバッグに忍ばせた。
 20歳を迎えた時、両親からルビーの小さな指輪をもらい、チョコレートの空箱を卒業してこれを納めるに相応しい皮張りの宝石箱もゲットした。嫁入り前にチェックすると相変わらず宝石箱は閑散としていたが、一番下に敷いてある紙切れは、生まれて初めて観た大相撲桝席の券だ。
 最近、終活で身辺整理をしなければと思いながら、古めいて剥げかけた宝石箱を開けたものの、形見として子孫に残すような有形物はない。だが、生涯で起こった出来事と思い出の欠片は、無形ではあるが数々と残っている。それがわたしの宝石だ。
 (令和6年2月3日) TOPへ

第2回 プラトニックラブは永遠に


 毎年、定位置に掛けるワンワン写真集のカレンダーが、今年はない。この送り主をはじめ次々とくる親しい友人たちの訃報は、元日早々の能登半島地震や航空機事故で縮んだ心を、更にむち打つ。

 クリスマスには、家族ぐるみで親しい海外の友人たちに電話で生存確認をし合うのが恒例であった。生前に夫が学術交流で尽くしたドイツ外科学会の機関誌に書いてくれた追悼文の礼を言わなければと思いつつ、ミュンヘンのエルの電話番号をプッシュした。いきなり電話口に出たジィ夫人が「彼が、もうダメなの。肺の病気で大変なの。これから病院に行くから、あなたの電話のこと、伝えるね。年が明けて、退院できたら必ず一緒に電話を返すから、祈って待っててね」。いつものおっとりした艶っぽい声が、涙でとぎれ慌ただしい。
 そして年明け早々、エルが病院の一室でジィに見送られ召天したとの知らせが届いた。
 エルは渋い知的イケメンで、連れ添うジィは輝く金髪としなやかなボディの美人さんだ。エルは前妻と別れた後にジィと出遭い、チャーミングな目元に浮かぶ甘ったるい微笑みに陥落した。見た目の華やかさだけでなく、障害を持つ先妻との子供たちの世話を心をこめてするし、エルの仕事先の人たちの評判も悪くない。間もなく二人は正式に再婚した。
 欧米社会の集会には、誰かを伴って出席するのが一般的で、医学会では会員と同じく同伴者たちも専門職を持つ大学卒のインテリが多い。学校を出ると直ぐファッション関係の仕事に就いたジィが、その輪の中で孤立している様子が、同席している無職でただの主婦のわたしには、痛いほど分かった。
 わたしには祖父の代から家族ぐるみで仲良しのドイツ人外科医夫妻がいて、彼らは4人の娘を育てながら医療に携わっている。多忙な中でも夫妻は様々な文化人を家庭に招き、大きな社交の輪を作っていた。そしてわたしたちがベルリンを訪問すると必ずその輪の中に招き入れ、様々なドイツ知識人の話を直で聴き文化を学ぶ機会を用意してくれる。異文化の中でポツンと孤立する人間を放っておけない夫妻なのだ。
 日本で開かれたある国際会議の女子会で、その外科医夫人の隣に、わたしはジィの手を引っ張って座らせた。好奇心の固まりともいえる夫人は、以前わたしにもしたように、微笑みながらも遠慮なくジィに次々と質問を投げかける。ジィはゆったりとしたオーストリア訛りでひとつひとつ誠実に答え、自分の育った環境と現在の状況差をありのまま物語った。以来、夫人は愛らしいジィをそっくりそのまま受け入れ、自分たちの娘のように包み込み、味方となった。

 「新進外科医エルの業績に日本で最初に目を付けたのは僕だ」とご自慢の、日本外科のレジェント先生にもエルの訃報を伝えた。90歳半ばの先生は「エルはまだ84歳だったのか、若死にだな。ジィは可哀そうに」
 先生は半世紀前に愛妻に先立たれて以来の独身で、学生時代にボート漕手だった容姿と学者としてのキャリアが紡ぐ知的雰囲気に、幾つかの再婚話が噂になっては消えた。
 ジィがエルと結婚して間もなく、二人は日本である招宴に出席した。ジィは若い頃のモデル時代のことを、まだ知り合って間もなかったわたしに写真を見せながら物語る。向かいに座る例の先生の視線が妖精の魅力から離れないので、数枚の写真を渡してあげた。中に一枚ビキニ姿で浜辺に微笑むショットが、先生の手許に渡ったとたん、持っていたワイングラスを取り落とし、真っ白な食卓に赤い波が押し寄せた。
 エルが会長を務めた国際会議のもてなしは、ドイツアルプスの山小屋風ホテルでの会食だった。そこへ向かうため山麓の湖に沿って登るバスの窓から厳しい冷風が吹き込む。中ほどに座るあの日本代表の先生は、自分のコートを脱ぎ前列のジィの肩に着せ掛けながら、わたしを振向いて囁く。「ジィは嬉しそうに笑っているから、僕のことキライではないよね」と確かめた。続けて「君ね、あのコートはね、味噌煮というのではないんだ。イタリア製のミッソーニという、とても高価なものだよ」
 エルが亡くなったと知った先生は「ジィも独りぼっちか。会いたいな。でも僕は目が悪くて、今どこにも行けない。たとえ誰かにドイツへ連れて行ってもらったとしても、ジィのこと、見えないんだよな」
 昭和生まれの少年は、プラトニックラブを貫く。
 (令和6年2月16日) TOPへ

第3回 むかしの色は恋模様


 「春はあけぼの」。いにしえのさきがけエッセイストは、どんな色を想い浮かべてこの名文を書き始めたのだろう。千年あまりを経てケシ粒のような物書きの頭には、一面ソメイヨシノの桜色が広がる。
 第二次世界大戦をまたいで幼少期を過ごしたわたしの周りは、今テレビ画面に広がるウクライナやガザの戦場と同じく、どんよりと灰色が立ち込めるモノクロームの世界であった。
 終戦翌年に疎開先で小学校に入学し、その後、祖父の家の伯父一家が住む洋館の隣に住み、一学年上の従兄と同じ小学校に通うことになった。蒼い目を持ち栗色のしなやかな髪の彼は、スイス人の母親そっくりだ。伯父は工学を学びにドイツへ留学した時、休暇に訪れたスイスのスキー場で伯母と出会って恋に落ち結ばれた。日本に戻ると子供にも恵まれ、国際結婚ゆえに苦労があった戦争を乗り越えたが、混血児の従兄は、学校で、敵であった英米と中立国スイスとの区別ができない学友たちの冷たい目にさらされ、「あいの子」とささやく声で差別を受けた。転校して直ぐ気がついたわたしは、背を丸めるように歩く一つ年長の彼の、SPになったつもりで、あたりをイタチの目でにらみながらついて歩く。
 友達と遊べない時間をピアノの練習に替えた彼は、ついに新聞社主催の音楽コンクールで輝く優勝を勝ちとり一躍学校のスターとなった。わたしの暗闇にも初めてぽっと明かりが灯り、SPの任務も終了した。

 時は今から一世紀半もさかのぼる。日本の文化は鎖国の長い眠りから目覚めたが、一般人は西欧に接する機会がなく違和感を覚えていた時代だ。
 徳川末期にオランダ人医師としてシーボルトは、長崎の出島でお滝を見染め、やがて幕府に許され医療と医学教育の施設を鳴滝村に作り、二人は一緒に暮らした。お滝の美しさを日本アジサイに見たシーボルトは、紫陽花の学名を「ハイドランゲア・オタクサ」とし学会に届けている。国外追放で日本を去ったシーボルトの一人娘は、楠本イネと母方の姓を名乗り父親の門下生から医学を学んで、日本の女性医師第1号として活躍した。ほかにも出島に勤務したオランダ人たちと日本女性の間にも、幾つかの恋が生まれ、子供も産まれたと聞く。
 明治時代が明け外交が復活し、ハンガリー・オーストリアのクーデンホーフ伯爵は公務で来日して、頭脳明晰で優しい光子に出遭う。やがて日本の国際結婚第1号の正式な妻として、ヨーロッパに連れ帰った。社交界での彼女は、東洋について知識のない西欧の人々にとって、エキゾティックな美が注目の的になる。市井の娘で特別な学歴もない一女性が、完璧なドイツ語を操り、美しい文を書いた。羽ペンで書かれた流麗な筆跡が残るが、ここまでの努力は並大抵ではなく、ひたすらに夫に対する愛でしかなかった。西欧の社交界でも立派なレディとして名高く、フランスの香水メーカーのギャランは、彼女のイメージから “ミツコ”と言う名の香水を売り出した。その甘く神秘的な香りは未だ愛好家が多い。

 明治の西欧文化が花開くと、様々な分野の若い科学者たちが本場の学問を目指しヨーロッパに留学した。彼ら若者は異国の女性と付き合ったものの、結婚にまで至ったのは数少ない。その数少ない国際結婚のカップルは、花嫁を伴って帰国したが、日本の実家では事の成り行きにさぞ驚いたにちがいない。だが西欧で最先端の学問を学び、多くは大学に就職する息子たちを誇りに思う家族は、新しい文化もまるごと理解することができる、いわゆるインテリで、二人の住む家具調度を西欧様式で用意して、新婚夫婦を受け入れた家が多い。
 わたしの遠縁のひとりが、ヨーロッパ留学から帰国した直後に、碧眼金髪の女性が彼を追い、50日以上かかる船旅でやってきた。留学前すでに結婚して子供もいた彼は、あちらでの恋の結末に焦りまくり、彼女と再会しないまま、ゴッドマザーの母親に泣きついた。瞬く間に現状を理解した母親は、彼女を家に迎え冷静に応対する。日本語しかできないものの、手を駆使してお腹が膨むジェスチュアをまじえ「ムスコは、子ある。アナタ、子ない」と表現した。そして涙の止まらない彼女の肩をさすりながらヨーロッパ往復の船賃を包んで彼女の手に渡し、無事に母国に引き取ってもらったという逸話が残っている。
 わたしの父方、母方の祖父たちも同じ時期にベルリン留学組であった。二人は共に150センチほどの身長でバエもせず、蒼い目の美人さんに追われたという甘辛い話は、残っていない。  (令和6年2月29日) TOPへ

第4回 留学昔ばなし① 祖父たちの時代


 鎖国の蓋がドンと開き、社会の指導的立場にある者はちょんまげを切り、頭の中身を切り替え、刀を置いて和服を洋服に着替えるなどてんやわんやの中で、明治政府は西欧から社会制度、文化・学問のシステム導入を行った。各分野の日本人指導者を教育しようと、たとえば医学部門ではドイツから教師を招聘しドイツ語で教育を行い、学生たちは大学を卒業すると競って本場ヨーロッパへと留学した。北里柴三郎、森鴎外、夏目漱石等々である。
 1800年代後半にわたしの2人の祖父も、ベルリンに留学した。既にそこには医学分野だけで40人ほどの日本人留学生たちがいて、本当に西欧医学を究めたいという確固たる目的を持つ人だけでなく、箔をつけるためか世間体のためか、とりあえず渡欧した御仁も含まれる。父方の祖父三宅はやりは外科学をもっと究めようとしたバリバリの硬派、母方の祖父の佐多愛彦はいちおう病理学研修をしたものの夢はもっと大きく、自分の在籍する大阪医学校を欧州並みの大学医学部にしたい、その実現のため優秀なスタッフを集めたいという野心満々で、ここで出会った本気で勉強する勤勉な留学生仲間にツバをつけるのに忙しい。
 たとえば、留学生たちがベルリン滞在記念に納まった集合写真の中で、佐多は学業一筋の三宅の肩に手をかけしっかりキープし、帰国後に大阪医学校にスカウトしている。この時の祖父たち二人は独身で、ずっと後にそれぞれの子供として生まれる父も母も、まだ影も形もなく、いくら先読みの上手い佐多であっても、将来二人の子供を一緒にしようなどは論外であった。
 三宅はドイツで評判の新進外科教授ミクリッチに教えを受けたいと、ひとり汽車に乗りドイツ領だったブレスラウ(現在ポーランド・ブロツワフ)へ向かう。ガイドブックも情報もない当時、ようやくたどり着いた大学の玄関は、想像以上に高く大きく、目の前を遮っているようだった。
 それから一世紀後、その同じ扉の前に、夫とわたしは立った。三宅が150センチほどの背丈をそっくり返るように伸ばして、西洋の生活になじむのはどんなにか大変だったろうと街の広い石畳の道を歩きながら、わたしは母親のように心配する。たとえば高い座面のトイレは床に足が届かず落ち着かなかったろうし、高い所にある鏡は髭そりのたびに椅子を踏み台にしたに違いない。苦手なトマト料理は食べられたかしら。祖父の日記に、「トマトウなるもの」を初めて口にしたのは大学時代で、外務省高官の息子宅で西洋料理を出されたが、初体験のトマトの青臭さに全身が震え、思わず窓に駆け寄って吐き出したという前科が正直に書き残されている。
 「大学病院で初めて外科手術を手伝ったお祖父さんに、教授が『君は左手を右手と同じように使えるね』と言われたと日記にあるじゃないか。外科医として、それって最高の誉め言葉だよ。普段の生活の苦労がいっぺんに吹っ飛んだんじゃないかなあ」同じようにドイツ留学の経験を持つ夫が、確信をもって断言する。
 激しい第二次大戦の銃や砲弾の痕が無数に残る街中に、教会の鐘が平和になったよとあちこちから鳴り響く。わたしたちはブレスラウからベルリンまで祖父と同じ列車の旅をしてみようと決めた。ポーランドの友人が「列車は時間がかかるよ、息子が車でベルリンまで送ると言っているのに」と言うのを辞退する。
 2000年が明けたばかりの当時、駅舎はまだ旧態然とした佇まいで、プラットホームでは、新鮮な芳香を放つマッシュルームを駅のゴミ箱より大きな籠一杯に入れた農家の人、アタッシュケースを提げたビジネスマンなど様々な人々が静かに列車を待つ。座席まで2個の大きなスーツケースを運んでくれ見送る友人が「本当に大丈夫? 車だと1時間半でアチラに着けるよ。列車では4時間もかかる。君たち遠慮しているでしょう」とフッとため息をつく。
 軋みを上げて列車が走り出した。幾つかの中小の街を過ぎ、草原や林を抜け、小さな村を通り越す。祖父はどんな気持ちで車窓を眺めたのだろう。切符には「特急」と記載があるが一旦停車すると列車は腰を据えたまま動かない。セッカチな江戸っ子の夫は「なにやってんだ、ぐずぐずしてんなア」とデッキまでたびたび覗きにいった。日本の几帳面な列車のタイムテーブルとは大違いで、この調子では到着は明日になるかもと不安がよぎる。やがて諦めた夫は居眠りを始めた。
 のんびり列車が大きな駅に停車した。車内アナウンスが、突然ポーランド語からドイツ語になり、どうやら列車は終着のベルリン駅ではなく迂回して郊外の駅に着くと言っているのが解った。焦りまくるわたしは夫を揺り起こして、駅頭に出迎えに来ているドイツの親友にどう連絡しようかと訴える。これを見た同席の紳士が、微笑みながら英語で話しかけてきた。「この次の駅でベルリン駅直行便に乗換えられます。私もそうするから一緒に行きましょう」と案内を買って出てくれる。祖父も同じようにいろんな人の助けを借りて、目的地までたどり着いたのだろうか。
 ドイツは春になったばかりで、車窓の外には所々に桜やリンゴの花がやっとほころびかけている。今回わたしたちは、祖父の恩師の墓参りもできた数日間の滞在だったが「外科の大先輩は苦労をしながら4年も留学したんだね。そのルートを辿れて、僕的にはよかったよ」と、夫が微笑んで、総括してくれた。
 (令和6年3月18日) TOPへ

第5回 留学昔ばなし② 父たちの時代


 祖父の留学から四半世紀を経て、父の博もドイツへ留学をした。行き先は北のキールという軍港のあった街の大学である。自分の養子にならないかとまで、祖父を愛した恩師ミクリッチの高弟アンシュツに外科を学ぶのがよいと、祖父の意見に従った。
 欧州まで50日あまりの船旅は博にとっても不安だが、幸いベルリン大学に留学する同級生が同行するとのことで心強い。先に乗船した博は、少し遅れてきた友人の荷物の多さに「何じゃ、それ!」と驚いた。元・黒田藩家老の由緒正しい家柄の友人に、お母上が特大トランクを差し出しながら「武士たる者、自ら下帯を洗うなど許されぬ。留学中の下帯はすべてここに収めた」という。トランクにはぎっしり越中ふんどし2年分が詰まっていた。

 船が出てインド洋に差しかかった時、早くもホームシック気味の二人は夕陽を見ようとデッキに並んでぼんやり海を眺める。ふと船腹をのぞくと、白い布切れがぴたっと船腹に張り付き波にそよいでいる。「アレ、俺のフンドシ。毎日使い捨てにしていたら、船に張り付いてしもうて」。恥ずかしげに彼が弁明する。ちょうど偏西風が吹くこの海域では、海に投げ捨てた丁字体の毎日の分が張り付き、何日も船腹から離れず付いてくる。船がスエズ運河に舵を切ると風向きが変わり、ようやく遺失物も海中に消え去って二人はほっとした。

 船はフランスのマルセーユ港に入り、そこから列車に乗り換えて、二人はやっと医学のメッカと言われたベルリンに到着した。特大のトランクも二人で協力して運び、彼の下宿に無事に収めると、昼間二人は北里柴三郎や当時の日本の医学先達者たちが学んだベルリン大学の構内を、口を半開きにして見物して歩いた。何日かの後、心細がる友人一人を残して、博はさらに北の街キールへ向かう列車に乗り込む。目的の駅に降り立つと、大学病院に行く前に、この街に慣れておこうと考えて、港のそばであまりいい環境とは言えない駅前旅館に宿をとった。食事に行ったらレストランのメニューはチンプンカンプンで、仕方なく指さした料理は、固そうな肉の固まりとジャガイモがごろりと皿に転がっており、やたらに料金が高いうえ、給仕のオバサンは不愛想でコワい。
 次の日は、外に出てカモメを追いかけるように歩いて行くと、岸壁近くの港湾労働者たちの利用する屋台が、旨そうな臭いをあたりに振りまいている。北ドイツ独特のがっしりとした体格のオッサンたちが、アツアツの太いソーセージと丸いパンを食べ、ビールをグイっと飲んでいた。「たいへん恐れいりますが、私にもそちらの紳士方が召し上がっているものと同じメニューを頂けますか?」博の文法通りの正しいドイツ語に、オッサンたちは危うくビールを吹き出しそうになり、ソーセージが喉に詰まりそうになる。おそらく彼らから見ると、眼鏡をかけた行儀の良い東洋人のガキと思ったらしく、注文の仕方を教えてくれた。「熱々ソーセージイッチョウ辛子載せ、それと丸パン一個にビール!」。
 ドイツに来て以来、こんなうまいものは食ったことがないと博は感動し、その夜から毎晩ここでディナーをすることにした。オッサンたちから「そんな丁寧な言葉で話さなくていい、俺とオマエは友達だから。ビールはナ、まだ子供なんだから止めとけ」と言う。まさか背広にネクタイの眼鏡の小男が、妻子を持つドクターとは知るよしもない。

 ようやく一週間ほど滞在した駅前旅館を後にして、留学先の大学外科教室に入る。石造りの建物の中はひんやり冷たく、周りの壁に架かった沢山の額ぶちの中から、医学のレジェントたちが立派なヒゲも厳めしく見下ろす視線に背中が氷つく。ベンチにうつむいて座る博をチラ見しながら通る白衣の人々は皆、背が高く脚が長い。突然、目の前のドアが開き名を呼ばれた。ひときわ立派な体格の女性に導かれ入った部屋は教授秘書室で、さらに奥のもっと立派なドアを女性がハンマーで叩くようにノックする。
 扉の中に押し込まれて入った直立不動の博を、大きな机から立派な人が突然立ち上がり、子供のように抱き上げながら大声をあげた。
 「オー、よく来たなあ、オヤジさんそっくりだ。父上はお元気か?」ハグされながら、繰り返し練習してきた挨拶の言葉や父からの伝言「アンシュツ教授閣下、昔ご一緒に恩師の下で研究した日々が忘れられません」等という長ったらしい言葉がすっ飛ぶ。同時に船から降りて以来の不安も心細さも飛んでいき、目から熱いものが溢れた。教授はテキパキと秘書に、これから2年間を過ごす研究室の上司と同僚たちへの紹介と下宿の手配まで、指示を出して万全を期してくれる。
 少しずつ研究室に慣れてくると、看護師や研究助手の女性たちが「ドクトルヘン(ドクターちゃん)」とニックネームをつけ、まるでペットのように面倒をみてくれるようになった。歓迎パーティーをすると言われ、行ってみるとアルコール度の高い地ビールや地方名産のジャガイモ焼酎シュナップス、そしてダンスが待っていて、いずれも博の苦手なものだ。手を引っ張られ女性と組むと、博の頭は彼女らの巨大なバストの下にあり、ポルカにのって引っ張りまわされ窒息しそうだ。以降ダンスと聞くと机の下や書庫の陰に隠れ、逃げ回った。

 「やっと下宿に落ち着いた」と、ベルリンの友人に手紙を書くと、待っていたかのように返事がきた。
 「あの後、オレも無事に過ごしている。ひとつ教えてくれたまえ。実は先日、下宿で夕食を取ったら、レストランのように皿の上に真っ白いナプキンがきちんと畳んで載っている。広げるとヒモまでついていて絶句した。それはまさに昨夜取り換えて、ゴミ箱に捨てたオレの越中フンドシではないか。下宿のオバサンはそれを拾いあげ、洗濯して、ぴんぴんに糊付けし、アイロンまでかけてくれたのだ。オレはオバサンに言うべきか、今後どうすればよいか、君ならきっと教えてくれるだろうな」
 ドイツへ来て以来、はじめて腹を抱えて声を出して笑った博が、どう返事をしたか聞きそびれた。
 (令和6年3月29日) TOPへ

第6回 わたしと食


 テレビは食の話ばかり、「人はパンのみにて生きるにあらず」など、どこ吹く風で、もしかして味オンチかも知れないユーメー人が口に入れた途端に発する食レポは信じ難い。半世紀前に遡ると、食を含めた人間の本能を人前にさらすことは恥とされていた。今日では全てオープンになりつつあるのを悪い傾向とは思わない。ただ災害地の避難所でレトルトパックを押し頂く高齢者や、遠いガザで大きな濡れた瞳に思いを込めて枯れ木のような手で鍋やボウルを差し出す沢山の子供たちの映像をみるのは、食物が溢れるわれわれには落差が大き過ぎ、とても辛い。平和な日本ゲンジンは「腹減った」という感覚はあっても「ひもじい」という切実さを持ち合わせていまい。半世紀以上前の戦争で日本中がグシャグシャになった時、一部の特権階級は例外で、全員がひもじく飢餓の状態にあった。戦後になると、昨日まで敵のアメリカ兵に、ガザの子供と同じ目をして手を突き出し「ギブミーチョコ」とねだったことも忘れている。
 空襲で家も家族も失ったわが家は、地方の造り酒屋さんの離れを借り終戦を迎えた。耕す田を持たない町場の人間は、わずかに手元に残ったものを物々交換して日々の食物を手に入れたが、日本中の大人も子供も腹っぺらしであった。ある日わたしはひとりで酒屋の広大な屋敷を冒険していると、酒蔵の裏にゴミの混じった酒粕の山に行き当り、そこから漂う甘い匂いが腹ペコに沁みいった。指先を突っ込んで舐めるとほんのり甘くなかなかイケそうで後を引く。たちまち体中は火事が起こったようで、流石にヤバいと思って家に戻り、茹でたトマト状態のまま、団扇を手に「アッチイ、アッチイ」と、廊下で伸びた。心配そうにのぞき込む母に「お山のように積んであったの。オイシかったけど食べたのは本当にちょっとだけだからネ」と告白する小さなヨッパライに、母は恐い顔で「拾い食いはダメと言ったでしょ。あ~情けない」と泣いた。
 隣の農家のオバチャンが、内職で藁草履や真綿で編んだチョッキを作り近隣を売って周っていた。が、ふと閃いて、可哀想な疎開っ子をセールスに連れて歩くと売り上げが伸びると思いつき、就学前のヒマしてるわたしを借り出して行商に連れ出した。「アンタ何も話さんでいいからね」と念を押して、大きな農家の門をくぐる。縁側でセールスするかたわら、空襲で祖父母が焼け死に全てを失った一家の面倒をみていると物語るが、一軒訪ねるたびに「ウソ! そんな事なかったよ」と、当のわたしが驚くほど、お涙頂戴の作り話が加わる。どこの家でも売り上げが伸び、口演料として時分時には食事を、そのうえ当時貴重品の甘い物まで持たせてくれたものの、大きな葉っぱに載ったドングリ団子は甘くなくジャリジャリして不味かった。でも、ギュッと握って手形が付いたスイトンはコシが強くて美味しかった。帰宅後、分け前を差し出しながらオバチャンの話をレポートすると、母は「あ~情けない」と、またまた泣く。
 終戦の前年に重症の腎盂腎炎になって以来、母はすっかり体が弱くなり疎開先での農作業の手伝いも、ドラム缶の風呂を沸かす焚き付けを採りに行くにも、物々交換で買い出しに行くことも出来ないと、弱い自分をメソメソと責め続ける。そもそもは隣組から行かされた田植えで、生まれて初めて田んぼに素足を長時間入れると冷えきってしまい、トイレに行きたくても皆がするように畔の隅でモンペを下ろしお尻を突き出して用を足す勇気が出ず、我慢し続けたのが病因といわれた。疎開してから出来ることは家族の食事作りだけと、懸命に、分けてもらった芋蔓や野草の雑炊、太陽熱で発酵させて焼く酒粕パン、大家さんが獲ってきてくれたタヌキの、強烈な臭いも我慢して狸汁を作ったが、わたし的には一見高級割烹感覚で綺麗に丸めた柔らかなスイトンより、行商先で食べた手形付きのスイトンが、数段美味しいかった。
 疎開生活を切り上げ街に戻ったのは小学2年生で、学校給食が始まった。戦勝国アメリカから哀れな敗戦国の児童に救済のララ物資として贈られた脱脂粉乳も、蛋白源のクジラやトドの肉もタヌキと同じ臭いで、苦手だった。給食で美味しいと思ったことがなく、給食のない日に自宅から持って行くわたしの弁当箱はアルミニュウムの両側にパチンと留め金の付いたおかず入れ一個で足り、要するに食が極端に細い。その訳は既に発症していたらしい肺結核のせいで、中学入学と同時に発見され即一年間の療養を申しつけられた。当時の一般的な病院食は、そこに勤務する父が憂うるほど栄養価に欠け、あばら骨丸見えのギスギスに痩せた栄養失調児の娘を入院加療させるより、自宅で母の手料理で治そうと、父母は決意する。二人の脳裏には、わずか17歳で亡くなった、同じ病気のたった一人の弟の顔が浮かんでは消えた。
 駅頭でオジサンが瓶の牛乳を飲む姿さながら、母は毎食ガス台の前で、肘を張って片手を腰におき長い菜箸を操って、栄養価の高い物を腕によりをかけて造り、わたしが食べないと目を三角にした。そもそも母は、美食家と言われた祖父から受け継がれた舌と、嫁して姑から教えられた料理の腕で、食材を厳選し魚は活きているもの、肉は最上の物を求めたのでわが家のエンゲル指数は異常に高かった。後年、江の島水族館での母は「あら、この魚、大きさも色も美味しそう」という視点で鑑賞したが、牧場では「あら、美味しそうな牛」とは流石に言わなかった。
 父は実家で長男として超スパルタ教育を施され、弁当のおかずはきんぴらごぼうだけで育ち「結婚するまでロクな物食べてなかった」が、母と一緒になるとあっという間に「美味い、不味い」が分かるようになったそうだ。ただ父の実家の晴れの日はいつも祖母のコース料理で、代々受け継がれている。前菜に鶏のレバーと卵のカナッペ、メインに鶏や七面鳥の詰め物をした丸焼き、圧巻はアイスクリームのデザートで、母が料理中、兄とわたしが懸命に塩と氷の入ったボウルの中の卵や生クリームを入れた海苔の缶をグルグル回して固まるのを楽しんだ。
 アレルギーのあるわたしに、タンパク質を摂らせようと母はがんばる。青背のサバやアジは鬼門で、たちまち背中や足が蕁麻疹でプクプクに腫れ、かゆみ止めの薬剤が発展の時代、母はミントの結晶をアルコールの沁みた脱脂綿に付け、痒い所に塗って痒みを止めてくれた。
 母が73歳の秋、日本列島に大型台風の接近をテレビが伝えていた。前日、O型の血液型占いそのままの父は「大丈夫だよ。ジェット機は風がないと飛ばない」と言いながら同窓会出席のためルンルンで九州に出発する。西宮の留守宅で母は、大好きなキンモクセイの花が揺れる中、独り、彼岸へ向かって旅立った。
 九州からの便は飛行機も列車もストップし博多に足止めされた父は、翌日に鈍行でようやく母の許に戻って、東京からわたし達一家も駆け付けた。棺に収まった母を囲んで、家族は初めて空腹に気がつく。冷蔵庫を開けると、みんなが大好きな母オリジナルの俵型コロッケが整然と20個が作ってあり、揚げられるのを待っていた。母の好きな酒の燗をしながら兄がつぶやく。「通夜のご飯、用意して死んじゃう人も珍しいね」。
 今年も、もうすぐ母の日がくる。
 (令和6年4月16日) TOPへ

第7回 わたしと相撲


 相撲を語るには、スモウそれぞれ一文字10年ずつ、計30年かかると専門家が言った。とすると、わたしは既にその2倍半の75年も、相撲について語り続けているということか。ラジオの実況放送を胎教にして出生し、相撲好きの家族に囲まれて育ち、初めてお相撲さんを目の当たりにしたのは、地方巡業で、控え力士の真後ろに父と座った5歳の時だ。その後、日本が戦争に突入すると、娯楽スポーツなどの楽しみを忘れて暮らさざるを得なかった。
 ようやく戦争が終わり、生活が落ち着くと、ラジオの相撲放送も始まり、わが家の相撲熱も徐々に復活した。関西の大学に進学した兄の帰省を待ち受け、父の兵児帯へこおびを締めて広い座敷で相撲を取るのが何よりの楽しみになっていた。兄は蹲踞そんきょの構えや四股しこ、すり足、立ち上がっての組手や48手の解説を交え相撲のノウハウを伝授してくれた。
 初めて本場所に連れて行ってくれたのも兄だった。結核との闘病生活を終え、ようやく癒えたわたしに、父母は「よくがんばった」と大阪場所観戦を企画して、博多から大阪まで8時間の特急列車の切符と、伝手を頼んで手に入れた桝席の券をご褒美と言って渡してくれた。母が「大阪駅にお兄ちゃまが、必ず出迎えてくれるからネ。プラットホームで動かないで」とくどくど言うのを聞き流し、動き出した列車の揺れと車窓からの風景は解放感が満ちた初めての独り旅だった。
 約束通り大阪駅で待つ兄と無事出会い、郊外電車を乗り継いで30分、泊めてもらう親戚の家に向かう。駅で兄は慎重に、翌日の大相撲会場の大阪体育館までの電車のルートと時間をチェックして手帳に書き込んで「うれしいだろ、ボクも戦後はじめての大相撲観戦だ、うれしいね」と、ブギのリズムを口ずさみながら親戚のお宅に到着した。
 翌日の早朝、駆けるように駅に着いた時「この時間なら序二段あたりから見られるぞ」と、ポケットに手で入れ切符を買おうと探っていた兄が突然、絶叫する。「ナイ、ナイ、ナイ! 財布と相撲の入場券、どこやった?」キビシイ目線をわたしに当てるが、大切な金品は兄の管理だ。今来たばかりのルンルンの道を二人で駆け戻ると、キチンと畳んだ布団の上に、財布と入場券を発見した。
 息も絶え絶えで会場に到着し、ようやく幕下の取り組みに間に合った。見るもの聞くもの、すべてがわたしの五感に突き刺さり、その日の結びの大一番、栃錦vs大内山の激戦まで、その日一日、自分が呼吸をしていたか、どんな食事をしたのかすっかり忘れたが、本場所の雰囲気の隅々まで未だに記憶している。
 相撲の面白さを教えてくれた兄は未熟児で生れ、痩せっぽちの小学生時代、メンコやベイゴマはそこそこできたが、相撲となるとからきしダメで、家でお手伝いさんに庭に大きな〇を描いてもらい「ネエヤは羽黒山だよ、僕は双葉山」と挑戦した。漁村出身で筋肉系、10人きょうだいの総領であるネエヤは、「わたしは加減をしませんからね」と着物の裾をからげて応じ、兄は、いつも何度も転がされてベソをかく。「双葉山が負けるはずないんだよ」と言っても、ネエヤは忖度してくれなかったという思い出を、兄は持っていた。
 相撲の神さまが本格的にわたしに舞い降りたのは、わたしが中学生になった頃で、テレビの放送もなく、新聞、ラジオ、相撲雑誌だけが情報源で、星取表や力士の情報をスクラップブックや大学ノートに自分で細かに記録する。ラジオの相撲中継が伝えるその日の勝敗を早く知りたくて、勝敗と決り手を記録するよう母に頼んで学校に行った。アナウンサーが取り組みで盛り上がって伝えるその時間は、夕食準備に忙しい母の記録に幾番かの抜けがあり、帰宅後わたしがクレームをつけると「なんで私が星取りを付ける義務があるの」と怒られた。だって宿題や予習復習の前に、それを記録しておかないと落ち着かないんだモン。
 福岡で1957年から大相撲九州場所が開かれることになる。目覚まし時計の大音響にさえ反応しないわたしは、遠くの相撲会場から一番太鼓がトーンと響くと飛び起きて、いつもより小一時間早く家を出る。近くのお寺に人気絶頂の若乃花を擁する花籠部屋が合宿し、通学路を迂回して土俵囲いのテントの隙間から朝稽古を覗き見てから学校に向かう。その部屋の朝稽古は激しく、部屋頭の若乃花が竹箒の穂先を束ねて持ち立っている。若く有望な若秩父や大豪の尻は、既にお猿のように真っ赤っかで箒の痕が付いていた。投げられ、倒されても、倒れても「もう一丁」と解放されず、足腰の鍛錬のために繰り返す土俵上の稽古はイジメではない。角界一厳しいと言われた稽古を目の当たりにできた経験は宝物だと思う。
 わたしは後に様々なアスリートと話す機会を得たが、「昔はよく上からぶん殴られた。その理由は良い成績をあげるためとか、成長のためとかいうのではなく、腹立ち紛れなどでやられた。それが後々の為になったとは思えず、恨みだけ残って、良いことなかったな」と聞いた。単なるイジメのパワハラではスポーツマンを強化できない。
 昔、系列の部屋が一緒に全国津々浦々へ地方巡業をした頃、土俵では関取の取り組みや相撲甚句、初っ切りなどで本場所を観られない人々を楽しませた。早朝には関取衆が土俵を独占して稽古するので、至る所で土俵に見立てた丸を地面に描き、若い衆は基礎の四股、摺り足や申し合い等、いわゆる山稽古をした。地方巡業を終えた力士は本場所の土俵上で日焼けした赤銅色の肌を艶々と光らせ「この力士は稽古が足りているから今場所は好調」とわかる。最近では地方巡業でも、稽古は屋内で、スポ―ツ力学に適ったものが多く、肌の色で本場所を占うことは難しい。力士の身体は丸くフワフワ柔らかいようだが、太鼓腹の中はがっちりと石のように堅い。体重が多ければ強いわけでは決してなく、その内側に稽古によって培われる筋肉をまとってこそ強い。相撲バアサンから言わせてもらうと、最近は怪我が多いし取り口が荒っぽい、地道な稽古が足りていないのではないだろうか。
 学生時代から相撲村と言われる両国のあちこちの部屋に稽古を見に行った。半世紀近い時が流れても瞼によみがえるワンショットがある。隅田川から吹く初夏の風が、稽古の汗がまだ乾かない乱れ髪と白い稽古まわしにふんわりと浴衣を羽織った関取を撫で、微かに鬢付け油の甘い香りを爽やかに運ぶ。出稽古から自分の部屋にゆったりと歩を進めるのは、幕内に昇進した新進気鋭の初々しい寺尾だった。充分な稽古を終えて汗ばむ力士は、寺尾のようなイケメンでなくても美しい。
 まもなく今年も夏場所が始まる。稽古充分なのは誰だろう。
 (令和6年5月15日) TOPへ

第8回 母さん父さん


 母の日が過ぎ、やがて父の日がくる。母の日にはカーネーションを贈り、では父の日はとサイトを検索すると、酒が一般的とあった。普段ご無沙汰でも年に一度くらい、親に感謝を表してもと思うが、商業ベースの片棒担ぐのは片腹痛い。両親はとっくに逝き、受け取る側になって半世紀が経つが、わたしの宝石箱にはむかし子供たちからもらった、幼い手書きの肩揉み券やクレヨンで塗った色とりどりの宝石がついた紙の指輪などが、色褪せて埃をかぶり、未だに残っている。

 中学生になってひと月経ちクラスにも馴れてきた頃、わたしの前の席がこのところポツンと空いている。次の週明けに、担任教師に肩を抱かれたその子が無表情で教室に戻ってきた。「お母様が亡くなったのでお休みなさっていましたが、今日からまた皆さんと一緒に勉強なさいます。皆さん、この方の為にお祈りして上げて下さい」との声を耳にしながら黙って自分の席に腰を下ろした。5月になると米国の教会に端を発した母の日にカーネーションを母へ感謝のしるしとして贈る慣わしが、このミッションスクールでも伝承され、皆に真っ赤なカーネーションが一本ずつ配られる。だが、母を天国に送ったばかりの彼女に渡されたのは目に染みるような真白いカーネーションで、凝視したあと突然机にうつ伏して赤ん坊のように「ワーッ」と号泣した。初めて彼女の心の叫びを耳にしたクラスメート達は、無言で赤い花をそっと机の下に隠す。時代の変遷と共に今、母の日が一般的な行事として、街のフラワーショップには絵具箱をひっくり返したように色とりどりのカーネーションが並んでいる。
 親もとから遠く離れ大学生になったわたしは学生寮に入った。ホームシックも少し忘れかけ生活に馴れた5月、母の日がきた。みんなで母に感謝の祈りをしましょうと、上級生から声がかかる。選ばれた讃美歌のリフレインで「母は涙 乾く間なく 祈るを知らずや」とまで歌うと、突然、ひとりの新入生から派手な号泣が聞こえた。新寮生はそれぞれ母親の顔を浮かべながら涙を我慢して歌っているのにと、冷ややかな目を彼女に投げる。このような親離れしない新入生に仕掛ける上級生の肝試しは、次年から他の讃美歌が選ばれるようになった。

 わたしの母方の祖母は、送り迎えの人力車で女学校に通いながら、家では教養を深めるために家庭教師について学び、卒業すると鹿鳴館にデビューさせ、しかるべき婿殿を探すという父親の女子養育路線にすんなり乗っていた。だが、一般的に言う嫁入り修業、つまり裁縫、料理などの家事はまったく教わっておらず、いざ遠方の大阪へ嫁に出す時になって、生まれた時から世話してもらった家事のベテランを祖母に付添ってもらうことになった。やがて祖母が次々に産んだ七人の子供たちは、乳離れすると同時にバアヤが芦屋の別荘で引き受け、学齢期まで育て、その後は大阪市内の親もとで、それぞれ家庭教師をつけてもらい学校に行った。幼い日を思い出し「オ母チャマに抱かれたことない。母親の温もりをしらない」とグチるきょうだいさえいる。
 女学校卒業後の母は、二度目の見合いで父と出会った。前の見合いの相手は東京のカッコいい音楽家で一目ぼれした母だったが、席上発した祖父の強引な物言いに相手方の母親がムカつき破談となり結果的に失恋した。次の見合い相手である父は、黒縁丸眼鏡の九州男児で真面目そうではあるものの、まったく面白くなさそうで、両親に無理矢理引かれて博多に連れて来られた母は、終始愛想なく俯いていた。突然相手が「趣味は何ですか」と振ってくる。先端をいく都会派を自任していた母は、ブスッと「テニスです」と答えた。「硬式ですか、軟式ですか」相手がかぶせて聞く。「軟式です」と答えて、ムカつきながら初めて顔を相手に向けると「僕は硬式です」と、真白い歯を見せニッコリ爽やかに笑っていた。このスマッシュを決められ、二人は結婚した。
 新婚旅行で父は、いかに母親に冷たく育てられたか綿々と語って、母の母性本能をくすぐった結果、死が二人を分かつまで円満だった、ようだ。旅行から戻って、実際に九州の福岡に両親と同居することになった母は、姑が旅行中聞かされたような、そんな冷たい人でないと確信していく。実家でまったく家事を教わらなかった母を、嘲笑もせず、様々な家事を手を取るように教えてくれ、それまで習ってきた英会話、茶道や和歌、お客様の多い実家で必要な綺麗な着物着ておもてなし等々より、内向的な母にとっては、姑の日々の授業はずっと興味があった。「まるで吸い取り紙みたい」と姑は面白がって次々に教え、特にこれまで聞いたことのなかった節約や物の再利用など「勿体ない」の精神は、学者の家計にとっていかに重要かと学んだ。
 中年になった父は仕事で行ったパリで、セーヌ川の流れを目で追いながら、同行の後輩に告白した。「母はどうも実母ではない、あの人に愛されたことがないのだ。」なぜ、父はそこまで母親を愛せなかったのだろう。生後まもない父は、祖父が留学中、祖母と共に祖父の実家に預けられた。ほとんど女性ばかりの大家族、いわば祖母にとっては鬼ヶ島で、息子を抱けるのは授乳の時だけ、あとは皆の玩具のように甘やかされ超大切に育てられた。3年後に帰国し九州大学に赴任した祖父が、一家で幸せな家庭を作ろうと祖母と息子である父を福岡に迎えたが、父は母親の言うことに一切耳を貸さない札付きの悪ガキに出来上がっていた。新しい勤め先での仕事より頭が痛かったのが、この長男だったらしく祖父の日記に綿々とワンパクぶりが書き残されている。隣の家の白塀に土団子をぶつける、近所の家の池の鯉をパチンコで追いまわす等、祖母は菓子折りもって近所に謝りに回る毎日で、勤務から戻った祖父にひそひそと報告し、三度に一度は父親の大雷が落ちた。これは超スパルタで育て直すほかないと決意した祖父母だったが、家に住む同い年の親友の書生さんが一足先に中学、大学と順調に合格すると、いずれも落第し取り残された父は合計2年も彼から遅れて初めて目覚め、イタズラ談に幕を下ろし、やがて父親と同じ路を辿って医学者となった。

 戦争は、つましく暮らすわが家にも、母が身体を壊し腎盂腎炎で入院したのを皮切りに終戦間際に祖父母が空襲で亡くなるなど、重大な損害をもたらす。母が入院すると父は2歳のわたしの処遇を持て余し、朝自転車に括り付け勤務先の病院の母の病室まで連れて行き、夜仕事が終わると家に連れて帰る。夜になると、わたしは母親をさがしてビービー泣き困った父は、わたしが生まれた時「なんだ、女か」と言ってしまって母を泣かせて以来、いささかの負い目があって邪険にもできず困り果て、5円硬貨のような自分の乳首に配給の貴重品である砂糖をこすりつけ「オッパイだよ、オッパイだよ」と言ってもわたしは口もつけず泣き続けた。育児経験皆無の父は困り果て、翌日曜日に裏山に連れて行き、当時の動力として使われていた牛の落とし物がそこここに点在するのを見せ「大きいだろう、これは天狗さんのウンチだぞ。泣いていると天狗さんが出てくるぞ」とおどしたりしたが、効き目はなかったようだ。不思議なもので以来、父と娘の絆は少しずつ濃くなっていく。野原に連れて行き草花の名を教え、グリム童話を聞かせ、手を繋いできらきら星を英語で歌いながら過ごした時代は良かった。だが、父にとって娘はいつ何時までも幼稚園児のままで居てほしく、思春期に突入するとその扱いに混乱をきたし、何を考えているのか、新憲法まで引用して、生意気な言葉を親に向かって吐き、反抗期に突入したなどとは思ってもみない。少しでも理解を深めたいと机上のわたしの日記を広げていたら、他人の秘密を盗み見るなどサイテーと母娘で意見一致し鬼のように責めたてられ、「父親が他人とはどういうことだ」と夫婦喧嘩に発展した。
 母は戦争後には体が弱り学校行事をほとんどスキップし、入学試験や編入試験、大学の入試まで、いつも父が付添ってくれた。クラスの仲良し4人組は博多湾の向うに浮かぶ志賀島で高校卒業の別れを惜しむことにした。船に乗り込むと、カメラをぶら下げた父の笑顔がデッキにあって、卒倒するほど驚く。親友たちは島の海鮮丼をご馳走してもらおうと「そげん怒らんで」と言う。もっと参ったのは、母は胆石症の手術後まもなくの為、東京で行われた見合いの席には父がひとりで同行した。案の定、席に付いた父は共通の話題を探した結果、最近行った難しい手術の症例報告を生き生きと始める。仲人の先生、先方の父親、当の見合い相手と医療関係者一同は興味深かそうに聞いている。突然、仲人夫人からチャキチャキの江戸弁で「先生方、ここは学会ではありません、お見合いですよ」と檄が飛び、医療関係者一同と、一緒にわたしも、亀の子のように首を縮めた。
 日本人が父母を呼ぶ言葉は、父ちゃん・母ちゃんからパパ・ママまで、たくさんある。わが家は英国生まれの従兄一家にならいダディ・マミィと、母の趣味で呼ばされた。そんな母が父を置いてけぼりにして一足先に逝くと、八十路を迎えた父はおいおいと泣きながら「マミィは、私の妻だが、母でもあった」と繰り返した。
 (令和6年6月7日) TOPへ

第9回 紫陽花の咲くころ


 家々からこぼれるように、道端で誇るように咲く紫陽花の季節となった。とりわけ雨の多い長崎の街によく似合う。
 幕末に出島のオランダ商館にやって来たシーボルトという医師は、オランダ人でなく幕府禁制のドイツ人だった。故郷ヴュルツブルグの、一族から大学教授を多く排出する代々の医家に生まれ、その医学部を卒業したのちに海外にあこがれ、オランダの東インド会社に就職して、やる気満々のオランダ人として日本にやって来た。本来はシーボルトでなく、ジーボルトと発音する。
 この新進の若手医師は腕がよく出島のオランダ人だけでなく、長崎市内と出島の間に架かる橋を渡ることができない一般人も、幕府の役人が付き添えば受診できた。ある日、役人に連れられ体を壊した若い遊女が出島にやって来た。診察したシーボルトは、一目でその美しさに衝撃を受ける。のちに、腕を見込まれ特例として出島を出て市内の鳴滝村に医学塾・診療所を開設することを許され、彼女を妻として伴った。雨の中、道端に咲く楚々とした儚い色合いの大きな花は、「オタクさ」と呼んで愛する妻の楠本滝そのものだとひらめいたシーボルトは、日本紫陽花の学名を「ヒドランジア・オタクサ」と名づけ学会に届けた。
 近年6月になると、あちこちのテレビ画面ではお笑い芸人の食べもの案内など、平和でフヤケた日本の日常に、思い出したように第二次世界大戦時の過去が急にクローズアップされる。そして、6月の沖縄戦、7月には各都市への空襲、8月原爆投下へと、話題の時を過ぎると、9月半ばには報道から消えていく。悲惨な記憶はすべて水に流し去るのは日本人の特性とある学者は解くが、戦争はどんなに惨いものと言っても若い人々の胸には留まらない。
 戦火で人の命が失われる時、被害者がどんなに立派に生きた高齢者であれ、生まれて間もない幼子であれ、家族を失った人々にとっての悲しみは同じだ。戦うために戦地に出ていった一兵卒の命だから仕方ないと、すんなり諦められるのか。「往って見事に散ってこい」と言うのは簡単で、そう命じた人々の心は痛んだだろうか。慶應義塾の小泉信三が、ネービーブルーの軍服に身を包んだ令息が南方の海で戦死した哀しみを、切々と綴った書物『海軍主計大尉小泉新吉』は何度読んでも辛い。
 アウシュビッツ収容棟の壁一面に張られた犠牲者たちの顔写真から恨みを込めてこちらに投げる眼差し、ベルリンのブランデンブルグ門の近くに、2005年ドイツ自らが贖罪の意味をこめ建設したホロコースト犠牲者記念公園に設置された2711基もの真っ黒で何も書いてない大小さまざまな無機質で冷たい棺桶のような石碑、沖縄の平和祈念公園のあの激戦で亡くなった人々、兵も一般人も沖縄の人も日本人も、アメリカ人も韓国人も、すべての人の敵も味方も一人ひとりの名が母国語表示で整然と刻まれた「平和のいしじ」を海風が撫でるように運ぶ波の音、江田島や鹿児島の知覧に残る、上からの命令一つで生命を投げ出させられた新芽のような若人の悲しみを愛する家族や友に宛てて綴った書状の数々、いずれも後世の人々の訪問と閲覧を待っている。
 もう30年も前、ドイツのロマンティック街道の起点であるヴュルツブルグへ行った。この街の高台にある要塞から見下ろす景色は、まるで長崎の風景のようである。第二次大戦の戦火を浴びたことも似ているが、甘く穏やかで、幸いにも今はまったく平和である。この街からシーボルトが「医」を広めに東洋にやって来た歴史を話すため、ヴュルツブルグ大学のティーデ教授が、長崎で開かれた「2008年日本外科学会」の特別講演に招かれ来日した。教授は、私の夫が留学した北ドイツの大学出身の友人なので、学会の合間を縫って夫妻を市内散策に連れ出し、ヴュルツブルグの丘からの景色に似て、街中が見下ろせる諏訪神社の境内に立った。「オー!」と歓声が同時に二人の口から洩れる。
 美しい平和の景色は人の心をロマンティックにする。
 「ネエ、私たちが出会った時のこと、覚えてる?」夫人が呟きながら、夫を見上げた。
 「ウン、君は16歳だったっけ。僕は医学部のインターンだった」
 ある時、彼は大学のエレベーターを待っていると、扉が開いた瞬間、超可愛い女の子が降りてきた。電気に打たれたように立ちすくんだ彼は、エレベーターに乗るのをやめ、彼女の後を追う。キャンパスに出た所で、彼女は突然クルリと振り向き、彼と向き合い、彼の北ドイツの湖のような真っ蒼な目を見上げて微笑んだ。彼女は、16世紀ヴュルツブルグ出身の彫刻家リーメンシュナイダーが彫った聖母マリアに似て清らかで楚々としている。
 「僕たちは今、戦争のない平和な長崎に来られて、なんて素晴らしいことだろう」。厳ついがっちりとした体躯の彼が、自国ドイツでの、そしてこの長崎で、戦争が残した心の傷を思い出してか目を閉じた。
 手を固くつないで夫妻は、諏訪神社の神殿の前に進む。神鈴の太い綱を持って大きく揺すった彼は、神妙に手を合わせてしばらく瞑目した。
 夫人が聞く「何をお祈りしたの?」
「鈴を鳴らして、日本の神様に電話をしたんだ。家族が元気でいますように、ボクの病院の建て替えが上手くいきますように、そして平和が続きますようにって」
 彼女がわたし達に「ここの神様って、ドイツ語解るかしら」とそっとささやいた。
 (令和6年7月7日) TOPへ

第10回